25.復息、約束、意志結束

 ……視界が歪む。痛みが全身に走る。一瞬で、我は立てないほどの重傷を負った。立つどころか、指を微かに動かすことさえままならない。目の前に、例の獣が迫っている。嫌だ。我はこんなところで死にたくはない。まだしていないことが多くあるというのに。……ああ。もしや、この陰の正体は……。我がその答えに辿り着いた時には、獣の牙が我の首に迫っていた。そして痛みと共に、我の意識は手放されたのだった。

 何も見えない暗い何処かで、何かが我に呼びかけている。その声の正体が何かは定かではないが、我にはそれが酷く懐かしいものに感じた。それが告げる。「正直になれ。目を背けるな」と。その本質が何で、何を意味しているのか我には分らなかった。だがそれに身を委ねることが、我にはこの上なく理想的なことであるようにも思えた。そしてその声の赴くままに、我は意識を覚醒させる……。

 目が覚めて、周囲を見渡す。あれだけあった悲鳴もすっかり止み、街は不気味なほど静かだった。それにどういうわけか酷く清々しい気分だ。心にあった陰が、すっかり消えてしまったかのように。しかし妙である。何故我は生きているのだろうか。あれだけの重傷を負って、普通ならば生きているはずがない。そんなことを思いながら辺りを見渡していると、地面に転がる何かを見つけた。一見すれば、それは我と同じような装束に身を包んだ戦士の死体。だがその背中は荒く食い破られており、身体の中にあるはずのものが全く見られなかった。地面に伏せるようにして転がるその死体の顔を確認しようと、我は死体を仰向けの体勢に変えた。……信じられない。どういうことだ? 酷い惨状のその死体。苦悶の表情を浮かべるその顔は、紛れもなく我のものであった。しかし今の我はこうしてここにいる。これは、一体……。戸惑う我に、唐突に声を投げかける者がいた。暗い金髪をなびかせた、薄ら笑いを浮かべる青年は、しかし次の瞬間にはその姿を全く別のものに変えていた。そう、その姿は忘れようはずもない。街を蹂躙し、我を殺した獣そのものだったのだ。だがどういうわけか、そんな仇ともいえるそれを前にしても、我の中には一切の憎悪が湧くことは無かった。代わりに沸いて来たものと言えば、その獣に対する畏怖の念と、それ以上に沸き立つ力への渇望だった。獣は満足そうに口角を吊り上げると、指を鳴らした。そして一瞬、我の視界が暗転した。

 再び視界が明転した時、我には大きな変化が訪れていた。視界がいつもよりも高い。視界から覗く我が腕は、鋭い鉤爪を備え強靭になっており、黄褐色の毛に覆われている。そして足元に広がる血だまりに映る我の顔が、明らかに人のものではない、かつて何かの本で見たキツネという生物に酷似していた。我が姿を見た獣が少し意外そうな反応を見せた後、再び指を鳴らす。すると途端に視界が低くなり、我が姿は元の人間のものに戻っていた。困惑する我に、獣が告げた。「自分の意思で、成してみよ」。その言葉が、強く我が背中を押したように感じた。不意に、小さな悲鳴が聞こえた。その方向を向いてみると、物陰に何かが隠れている。しかし僅かに覗くその様子から、逃げ遅れた市民であることが分かった。助けるべきだろうか、という考えが一瞬起こり、しかしその刹那抹消される。我に迷いなど無い。己が姿を獣に変え、大地を蹴った。

 疾走し、赤を裂いて赤を浴びる。獣になってしばらく経つが、この生き方は至高のものだ。戦いの中で我は高められ、血肉を食らうことで我は強くなっていく。人間どもに飽きれば有象無象の獣を食らった。我は最高に高められている。あの時抱いていた陰の正体が、最近やっとわかったような気がする。ああ、あれは我が闘争心。抑えられ続け凝縮された、飽くなき闘争心だったのだ。それを目覚めさせ気付かせたあの方、エリュプス様の大願を実現させるべく、我は戦い続ける。そしてこの戦いの果てに、我はあの女さえも食らってみせよう。我が心は全て闘争の為にあり、それはこれからも変わらない。……思えば人心など、初めから存在しなかったのかもしれない。今の我は力の荒野を駆ける獣。そう思い続け、我が戦いは永遠に続いていくのだ。


