37.救世、歓声、狂王覚醒

 おうじは、すべてを失うことになりました。敬ったもの、憧れたもの、愛したもの、他にも、たくさん。おうじの目に、涙はありませんでした。必死に押し込んで、覚悟を貫きました。そうしなければ、押しつぶされてしまいそうだったからです。


 一瞬の会話の後、リトスとセレニウスはある方面に向けて歩を進めていた。それは、倒れ伏して動かず、なお無尽蔵に獣の群れを生み出し続けている巨獣の胴体だった。2人が向かっているのは、吹き飛んだ首の断面。塞いでいた結晶の痕跡が、断面の淵に残っている。そして肝心の断面は、まるで冥界にでも続いているかのように暗く淀み、その先は全く見えなかった。しかしこの奥に存在するものについて、リトスは何か確信しているようだった。


「この奥に、進むしかない。……そうしないと、何も終わらない」

「……確証は、あるのね」

「エリュプスの口の中に潜り込んだ時、感じたんだ。この身体の奥に、本体があるって」


迷うことなく、臆することも無く。リトスはその暗い穴に入っていくのだった。そしてセレニウスも、それに続いて入っていく。それが死出の旅路となるか否か。それは、2人に懸かっている。


 暗く、先も見えず。しかしどこまでも続く道。そこに目を見張る景色もなく、だが確かな何かを奥に感じて。おおよそ生物の体内とは思えないその道を、2人は進んでいく。その足取りは決して軽いものではなく、しかしそれは止まることは無い。発するべき言葉もなく、歩むことに集中していた。


「……エリュプスは、どうしてこんなことになったんだろう」


不意に、リトスが言葉を零す。沈黙に耐え切れなくなったのか、或いは聞く最後の機会だと思ったのか。少しの間を置いた後、セレニウスは口を開く。


「……それは、私にもわからないわ。……聡明で、優しかったあのエリュプスが、どうしてあんな凶行に……。でも、もう関係ない。ペリュトナイに恐怖をもたらした事実は変わらないから、何があろうと、許すことはできない」


それ以上でも、以下でもない。彼女の知ること、それはエリュプスの真意には至らない。もっとも、それを知るのは当のエリュプス本人だけである。これ以降会話は無くなり、2人は再び暗い道を進み続ける。だが、その歩みにもいよいよ終わりが見え始める。


「あれは……、光?」

「……いよいよ終わりが見えてきたわね」


暗い道の先に現れた光。不自然なほどの唐突さで現れたそれは、この道の終着点としてそこに存在していた。この先には、最後にしてこれまで以上の脅威が待っているだろう。だがここを乗り越えなければ、安寧は永遠に閉ざされたままだ。そして、2人は光の目の前に至った。ここではないどこかに続いているその光を前にして、リトスは緊張こそすれど恐れてはいなかった。


「……行けるよね?」

「……当然!」


交わす言葉は最低限、しかし覚悟は十二分。意を決して、2人は光へと足を踏み入れた。


 光が晴れ、空間が形作られていく。無音だった空間は、次第に音の集合体に包まれていく。そして残った光は茜色に染まり、天上から射している。その空気、その景色は2人に、特にセレニウスにとっては見覚えのあるものだった。


「これは……、闘技場?」

「何でここに……、あの頃の闘技場が……!」


この空間に驚愕するセレニウス。無理も無いだろう。ここは既に存在するはずのない景色を有した場所。現在では既に崩壊し、存在などするはずもない景色。この闘技場は、既に崩壊して久しいペリュトナイの闘技場。イミティオとの激闘が繰り広げられた闘技場、その在りし日の景色だった。そんな闘技場の舞台の中心。顔すら定かでない観客たちの視線を一身に浴びるのは、暗い金の長髪をなびかせた、闘士姿の青年だった。その顔は、セレニウスとリトスの2人を驚愕させることとなる。


「あの顔は……、エリュプス……!?」

「……あの頃の、エリュプスが何で……!」


その青年は、紛れもなくエリュプスだった。多くの視線を浴びながらも、その姿は堂々たるもので。だがその視線は何に注がれるでもなく虚空を見つめて。そして、この場に現れるはずのない者たちには、何の驚きを見せることもなかった。


「……本当に来るとは」


その声も、姿も。紛れもなくエリュプスのものだ。だが口調は妙に落ち着いており、怒りを孕んでいた様子からは程遠かった。


「……あれは本当に、エリュプスなの?」

「信じられないかもしれないけど……、あれが本来の、事件を起こす前までのエリュプスだよ……。これは、一体……」


セレニウスは戸惑っている。過去を知り、今を誰よりも知っている彼女にこそ、この状況は受け入れがたいものであった。それを知ってか、エリュプスが口を開く。


「安心しろ。獣性は全て外に出してある。今の『私』は紛れもなく人間のエリュプスだ」


不気味なほどに穏やかな口調。そこに凶暴性は微塵も存在していない。一人称すら、これまでとは違っていた。言葉を発せずにいる2人とは対照的に、エリュプスは言葉を続ける。


