第8話 夕暮れ時。二日目。
鍋にかけていた布を取ってみると、こねて寝かせておいたパン生地はいい感じに丸く膨らんでいます。たまった空気を抜くように生地を押してから、4等分にしてひとつずつ丸めなおし、また鍋に並べて布をかけます。もう少し待つと焼けるようになります。
「…くん、にたくん、」
家の外から声がしました。
はいはい、と扉を開けると、日辻さん姉妹です。
「仁多くん、おうちにいたのね、よかった。」
「よかった。」
心なしか元気のない声です。
「どうしました?」
早めに帰ってきてねと言われていたことを今思い出しました。なにか用事でもあったのでしょうか。
「どうもしないんだけどね、仁多くんいるかなって思ったの。」
「思ったの。」
「なんだか怖い人がいるんじゃないかと思ったの。」
「怖い人いないよね、仁多くん。」
「いませんよ?僕一人です。」
さっきまでマロードのケイさんがいましたが、ケイさんは別に怖い人ではありません。この辺では見ない人なので、日辻さん姉妹は人見知りしてしまうかもしれませんが。
「ちょっと待ってくださいね。パンを焼きたいので、火にかけたらブラシお願いします。」
「そうよね。待ってる。」
「待ってる。」
日辻さんたちはあまり家の中には入ってこないので、仁多くんは扉を開けたまま作業の続きに取り掛かりました。
暖炉の火が小さめにとろとろと続くように薪を組みます。鍋で休ませておいたパンが再び膨らんでお互いくっつくくらいに大きくなったのを確かめて、火から遠めのところに鍋を設置します。このまましばらくゆっくり焼けば、三日分のパンの完成です。
「では日辻さん、順番にお願いしてもいいですか?」
焼き上がるのを待ってる間に、日辻さんたちの毛を梳かせてもらいます。
「どうぞ。」
「どうぞ。」
日辻さん姉妹は静かに並んで立ってくれています。
仁多くんは荒く隙間の空いた櫛で日辻さんの毛を梳きます。日辻さんたちは草原で暮らしていて、天気のいい日は草の上にごろごろ転がるのも大好きなので、毛の間には枯草が混ざっていたりします。細い毛が絡まって玉になっていたり、汚れがついて固まっていたりするところを、痛くないようにそうっとほぐしながら、櫛をかけていくのです。
「日辻さんはブラシかけるの久しぶりでしたっけ。」
「二か月くらいかしら。」
「三か月くらいかしら。」
日辻さんと一口に言っても、いろんなご家族がいます。この姉妹とそのご家族は比較的白い毛の方たちなので、しばらくは白い毛糸が取れることでしょう。
ちなみに日辻さんたちにはそれぞれ個別のお名前はありません。なんとなくお母さんとかお姉さんとか末っ子くんとか、その時々に合わせて呼ぶこともありますが、みなさん日辻さんです。仁多くんも顔立ちでなんとなく見分けている程度です。
荒い櫛でほぐしたら、先が鈎状になった細い歯が無数についているブラシを使います。軽く細かく何度もブラシをかけることで、日辻さんの余分な毛がうまい具合に取れていきます。
「仁多くんのブラシはいつも気持ちいいわね。」
「そうですか、ありがとうございます。」
「かけてもらったあとはなんだかすっきりするの。」
「私も早くかけてかけて。」
「待ってくださいねー。」
ブラシをかけることで古い毛を落とし、日辻さんはさっぱりするし、仁多くんは毛をもらえてまた編み物ができます。お互いになくてはならない関係なのです。
「そういえばさっきすごい話を聞きました。」
「なに。」
「なに。」
「たぶんずっと遠いところから来られた人の話なのですが、その方の住んでいたところでは、こんな風には日辻さんの毛をもらわないそうなのです。」
「どうするの。」
「どうするの。」
「まず日辻さんにひっくり返ってもらってですね、」
そこまで言ったところで、もしかしてこれはあまり日辻さんには言わない方がいいのかな、と仁多くんは思いました。今も日辻さんはまっすぐ立ってブラシをかけさせてくれています。ひっくり返して身動き取れなくして、なんて、とても失礼だし恐ろしいことです。
「ひっくり返るの?」
「どうしてひっくり返るの?」
「いや、いいんです、ちょっと不思議なやり方みたいで、僕もよくわからなくて、いろんな人がいるんだなぁと思ったって話です。」
「ふうん。」
「ふうん。」
あまり無闇に日辻さん姉妹を怖がらせてもいけません。仁多くんは話を濁しておくことにしました。
少し日が傾いて、影が長くなってきました。空には雲が増えて来ていて、時折日がかげったり、また晴れたりを繰り返しています。日辻さんの毛をほぐしたり梳いたりしていると、日辻さん特有の香ばしい香りがしてきます。干した草のようなお日様のような香りです。
ほぐした毛を集めておくための袋に入れようとしていると、固まりがころころと転がっていってしまいました。