 我は、一体どうなったというのだ……? 全く動けず、ただただ攻撃を食らい続けた……。我の現状の何とむごたらしい事か……。血に塗れ、肉を削がれ、深い傷を多く付け、まさしく満身創痍という言葉が相応しい。この獣の姿さえ保つのが難しいほどに、我は傷つけられた。最早再生することも出来ないだろう。いつの間にやら姿が人間のものに戻っている。白く整えられていた我が装束もすっかり血で汚れ、切り裂かれている。……ああ。我が人生とは、我が意味とは。一体何だったのだろうか。もう我には分らない。知ることも、知ろうとすることさえ出来ない。


「あ、ぁ……」


……意識が、遠くなっていく。まだ足りない。まだ何も成していない。力さえ、満足に振るえていない。我は何のためにこの力を手に入れたというのだ。何のために、我は人であることを捨てたというのか。……何かが、我の中で燻っているのを感じる。それが明確に何なのかは、今の我には知る由もない。しかしそれがどこか懐かしく、そして誇らしいものであることは、今の我でもわかった。……それが何なのかはわからないが、何故今更こんなものを。もう何もかもが遅いというのに……。


「……そ、う……か……。こ、れ……」


イミティオは何かを言いかける。その言葉が何を意味するのかは、死にゆく彼にしか分からず、彼にしか聞こえない。しかしそれが、最期にイミティオという獣を、確かに人間の側に戻すこととなったのだ。そしてその言葉を最後まで言い切ることなく、イミティオは大地に倒れ伏し、二度と起き上がることは無かった。……そしてこの瞬間、闘技場に立つ者は、たった1人の勝者だけであった。


 セレニウスは内心かなり焦っていた。彼女の目的の通りに、奪われた壊劫を取り返すことができ、それを持っていたイミティオも倒すことができた。しかし喜んではいられない。この作戦に協力した2人の状態は芳しいものとは言えない。アウラは大きな外傷こそないものの気を失っており、リトスに至っては胴体に大きな一撃を食らっている。


「アウラは……。まあ放っておいても大丈夫そうね……。問題はリトスか……」


比較的軽傷のアウラをひとまずスルーし、セレニウスはリトスの下に駆け寄った。彼は現在肋骨を殆ど砕かれている状態だ。それを知ってか知らずか、セレニウスは持ってきたポーチを漁り始めた。



「……まさかここでこれを使うことになるなんて…。もっと持って来ればよかった……」


そして彼女はポーチの中から、小さな小瓶を取り出した。そして蓋を開けると、中に入っていた蒼白い液体をリトスの口に流し込んだ。瓶はすぐに空になり、中には僅かに蒼白い残滓が残るのみとなった。


「まあ本当は塗り薬だけど……。ここは飲んだ方が効くでしょ」


セレニウスがその液体を飲ませてから少し経つと、リトスの浅かった呼吸が次第に激しくなっていく。そして激しく咳き込みだすと、リトスの意識が戻って来た。意識が戻りはしたものの、酷く苦しそうな様子だった。


「ゲホッ! ゲホ! ゴホ……! 口の中がじゃりじゃりする……! って、あれ? 僕は、一体……。それに、セレニウス……?」


目覚めたリトスは、辺りを見渡す。彼が意識を失っていたのは、精々数分程度だろう。しかしその数分の間に、事態は余りにも変化していた。そんな中で、彼の目には倒れたアウラの姿が映った。


「アウラ!!」

「あ、ちょっと! まだ無理に動いちゃダメだって!!」


突発的に走り出すリトスを、セレニウスは止めようとする。しかし彼女が制止するよりも僅かに早く、リトスはアウラの手の届かない範囲にいた。その走る様子は多少ふらついていてぎこちなかったものの、それはおおよそ重傷者の動きではなかった。


「アウラ……! アウラ!!」


何度も躓き、転びそうになりながらも、リトスはアウラの下へ駆け寄る。彼からしてみれば、希望を託したアウラがどういうわけか倒れているのだ。何が起こっていたのか、彼は知らないのだ。そしてリトスはアウラの下に駆け寄ると、彼女の肩を掴んで揺り起こそうとした。


