第3話 昼下がりの草原。一日目。
心地よい風が吹いています。
市場に品物を売りに行って、リュックの荷物は減るどころかかえって重たくなってしまいましたが、仁多くんの気持ちはそれほど重くはなっていませんでした。
岩埜くん兄弟にはりんごをもらえたし、真滝さんからはこれからの売り方についてアドバイスをもらえたし。
「今日も僕は幸せですねぇ。」
のんきにひとりごとを言いながら、もらったりんごをポケットから出してかじりました。
帰りはもちろん朝来た道を戻るのですが、山脈の見える方に向かって歩くため、ゆったりとした上り坂が続きます。あまり焦っても疲れてしまうので、帰りは行き以上にのんびりと歩くことにしていました。
色のついたものや大きなものなど、目を引くものを並べるといい、と真滝さんは教えてくれました。
仁多くんが使っている毛糸は、すべて仁多くんが紡いだものです。染めたりはせず自然な色のまま使っていたので、できあがったものも白や茶色のものばかりでした。色のある毛糸を使いたいと思ったら糸を染めるところからしていかないといけません。
「僕にできるかなぁ。」
市場に出している服屋さんはいろんな色の服を並べていたはずです。今度そこのお姉さんに相談してみようか。商売敵には教えてくれないでしょうか。服じゃなくて僕が作るのは編み小物だから商売敵というわけではないかな。でもいつかちゃんとした服も編んでみたいな。
そんなことをつらつらと考えながら歩いていると、不思議な風が吹いてきたような気がしました。耳元をなにかこそばゆいものが通ったような気がします。
「ん?」
なんだろうと思って仁多くんが足を止め、あたりを見渡すと、遠くの方から鳴き声のようなものが聞こえてきました。
「鳴き声?」
いや、鳴き声というより叫び声のような、誰かに助けを求めるような声にも聞こえます。仁多くんが向かっている先、北の方角の草原から聞こえてきます。
耳をそばだててみましたが、その後は何も聞こえません。空耳だったのでしょうか。もしかすると、
「日辻さんたちが歌ってたのかな。」
日辻さんたちはとても歌うのが好きなのですが、いかんせん上手とはいいがたく、そのくせ風に乗ると遠くまで響き渡るような声の持ち主なのです。
ちょっと前くらいの時間だと、日辻さんたちはまだあちこちに散らばって思い思いに食事をしていたはずです。ちょうど仁多くんが家の近くにたどり着くころになるとみなさんもぼちぼち集まってきて、夕方にかけておしゃべりをしながら仁多くんの仕事に付き合ってくれるのです。
不思議な声についてはその時に聞いてみるとなにかわかるかもしれません。
ちょっと急ぎ足にしてみようかな。
のんびり帰るつもりでしたが、少し気になるので足を速めることにしました。背の高い草が風にあおられてざわざわと鳴ります。日はまだ高い位置にあるので、急ぐと少し汗がにじみます。
「あ、しまった。」
そういえば、クローバーを探していたのを忘れていました。この時期のクローバーが大好きな人がいるのです。きっと喜ばれるだろうからお土産にしたいと思っていたのに、いろんなことにかまけているうちに忘れてしまっていました。
「どこかに生えているのが見えるかな。」
急ぎ足で歩きながら、仁多くんはきょろきょろと近くや遠くの草原を眺めてみます。クローバーは他の草より少し濃い色合いで固まって生えるので、遠くからでもそれらしい草叢がわかるはずです。
と、少し離れたところに、見慣れぬ人影を見つけました。
市場で毎日見るような人ではなさそうですし、もちろん日辻さんちの誰かや柏さんでもありません。仁多くんよりも大きそうな男の人で、まるで怒っているかのように大股でぐんぐんこちらに近づいてきます。
「え、誰、」
とっさに怖くなって、逃げてしまおうかと思いましたが、仁多くんがそう思ったころにはその人もこちらに気が付いてしまったようでした。大きく手をぶんぶんと振りながらこちらになにかを言いながら近づいてきます。
どうしよう。他に誰か知ってる人は近くにいないかな。
こんな時に限って日辻さん家族も誰も見当たりません。どうしようもなく思わず立ち止まってしまっていると、あっという間にその人はすぐそばまでやってきました。
「よかったー!こんなところで人に会えるなんてラッキー!」
その人は大きな声でひとりごとのように話しかけてきました。
やはり仁多くんよりもだいぶ背が大きく、体つきもがっしりしています。着ているものは質素ですが、背中には斧を担いでいます。おそらく真滝さんの品物でしょう。
マロードの人だ。
仁多くんは驚きました。市場の近く以外でマロードに出会うのはとても珍しいことなのです。
「こんにちは。」
思わず挨拶をしましたが、声が上ずってしまいました。
「ぼ、僕は、仁多といいます。あなたのお名前は?」
「ん?あ、ああ、そうか、私はkPcv-10905と言います。」
マロードの人は不思議な返事をしました。ケイピーシーブイノイチマル…?そんな名前の人は聞いたことがありません。いえ、そもそもマロードが通常どんな名前を使っているのかを仁多くんは知りませんでした。
