第4話 夕暮れ時。一日目。

「お母さん、仁多くん!仁多くん!」


 ちょっとした木立と草叢を抜けて家が見えてきたと思ったら、日辻さんちの末っ子くんがこちらを見つけ、大きな声を出しました。


「仁多くん、仁多くん、お姉ちゃんたち見なかった?」


 転がるように仁多くんの近くまで駆けてきて、せわしなく跳ねながら末っ子くんが聞いてきました。


「お姉ちゃんたち?朝に会ったよ。たしかタンポポをどっちかが食べちゃったとかでもめてて、」

「違うの違うの、朝はいなくないの。今お姉ちゃんたち見なかった?」

「え?」


 どういうことだろうと思っていると日辻さんちのお母さんがやってきました。


「仁多くん、お帰りなさい。」

「あ、ただいまです。」

「うちのお姉ちゃんたちがね、お昼過ぎから姿が見えないのよ。」

「え?」

「ほら、あの子たちいっつもくっついててよくしゃべるでしょ。多少遠くにいてもなんとなく声がするから放ってあるんだけど、今日はお昼くらいから声が聞こえなくなったような気がして、あたりを探してみても見当たらないのよね。仁多くんをお迎えに行ったのかしらと思ってたんだけど、どこか途中で会わなかった?」


 途中で会うどころか、今日の帰り道にはどの日辻さんにも出会いませんでした。考えてみればそれも不思議なことです。仁多くんの家のあたりから市場近くまである広大な草原には無数の日辻さんたちが暮らしていて、ちょっと歩けばだれかしらに出会うのが常なのです。

 たしかに朝、出かける時には日辻さん姉妹とお話をしましたが、帰りにはどなたにも会っていません。


「おかしいですね。」


 冒険好きですぐに遠くまで行ってしまう子もいますが、あの姉妹はそんなことはないはずです。

「僕もちょっと探してみます。」


 急いで家の中に入り、リュックを下ろして再びでかける用意をしました。


「あー」


 部屋の隅から甲高いしわがれた声がしました。


「あーわだたしいのう。」


「ひゃっ、」

 仁多くんは驚いてかぶろうとしていた帽子を取り落としました。


 声のした方を見ると、暗くなってきた部屋の片隅、食料を置いてある棚の近くで長い耳が動くのが見えました。のっそりと振り向いた声の主は、白い眉毛の下の目をしばたたかせながら首を左右に振りました。

「ばーたばたしとると、肝心なもんを取りこぼすぞう。」


「宇崎さん!」

仁多くんは叫びました。


「なにしてるんですかこんなところで!」


 たしかにここは仁多くんの家の中です。

 よく見ると宇崎さんは口をもごもご動かしているし、手には葉っぱのようなものを持っています。人参の葉っぱに見えます。


「また僕んちの野菜漁ってたんですか?言ったらお届けしますから、漁るのはやめてくださいよ。」


「うん、クローバーがないかと思ってのう。」


 もごもご言いながら老人は明るいところに出てきました。


「あ、そうでした、クローバー。」


 仁多くんは思い出しました。今日は帰りにクローバーを取ってこようと思っていたのに、予想外にマロードの人に出会ったりしたおかげですっかり忘れてしまっていました。

「ごめんなさい、今日探してくるつもりだったんですけどすっかり忘れてて。…それより、日辻さんちのお姉さんたちを見ませんでしたか?昼頃から行方不明らしいのです。」


「あの子らなら無事なんでの、じきに帰ってー、くる。」


 やけに自信ありげに宇崎さんは言いました。


「そうなんですか?でも僕も一応探しに行ってきますので、宇崎さんもいったんうちから出てくださいね。」

「うむ。」


 うなづきながら宇崎さんは椅子に座って、居眠りを始めてしまいました。

 仁多くんは諦めてそのまま家を出ようと扉を開けた瞬間、


「仁多くん、仁多くん、あれお姉ちゃんたち!お姉ちゃんたちあれかなぁ?」


 末っ子くんが遠くを見ようと飛び跳ねながら叫びました。


「え、どれ?」


 末っ子くんが見ている先の方を見ると、少し先の方に二人連れ立って歩いている様子が見えます。日がだいぶ傾いてきたので影になっていてうまく見えませんが、日辻さん姉妹のように見えなくもありません。