「聞きたいこと、色々あるだろう? 私も話しておきたいことがある。私の覚悟を、私の思いを……」


そうしてエリュプスは話しだした。その言葉に、狂気にも似た強い決意を込めて。


 私の気付きはいつからだったか。私にあった未来が閉ざされると知ったのはいつだったか。父上を継いで、私がこのペリュトナイの王となる。そしていつか、妃との間に子を授かり、王位を継がせる。そんな、既定の未来が閉ざされたのだ。私の、些細な気付きによって。それはいつの間にか心の片隅に住み着いていた、取るに足らない些細な思考だった。それも、少しすればいつの間にか消えると思っていた。だがそれは残り続け、次第に大きくなっていったのだ。だが私は信じたくなかったのだ。我が周りの全てが、それ以外の何もかもでさえ、何も意味が無いのだと。それを否定しようにも、それを裏付けるものが見えてくる。このままでいれば、皆が理不尽に消えてしまう。そんなことが許されてなるものか。そんなことを、受け入れてなるものか。だがそんな想いを抱きながらも、私は何もできなかった。そして私は見ることになるのだった。


 夢を見ることはこれまでに何度もあった。しかし所詮は夢。起きて少しすれば、その殆どが曖昧になってしまう。だが、あの時に見た夢はまるで違っていた。夢すら超えて、まるで現実のようなその空間。自身すら見えないほどに暗い洞窟。その奥から響く声は、不明瞭で意味を掴めなかった。だがその『意志』を、私は感じることが出来た。全てが消えるその前に、私が全てを救うのだ。私の救世の道を、ここから始めるのだ。そしてそれを可能にする強大な力を授けると、その意志から感じ取った。こうして目覚めた私の中には、新たな力が宿っていた。そして目覚めた私に、何かの意志が語りかけてきた。救世の道を歩むのなら、自身の未来を自身で閉ざせ、と。もう私に、『我』に迷いはなかった。


 力を授けた者が何であろうと、関係ないし興味もない。するべきことを、するだけだ。その過程に、いかなる犠牲を払ってでも。突如現れた『獣』の姿に、父上は酷く恐れていた様子だった。逃げるでもなく、ただ腰を抜かしていた。……仕留めるのは、容易だった。そして槍を、剣を向けてきた兵たちに、我以外の獣が襲い掛かっていた。それは倒れ伏す父上の死骸から生じていた。そしてその獣に殺された兵からも、新たに獣が生じていた。……これを我が手勢として、救世の力とするのだ。こうして、我が支配の、救世の旅路が始まったのだ。


 エリュプスの話が終わるその前に、セレニウスは走っていた。そしてその先にいたエリュプスを、彼女は勢いのままに殴りつけた。何の抵抗もなく、エリュプスは吹き飛ばされる。その拳には、リトスがこれまで見た中で最も強い怒りが宿っていた。


「……ふざけるな。お前のエゴのために、このペリュトナイを滅茶苦茶にしたっていうの……? 精々20年ちょっと生きたぐらいで! 何をわかったように物を語っているんだ!!」


その怒りに、エリュプスは何も答えない。黙って立ち上がるだけだった。そうして立ち上がった彼に、続けざまに拳が飛んだ。


「後悔は無かったのか! お前のその行動全てを、お前は誇れたのか!!」


やはり、抵抗もなく殴られ続ける。拳を振るうセレニウスの顔は怒りに満ちていたものの、その目には涙が浮かんでいた。そうして何度拳が振るわれた頃だろうか。突如、エリュプスがセレニウスの拳を掴んで受け止めた。


「わかっているさ……! 私だって、何度も後悔をしたさ! 心が張り裂けそうになるほどにな! だが今更どうしろというのだ! もう私は止まれない! だから獣性を被って誤魔化し続けた!! だが……、これを途中でやめてしまったら、どう父上に、民に顔向けすればいいのだ!! ここまで来てしまった以上、私は最後まで進むしかないのだ!! だから……、この救世の果てに、私の支配に身を委ねるのだ!! このゴミ共が!!」


エリュプスは激情のままに、セレニウスを投げ飛ばした。すぐに体勢を立て直し、彼女は壊劫を抜いて構える。一方で2人の様子を見ていたリトスは、異様なものをエリュプスに見ていた。


「何だ……! なんて大きさなんだ……。あの影……」


エリュプスの手に、黒く淀んだ何かが集まっていく。それは空間の一部が淀みに解けて、彼の手に集まっていた。その淀みが集まっていき、次第に何かを形作っていくたびに、顔のない観客たちの歓声が大きくなっていく。そして淀みが明確に形となる。そこにあったのは、エリュプスの身の丈の実に倍ほどもある巨大な両刃剣だった。それを軽々と掲げるエリュプスに、観客の熱狂は最高潮に達する。剣を構えたエリュプスの全身から、混じり気無しの純粋な『覚悟』が溢れている。セレニウスの壊劫を握る手に力が入る。リトスも杖に蒼断刃を形成し、蒼護壁を自身の横に展開する。


「さあ、これで最後だ! お前たちをここで討ち果たし、我が救世を始めるのだ!!」


観客の熱狂は最高潮を超え、闘技場全体に激しい熱気を纏わせる。その熱気に汗を流す、3人の闘士。そして止まない歓声の中で、2つの巨大剣がぶつかって火花を散らした。

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