第5話 小太刀

 その女の視線は覚束ない様子だった。

 焦点の合わない眼が泳ぎながら、朝霧に沈む森を歩いていた。

 脂沁あぶらじみのない純白の小袖に、網紐の腰帯は紅い。襟元の肌はさらに白い。艶やかな黒髪を後ろで紙縒こよりで結び、垂髪たれがみにしている。

 手には野兎の耳を鷲掴みにしている。

 ごくりと喉が鳴った。

 暫くは腰袋に下げた乾飯ほしいいかじるくらいの逃避行だった。

 肉は暫く食べてはいない。しかも女の肉もある。そちらもご無沙汰だ。ここで手篭てごめにするか。むしろ手篭めにして道中を供にすれば良い。国抜けの折に、乱破や忍びの嫌疑を避けるよい偽装になる。

「娘、この山の者か」と誰何した。

 女は興味なさげに首を振った。

 その色香は娘のものではない。

「ここまで流れ流れて来ておろうず」

「ここは山犬もおろう。また夜盗の類もおるやもしれぬ。儂とてここまで身をやつしたが、元々は武家の習いをたしなんでおる。どうだ、棲まいまで送ろうず」

 女はふらりと体を入れ替えて、無防備な背を見せた。そのまま背後からしがみついて搔き抱く妄想に取り憑かれた。が。耐えた。

 首筋に冷たいものを感じている。

 危険を察して生き延びてこれた。

 無防備に見えて、罠かも知れぬ。

 遠くで矢が我背を狙っているや。

「娘、名はなんという。儂は与三郎と申す」

「・・・風花」と謳うように言った。


 早朝に目が覚めた。

 寝室はまだ冷えている。

 タイマーをかけたファンヒーターは沈黙したままだ。

 初春からの信州はキッチンに置いたオリーブオイルも凍ってしまうので、冷蔵庫に片付けておくのが習慣だ。

 そんな朝でベッドの外に出るには決心が要る。

 ふと躊躇ためらいもなく抜け出したが、呼吸が白い。

 リビングを開いてデスクにつき、白鞘を抜く。

 鍛えられた鋼鉄が室内灯でさえ、鈍色に光る。

 耐えようもない激情がほとばしる。

 憑かれているような焦躁がみなぎる。

 その刃文に。その白刃に。そこに血が纏いつく。温かみのある血だ。その有り様をいつか見た覚えがある。

 あれは夢であったのか。


 訪うたのは、刀鍛冶をしている旧友だった。

 その白鞘を持ち込んでいた。

 手慣れた感じで鯉口を切って、しばし眺めて低く唸った。

「慶長新刀だと、所有者から聞いている。鑑定してみれくれるか?」

 この寒さの中で、彼は紺の作務衣一枚で工房にいた。無理もない。作業中らしく奥では窯に火が入っていた。その前で刃を叩いているのだ。短髪で不精髭を蓄えて、作務衣からのぞく胸には汗が滴っている。そのまま戦国絵巻に描かれていそうな風貌をしていた。

「銘は確認したか?」

「井上国貞とある。井上真改の作と思うな」

「確かに似ている。だがなこの刃の入れ方な、互の目というよりのたれに近いな。ほら刃文が小さな細波ではなく、湾内にあるような穏やかな流れになっているだろう。特にこの部分、なあ」

「そうか、よく分からない」

「まあ微妙だけどな。銘を改めさせて貰うぞ」

 さっさと迷いなく柄を外してライトに翳してみていたが、ふうと吐息をついて「これは国貞の仕事だな。それも親父の方だ」と言った。

「親父?」

「真改の父親だよ。真改は次男坊でな、父の名跡を継いで壮年期までは同じ名を号していた。おい、これは慶長新刀どころではないぞ。どこの博物館の収蔵品だよ。この一振りにきちんと拵えを施したら、それだけで個展が開けるぞ」

「それだけのものなのか」

「ああ、この刀な。まあ関ヶ原や大坂の陣で実際に使われたものかも知れない。それにしても分不相応なはばきだな。これは金無垢だろう。だとするとこの刀は白鞘であるはずはない。もっと相応しい拵えが残っているはずだと思う。その持ち主とやらに聞いてみるといい」

 その足で僕は樽沢の、持ち主の庵を訪れた。

 そこはこの時期になると四駆でないと安心して登れない。

 峠道は朝晩は固く凍結しているし、日中はシャーベット状になっている。この日もタイヤの空転を感じながら、道を登っていった。

 林道の脇のスペースにジムニーを駐車して、雪道に降り立った。そこから灌木の林伝いに彼女の社を目指す。

 小径の途中にはこんもりと雪の帽子を被った石仏が並んでいた。背の低い石仏は溺れそうになっていた。そこを新雪を踏みしめながら降ると、凍結している流れに巨大な氷柱のような丸木橋がかかっていた。

 その小川は水面だけが結氷していて、その下は浅い流れになっているようだ。

 そのたもとに彼女はいた。

 純白の綾子織りんずおりの絹小袖に、深紅の帯を巻いていた。

「あら。遅い初詣ね。それでも歓迎するわ」

「あ。そうだ、明けましておめでとう。本年は旧年よりも手控えて欲しい」

「そうもいかないわ。車の音が遠くからしたので、慌てて着替えたのよ」と小首を傾けて笑う。

「そんな装束で寒くないのか」

 裸足に草履を突っかけてきている。

「私の生来の性分をご存じでしょう。少なくとも正装でお出迎えしないとね」

 僕がその丸木橋を渡り終えた時に、鳴神六花が足を滑らせた。僕はその身体を抱きとめたが、体重を感じない軽やかな肉体だと思った。

「ごめんなさい。明けからずっと呑んでいたのよ」

「呑んべの雪女か、重畳なものだ」

 僕は彼女と並んで鳥居をくぐり、社の前に立った。

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