「おっと、」
風が少し出てきたようです。転がった固まりをつかまえると、ふわりと不思議な香りがしました。日辻さんの毛の香りもしますが、もう少し重たいような甘いような香りです。
「仁多くん。」
見ると、日辻さん姉妹も不思議そうな顔をしながら風上の方を見ています。ちょうどこれから日が沈んでいこうとしている方向、西の方からその香りは漂ってきました。
「なんでしょうね、…あ!」
突如、仁多くんは思い出しました。
「パンを焼いてるの忘れてました!」
慌てて家の中に戻り、火から鍋を下ろします。
おそるおそるふたを開けてみると、いつもより色は濃くなってしまいましたが、かろうじて食べられる範囲のこんがりパンができあがっていました。
「あぶないあぶない。」
鍋からパンを外して、粗熱が取れるまで網の上で冷まします。
「お待たせしました。パンはなんとか無事でした。」
言いながらまた外に出ると、日辻さん姉妹は先ほどと同じ態勢のまま、険しい顔で西の方を見ています。
「日辻さん?」
「なんだか嫌な匂いなの。」
「なんだか嫌なの。」
日辻さん姉妹の声は暗いです。
「よくない匂いだのう。」
突然、背後から甲高いしわがれた声がしました。
「ひゃっ、」
仁多くんは驚いて、軽く飛び上がりました。
「宇崎さん!」
宇崎さんはそんな仁多くんには構わず、日辻さん姉妹の隣に立って同じように西の方を眺めました。
「お嬢さんたち、仁多くんのお手入れはもう済んだのかの?」
話しかけられて、日辻さん姉妹は振り向きました。
「どうだっけ。」
「終わったんだっけ。」
「もう少しで終わりますよ。」
仁多くんが応えます。
「もうちょっと毛並みを整えさせてもらって、集まった毛を袋に入れてしまえばおしまいです。」
「お嬢さんたち、今日はこのまま仁多くんの家の近くにおりなさい。」
宇崎さんが言いました。
「そうなの?」
「どうして?」
宇崎さんは仁多くんの方を振り向いてにやりとしました。
「うん、今日は仁多くんの葉っぱがおいしい日だそうだからの。」
「え、ちょっと、」
仁多くんはそんなことは聞いていません。
「そうなの。」
「じゃあそうするの。」
日辻さんたちは嬉しそうです。
あんまり食べ過ぎないでくださいよ、と言いながら、集まった日辻さん姉妹の毛を仁多くんは大きな袋に入れて、家の中にしまいました。本当は畑のものは食べてほしくないのですが、日辻さん姉妹がせっかく嬉しそうにしてくれたので、今回は仕方ありません。
仁多くんは焼き上がったパンに昨日のチーズを乗せ、お芋を蒸かしたものを食べることにしました。
「宇崎さんもご一緒にいかがですか?」
「うむ。」
うなづきながら、宇崎さんは辺りをきょろきょろと見まわしました。
「ところで、クローバーはあったかの。」
「あ、」
仁多くんは今日もクローバーを採るのを忘れていました。
「すみません、今日も見つけられてなくって、」
「うむ。」
宇崎さんは家の中に入ったと思ったら、また出ていこうとしています。
「ちょっと、探しに行くかの。」
「え、クローバーをですか?」
「うむ。」
宇崎さんは真剣な面持ちです。
「あれがないと困ることがあるんでの。」
「そんなに大事な食べ物だったんですか。僕もっとまじめに探しておけばよかった。ごめんなさい。」
「いやいや。」
外は少し暗くなってきていましたが、仁多くんも一緒に家の周りを探すことにしました。探してみるとないものですが、川や畑などのよく行く場所からは少し離れた草原の片隅に、小さな群落を見つけることができました。
「このくらいで足りますか?」
クローバーの葉を摘みながら仁多くんは宇崎さんに尋ねました。
「うむ。うむ。今日はこのくらいでよしとするかの。四つ葉があったらもっといいがの。夜だと見えんのう。」
「あー、そうですね。」
辺りはだいぶ暗くなってきてしまっています。群落の中からわざわざ四つ葉を探すのは大変そうです。
「仁多くん、すまんがの。明日ももうちょっと探してくれんかの。ほんで紫のクローバーも見つけられたら一番なんだがの。」
「紫ですか?」
それはさすがに仁多くんも見たことがありません。
「うむ。うむ。あったらでいいからの。あったら嬉しいの。」
「わかりました。気を付けてみます。」
「ところで聞いてもいいですか?宇崎さんはどうしてそんなにクローバーを探してらっしゃるんですか?」
「うむ?」
「そんなにおいしいんですか?」
「うむ。」
宇崎さんはじっと真面目な顔で仁多くんの目を見つめながら言いました。
「お通じにの、よく効くんじゃ。」
ひつじさんたちと暮らしながら編み物をしています 紫水 翠 @shisui_green
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