「あれかな?そうかな?」


 ぴょんぴょん跳ねる末っ子くんと一緒に背伸びをしてよく見ようとしていると、横の方から日辻さんお母さんが小走りに二人に駆け寄っていくのが見えました。


「お母さんが行ったし、そうだよね。ね。」

「そうみたいだね。」


 日辻さんお母さんが二人のもとに着き、なにやら話をしてからこちらへ歩いてくるのが見えます。どうやら姉妹で間違いなさそうです。


「あれ、でもなんか変だな?」

 仁多くんは目をこすりました。

「お二人はあんなに黒っぽい毛をしてましたっけ?」

 夕日の加減のせいでしょうか。ミルクのように白い毛が自慢だった姉妹の、片方の毛は茶色っぽく、もう片方は灰色がかった色になっているように見えます。 

「お姉ちゃんたち、どろんこになったの?どろんこ?」

 末っ子くんも気づいたようです。


 お母さんに寄り添われた姉妹の方に近づくと、二人はどろんこになっているわけではないということがわかりました。うっすらとではありますが毛の色がそれぞれ変わってしまっていて、毛も少しごわごわしているようです。


「いったいどうしたんですか?」


 そんな日辻さんを見たのは初めてだったので、思わず仁多くんは大きめの声で聞いてしまいました。


 聞いてしまってから「しまった」と思いました。灰色になってしまっている妹さんが仁多くんを見上げた目には涙がいっぱいにたまっていました。


「あ、ごめ、」


 謝ろうとしましたが、妹さんはそのまま唇をかみしめながら仁多くんの家の裏手の方へ行ってしまいました。お姉さんもうなだれながら続きます。


「ごめんね、仁多くん、ちょっとそっとしておいて。」

 日辻さんお母さんは小さな声でそう言って、二人の後を追いかけました。

 お姉ちゃんたちの様子が違うのを察して、末っ子くんもお母さんの陰に隠れるようにしてついていきました。


 背中がひやりとしました。

 夕暮れになると山から冷たい風が下りてくるのですが、そのせいだけではない気がします。仁多くんの後ろでは空が赤く焼けているのでしょう。足元から伸びている影がぐんと長くなっていて、そのまま勝手に動き出してしまうように見えました。


 家に入って扉を閉めると、中はすっかり真っ暗になってしまっています。暖炉の熾火に薪をくべ、蝋燭に火を移して燈台をテーブルの上に運びました。


「日辻姉妹は元気になる。」

「うわっ!」


 テーブル横の椅子にはまだ宇崎さんが座っていました。


「宇崎さーん、」

 驚きましたが仁多くんは少しほっとしました。このまま一人で過ごすには少し部屋が暗すぎる気がしたのです。


「うむ、あの姉妹は元気になる。」


 宇崎さんはもう一度繰り返しました。


「そうなんですか?いったい何があったのでしょう?…あれ、宇崎さんはお二人の様子を見たんですか?」


「見てなくてもだいたいわかる。あの姉妹は元気になる。」


「宇崎さんがそう言うならそうなのかな。」


 仁多くんが住んでいる場所よりもっと北の方に行った山脈の根元に宇崎さんは住んでいるそうです。宇崎さんの一族はずっと昔からそこに住んでいるのだと日辻さんたちから聞いたことがあります。日辻さん一族よりずっと前からだというので、この辺のことについてはそうとう詳しいのでしょう。


「なにが起きたのか、宇崎さんにはわかるんですか?」

「ん、んん、なんであろうかの。わからんの。」


 蝋燭の火をわざとらしく興味深そうに眺めながら、宇崎さんは言いました。なにかをごまかされたような気がします。


「坊やは明日も市場かの。今日はなにか編むんかの。」


 急に話題を替えられます。


「今日は、あ、そうだ、今日の分を日辻さんからもらうのを忘れていました。」


 仁多くんは毎日、日辻さんご家族の毛を梳いて集めているのです。それらを洗って乾かして整えて、さらに梳いて、紡いで、毛糸にします。出来上がった毛糸を編んで小物にして市場で売っているというわけです。少しずつ日辻さんご家族にご協力いただいているので、できれば毛を梳くのは毎日お願いしたいのですが、今日はあの親子には頼めなさそうです。


