第2話

 肉を叩く音が洞窟内に木霊する。

 時折金属の擦れる音が混ざるのは、人間だった肉塊が身に着けていたものか。

 粘着質な音に滴る血、粘土を地面に叩きつけるが如く執拗に、原形など当の昔に失われたにも関わらず、なおも金棒を振り下ろす。

 鬼族にとって、死体の損壊は死者への冒涜には当たらない。仮に同胞が同じ目に合わされたとして、彼らは戦死を悲しみ角を捥げなかったことを悔やむことこそあれど、死を辱めた相手への憎悪を滾らせることはない。

 拠点の備品を破壊する訳にもいかない彼らなりの八つ当たり対象に死体が好都合だった。ただ、それだけの話である。


「よくも仲間をやってくれたな、よくも同胞を殺してくれた。奴には帰る場所があった、妻と子もいた。

 戦場で死ねば角は彼らの手に渡らない。どうしてくれる、人間」


 戦死した鬼族の角は上官が捕食するのが通例。

 可及的速やかに力が求められる環境下で、伝統を押し通すことは愚の骨頂。そして戦死した彼自身も、事前に死ねば角が家族の手に届かないことを承知の上で参加している。

 理性では理解出来ても、感情が追いつくとは限らない。

 だからこそ執拗に、念入りに、徹底的に、彼を殺めた肉塊を磨り潰すのだ。

 そして右に握る金棒を再度振り下ろそうとし。


「止めろ」


 凛とした声音に制止を促される。

 鬼が歯軋りを立てて振り返ると、背後に立つは異質な少女。

 鬼族の標準たる真紅とは異なる、色白の肌。女性らしく右から生やした一本角は、悪魔を連想させる漆黒が渦を巻いて天を突き刺す。胸元辺りまでの短い丈の黒フードにサラシを巻き、王国での流行りと太股すら隠し切れぬ短さのズボン。

 鬼族の一員よりも、王国に居を置いた方が相応しい服装の少女は、短くかつ乱雑に切った白髪を揺らす。

 上官の命令が聞けないのか。

 そう言いたいのがありありと伝わってくる。


「ムクロドウジ……」


 怨嗟。憎悪。警戒。敵視。

 あらん限りの悪感情を注ぎ込み、鬼は少女の名を口にする。

 様、と端的につけ加えるムクロドウジの姿勢もまた、彼の悪感情を徒に煽った。

 しかし、彼女の主張を無視する訳にもいかない。

 震える右腕を反対の腕で掴み、渋々少女が進む道を開く。悠々と歩く彼女へ注ぐ視線に、悪意が混ざったことはいうまでもない。


「これがアラタを討った男か」

「えぇ、奴の仇ですよ」


 ムクロドウジの視線の先には、甲冑の破片が入り交じった肉塊。

 骨と肉の境目すら曖昧な様相を呈しているものの、初撃で吹き飛んだ下顎と青の眼球だけは比較的原型を保っていた。

 尤も墓標の如く立てられた歯車とそれを掴む手の紋章が描かれた大盾と、本来は鞘代わりに収納されていた大剣の方が余程対象の識別には役に立つが。

 白磁を思わせる純白の指が眼球を拾い上げる。自然と触れた部分が朱に染まるものの、少女が気にする素振りは皆無。むしろ小さく舌を露出し、まさか舐めるつもりかとすら見る者に抱かせる始末である。


「青……どこまでも透き通る、砂浜から見た海辺というのは、こういう色をしているのだろうな」

「はぁ……」


 何が言いたいのか。

 部下の溜め息に込められた困惑は、正確ではなかろうともムクロドウジには伝わる。

 そして少女の口元が喜色に歪む。

 戦を遊び、戯れに種族を弄ぶ鬼族に相応しい笑みを。


「いい目だ。混血体キメラの素材には相応しい」

「はぁ? 正気か、アンタはッ?」

「どうしたオボロ、上官への言葉ではないな」


 眼球を手放すムクロドウジへ、オボロは思わず声を荒げる。


「コイツはアラタの仇だぞッ」

「だからだ。私達が同胞を討てる存在なら、即戦力として申し分ない」

「敵として殺したヤツだ。間違いなく裏切る!」

「今は数が欲しい。多少の悪戯など大目にみる程度にはな」

「信用できるかッ!」

「信用しろ」

「断るッ!」

「……水掛け論で感情論、上官を説得するには程遠い」


 オボロの訴えを他所に、ムクロドウジは右手を見つめる。

 岩肌を剥き出しにした天然の要塞を攻め込まれ、貴重な人員も一鬼失っている。本拠地へ撤退しては彼女自身の目的を果たすのが遠退く以上、背を向けて逃走する選択肢など存在しない。

 嘆息を一つ、右手で角の先端を撫で。


「ッ……」


 手の甲に穴を開け、漆黒の巻き角に朱を滴らせる。

 半端に食い込んだ手をもう一段押し込めば、僅かに散った鮮血が視界の端を駆け抜けた。

 勢い任せに引き抜けば、穴の広がる感覚も示す通り、栓を無くした瓶よろしく多量の血が噴き出す。当然すぐ側で骸を晒している肉塊にも返り血が付着し、高濃度の魔素が溶け込んでいる血に反応するかのように仄かな光を帯びた。