「ところでここはどこかな。」
マロードの人は言いました。
「市場で斧やらなんやら買った後、使い心地を試そうと思って歩き出したはいいけど行けども行けども草っぱらで、この国にはもうちょっとなにかないのかな。」
仁多くんはどう答えたらいいのかわかりません。
草っぱらがずっと続いているのがこの辺のいいところですし、小川もあれば木も生えています。向こうの方には頭に雪をかぶった山脈も見えてなんとも風光明媚だと思うのです。この人の言う、もうちょっとなにか、とはどんなものを指すのでしょう。
よく見ると、斧のほかにも腰に袋をぶら下げています。入っているのは食料でしょうか。おなかが空いてらっしゃるのでしょうか。
「ええと、あなたのお名前は僕には少し難しいので、ケイさんとお呼びしてもよろしいでしょうか。」
少し難しいどころではなく、実をいうと後半はすっかり忘れてしまっていたので仁多くんはこう提案しました。
「うん、構わんよ。」
「ではケイさん、おなかが空いていませんか?もしよかったらりんごはいかがですか?」
仁多くんは岩埜兄弟にもらったりんごを一つ差し出しました。
「いや、腹は減ってないけど。でもそうだな、いただいてもいいかな。」
そう言ってマロードのケイさんは受け取りましたが、りんごを見つめながら少し困った顔になりました。
「そういや今、払えそうな金がないんだ。どうしようかな。」
「あ、いいですいいです、僕ももらったものなので。」
「そうかい?」
あ、そうだ、と思い出したようにケイさんは腰の袋を少しあさって、なにか包みを取り出しました。
「朝に市場で買ったチーズなんだけど、でかすぎて食べれなさそうなんだ。よければ半分もらってよ。」
「いいんですか?」
仁多くんはちょっとうれしくなりました。本当は今日は小麦粉とチーズを買いたかったのですが、チーズを買うことまではできていなかったのです。
「ちょっと待ってね。」
ケイさんは包みを開くと包み紙ごと地面に置き、斧を使って慎重にチーズを切り始めました。
「斧で切るんですか?」
「まだ他に道具持ってなくてさー。」
そう言いながら、ひとかたまりのチーズを切るには大きすぎる斧でおっかなびっくりしながらようやく切り分け、少し大きい方のチーズを仁多くんに渡してくれました。
「ありがとうございます。チーズ欲しかったんです。」
仁多くんは思わず素直に言ってしまって、少し恥ずかしくなりました。
「そりゃよかった。」
ケイさんは自分の分のチーズを包み直してりんごといっしょに袋に入れながら、笑顔を見せました。
「ところで君、」
「仁多です。」
「仁多くんは、どこに住んでるの?この辺になんか面白いところはない?」
「面白いところですか?」
やはりケイさんの言う面白いところがどんなところのことを言うのかいまいちわかりませんが、ひとまず知っていることを教えてあげることにします。
「この先ずっと北上すると山にたどり着きます。ここからも山脈が見えてますよね。」
「ふむ。」
「山脈からこの草原に向かって川が流れています。僕の家はこの川沿いにもう少し上って行ったところで、もう少しして日が暮れてくると夕焼けがすごくきれいです。」
「なるほど。」
こんな感じでいいんだろうか。心配しながら顔を覗き込むと、ケイさんは腕組みをして少し考えているようです。
「ところで、君の仕事はなんだい?」
「え、僕の仕事ですか?」
僕の仕事が面白いことになるだろうか。仁多くんはますます心配になります。
「僕は日辻さんやいろんな方と一緒に暮らしながら編み物をしています。編んだ小物を市場に持っていって売った帰りです。」
本当は今日はひとつも売れてませんけど、と心の中で付け足しながら仁多くんは説明しました。
「ああ!編み物ね、そういえば市場で見たなぁ。」
「たぶんそれです。マフラーとか、靴下とか、あります。あたたかいですよ。」
「編み物には羊を使うんだね、なるほど。」
日辻さんは羊じゃないですし、使うものでもありません。仁多くんはそう言いたくてたまりませんでしたが、そっと我慢しました。
「なるほどね、わかった。どうもありがとう。」
そう言ってケイさんは立ち去ろうとしました。
「え、もういいんですか?どこへ行かれるんですか?」
突然の話の切り替えにびっくりして、今度は仁多くんが聞いてしまいました。
「うん、まぁここまでも結構時間がかかったし、この辺の感じはつかめたからまた続きは明日にしようかと思って。町まで行かないと休めないからまたしばらく歩かないといけないしな。」
じゃあ、と手を振ってケイさんは仁多くんが今来た道をずんずん歩き去ってしまいました。
「不思議な人だなぁ。」
あっという間にやってきて、あっという間に去っていったマロードのケイさんを見送りながら仁多くんはつぶやきました。
手にはもらったチーズがひとかたまりあります。
今晩はこれでほうれん草のシチューを作ろう。
そう思うと心が晴れやかになりました。仁多くんの家までは歩いてもう少しです。
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