「他の方を探してお願いしようにも、もう日が暮れてしまいましたね。」


 夜になると日辻さんたちはどこへともなく集まって一緒に寝ているらしいのですが、仁多くんにはその場所はわかりません。毛を集めるのは明日に延期です。


「今夜はほうれん草とチーズでシチューにしますが、宇崎さんも召し上がりますか?」

「うむ。葉っぱだけもらうかの。」


 そう言って宇崎さんは座りなおしました。

 リュックの中からチーズを取り出します。少しずつ余っていた野菜を切って水と一緒に鍋に入れ、火にかけました。

 煮立つのを待っている間に、岩埜くんから預かった帽子を修繕しないといけません。以前、手袋を編んだ時に残った毛糸を使います。毛糸とじ針という、少し太めの縫い針に毛糸を通して、ほつれた部分を拾っていきます。この帽子も仁多くんが編んだものなので、どういう作りなのかはわかっています。左右どちらも耳の上に当たる部分が破けていましたが、左はほんの2,3目分だけで、右の方が穴が大きく開いていました。何目か拾ってから、そこを起点にして2段ほど編みなおすことにしました。真滝さんが作ってくれた細い棒針に糸を移し替えて編みます。


「ほいほい、焦げるぞ。」


 宇崎さんが暖炉の前にやってきて、鍋をかき混ぜてくれました。集中していると他のことを忘れてしまうのが仁多くんの悪い癖です。


「あ、すみません、」

「ほいほい。今日は修繕の日かの。」

「そうなんです。岩埜くんが大事に使ってくれてて。」

「坊やのいつもの帽子はどこ行った?」

「あ、」


 どこだっけ、と少し考えて、岩埜くんに貸したことを思い出しました。

「今日は岩埜くんに貸してます。」

「うむ。それはよいこと。」

「とってもいい帽子だねって褒めてくれましたよ。またあんなのが編みたいな。」

 仁多くんは宇崎さんの方をじっと見ました。


「あんなのはなかなかの。なかなかの。」


 そう言ってうれしそうに宇崎さんは鍋をかき混ぜ、自分の分を器に注いで食卓に戻りました。

 糸をまたとじ針に移し替えて糸始末をし、帽子の形を少し整えたら完成です。

 鍋にチーズを入れて溶かし、仁多くんも自分の分を注いで食べ始めました。


「日辻さんたちは明日には元気になっているでしょうか。」

「うむ。明日にはの。」

「だといいな。」

「今日は他には何があったかの。」

「今日ですか?」


 仁多くんは少し考えました。今日はなんだかいろんなことがありすぎて忙しい日でした。


「そういえば初めてこの辺でマロードの人に会いました。いつも市場の近くでしか見ないのに。しかも初めてマロードの人と話しました。このチーズもその人に分けてもらったんです。」

「うむうむ。」

「ケイさんという方でした。ほんとはもっと難しいお名前だったんですけど、そうお呼びしていいって言われたので。なんて名前だったかな。この辺をぶらぶらしてて、夜には町に戻るって言ってましたね。」

「うむうむ。」


 宇崎さんはうなづきながら椅子から降りて扉の方に向かいました。


「お帰りになるんですか。」

「うむうむ。もう夜だしの。坊やも早くお休み。ごちそうさま。」

「はい。おやすみなさい。」


 宇崎さんが扉を開けた向こうからは虫の声が聞こえてきました。

 今日はとっても疲れたな。なにが疲れの原因なのかよくわかりませんが仁多くんはそう思いました。椅子に少しついていた真っ白い毛を集めて袋に入れ、後片付けをして、早々にベッドに潜り込むことにしました。

 


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