 ふと、やるべきことを忘れていたと空いた手を胸ポケットに突っ込み、目的のものを探る。

 怪訝な表情で一部始終を見ているオボロも、やがて眼前に突き出される拳には動揺を示した。


「忘れていた。これはお前にやる」


 拳の内に隠れていたもの。

 それは、一本の角であった。強引に抉ったためか、丸みを帯びた側を中心として所々に血肉が付着している。

 即座に手を伸ばす。

 が、角を掴む寸前で反対の腕がオボロ自身を制止した。


「賄賂か?」

「何の話だ?」

「決まってる。これで納得しろということだろう」

「ヒハッ」


 オボロの推論を聞き、思わずムクロドウジは哄笑を上げた。


「妄想逞しいなぁ、ヒハハハ……!

 笑わせるなよ、血が漏れるだろう。ヒハッ……!」

「何が可笑しい!」


 語気を強めて詰問するも、それすらも道化の仕草かとムクロドウジは大笑を続ける。彼女としては天を仰ぎ見ないだけまだマトモに取り合っているつもりなのだが、肝心の相手には伝わっていない様子。

 故に右手で顔を覆うと、白磁の肌を血で汚して言葉を紡ぐ。


「そんなのじゃない。私だけが突出していてもしょうがないだろ、だから少しは昔話を信用してみようという話だ。

 尤も、強制はしないがな」

「……」


 オボロは沈黙し、答えを返さない。無言の数刻を肯定として受け取ると、ムクロドウジはポケットからもう一対の角を取り出し、口へ放り込む。

 木の実でも口にするかの気楽さで角を噛み砕き、奥歯で磨り潰して咀嚼する。角は骨の一部である以上、繊細な味付けなど期待はできない。事実、彼女が味に由来する表情の変化を起こすことは、オボロ視点では皆無であった。

 口に残った分を飲み込むと、少女は意識を付近の部下から眼前の肉塊へと移す。飲み込んだ途端に湧き上がる力は、アラタが元来保有していた魔力が体内に溶け込んだ結果か。

 滴る血は時間を経たためか、僅かに凝固の動きを見せていた。仕方なしに掌を噛み、傷口を抉ると右拳を仇敵だった肉塊の真上へ掲げて、掌を開く。

 解き放たれた真紅の血が肉塊を染め、下顎を潤し、そして眼球に光を灯した。

 言葉を差し込む余地は幾つもあった。それでもオボロが逡巡したのは、亡き友の角を譲り受けたためか。


「──祖は群れなして禁忌を喰らう蛇。我は獅子に従う鷲の一翼」


 心の内より湧き立つ祝詞に従い、ムクロドウジは第一小節を言祝ぐ。


「混ざり、淀み、純血は黄昏を越えて宵闇を知る」


 第二小節に続き、肉塊が僅かに蠢く。

 自らにかけられた血を取り込み、肉体を再構築する原料とすべく。

 同時にムクロドウジと肉塊を取り囲むが如く浮上するは、古代文字で描かれた祝詞の一小節。高位の魔法では行使中に零れた余剰魔力だけで、限定的な事象干渉が発生するのは常。

 しかして、それはいわば魔法の前借にも似たものであり、文字列が視覚化されるなどオボロも聞いた覚えがなかった。

 極限の集中へと至り、世界から自らと肉塊以外が消え去ったムクロドウジだけが、発生した事象に意識を阻まれることもなく祝詞を続ける。


「調和をここに。泥水に聖血を一滴、雑味を整え、真なる道筋を」


 祝詞に従い、古代文字が円環を描く。

 ムクロドウジと肉塊。二つの魔法陣に互いが干渉し合い、円環同士が火花を散らす。

 最初は文字列を追える程度の速度であった円環も、今では唸りを上げて高速回転を繰り返す。

 魔法陣も用意しない即興の儀式の本質は、古代文字そのものが魔法陣を形成するという意味か。

 目の前で起きた光景にオボロがただただ圧倒される中、ムクロドウジは頭の片隅で現状を纏めていた。


「我ら、獅子と溶け合いし群体。新たな轍を刻みし繁栄の祖なり──!」


 詠唱が終わり、そして光が弾けた。

 失明を疑う眩さに、純白に染め上げられた光景。洞窟内の清掃を行っていた部下も突然の出来事に、まさか先程の襲撃者がもう戻ってきたのかと混乱を深める。

 眼前で奇跡を目の当たりにしていたオボロですら状況を理解していないのだ。彼らが騒ぐのも自明の理。

 例外は一鬼。

 ムクロドウジだけは手の甲に空けた穴から血が吸い出され、そして急速に回復していく感覚で確信を深めていた。

 儀式の成功を。

 混血体の生誕を。

 初めての部下が誕生したことを。

 やがて、夜明けの如き閃光も収束を始める。

 その場に立つ、灰の髪を腰まで伸ばした野性味のある男を映し出すために。

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