「起きて……! 起きてよアウラ……! そんな……。どうして、僕なんかが……!」

「落ち着てリトス! 大丈夫。アウラは大丈夫だから! それよりもリトス、大丈夫!? 痛みとかは無いの!? 流石にそんなに治りが速いはずが……!」


リトスをアウラから引き剥がしたセレニウスは、彼の状態に多少の疑問を持っていた。彼女が飲ませた液体は、スクラが調合した治療薬である。本来は塗り薬として使われるものであるが、飲んで内部の傷を治すことが出来る。スクラの薬は、これに限らずどれも効果が高い。しかしだからと言って、その即効性まで高いというわけではない。だからこそ、セレニウスは目の前のリトスの状態が信じられなかったのだ。しかし今はそんなこと些事でしかない。


「今はアウラの目覚めを待つのが先決よ。だから落ち着いて、一緒に待とう?」

「……うん。そうだね。僕も焦りすぎていたよ」


落ち着きを取り戻し、リトスとセレニウスは隣り合って地面に腰掛ける。アウラはまだ死ぬことは無い。その事実が、彼らに安心感を与えていた。先程まで天高く昇っていた太陽は既に傾き、時刻は夕刻となっていた。建物の隙間から射す茜色の光は、戦いを終えた者を労うかのように降り注いでいた。


 何もなく、がらんとした大きな部屋の中で、炎のような眼光だけが微かに揺らいでいる。すぐにそれが消えると、小さな舌打ちのような音が響いた。


「イミティオ……。まさかイミティオが……」


垣間見ていたその情景が断たれ、プリミラはイミティオの死と敗北を理解した。これは彼女からすれば完全な想定外とまではいかなかったが、それでもこの現状に直面してみれば、衝撃的であることには変わりなかった。


「まあ、いいか。エリュプス様もこのことは織り込み済みだったみたいだし……。それに……」


彼女は呟き、背後に目をやる。そこにはおびただしい数の獣人が控えており、その全てが一様に沈黙を保っていた。完全に野生を抑え込まれたようなこの獣たちは、通常のそれと比べれば明らかに異質であった。そしてそれら全てが、蒼い結晶で彩られた装身具を身に着けていた。


「私のインフェリオンたちも準備万端ね。あっちはあっちで予想外に順調そうだし……」


一瞬だけ目を深い藍色に輝かせると、プリミラは満足そうに笑う。それと同時に彼女の姿が大きく変わる。


「さて……。私も久しぶりに、野蛮になってみましょうか!」


そこにいたのは、つい先ほどまでのプリミラではなかった。背丈は大して変わらないものの、身に着けた修道服のフードから覗く顔は、このペリュトナイにはいない獣であるジャッカルに似ていた。そして滑らかな灰色の毛並みのその手には、リトスが持っている物と同じような形をした陶器の杖を持っていた。ただしリトスのそれに比べて明らかに長く、その先端には大振りな蒼白い結晶が飾られていた。


「さあ行きましょうか! 私のインフェリオン達! そして待っていなさい……! スクラ!!」


プリミラが吼えると同時に、彼女とその周りの獣人たちが炎に包まれる。そしてそれが天井にまで炎上すると、一瞬で炎が鎮まる。そして炎が消えた時、その場には誰も残っていなかった。次なる戦いは、密かに幕を開けたのだ。


 夕刻の闘技場。アウラの目覚めを待つ2人は他愛のない話を繰り広げていた。


「そういえばさっき聞きそびれたけど……」

「……? どうかした?」

「……いや、大したことじゃないの。もう怪我は大丈夫? 肋骨が殆ど折れてたのよ?」


リトスは自身の胴体、イミティオからの一撃を叩きこまれた場所を静かに撫でる。彼の表情に苦しみの色は無く、それは彼の骨折がもう治ってしまっていることを示していた。


「……多分大丈夫なんじゃないかな。…まさか僕の能力の上から折りに来るだなんて、思ってもみなかった」

「……それはまあ、壊劫だからね。それぐらいやってくれないと、レキ君が報われないから」

「……レキ君って?」


聞きなれない名前を、リトスは聞き逃さなかった。その名前を呼ぶセレニウスの声が、何かを懐かしむかのように聞こえたのだ。


「ああ、リトスは知らないよね。レキ君は、壊劫を打った鍛冶師、……あっち風だと、『刀匠』って言うんだったかな……。まあとにかく、壊劫を作った人って覚えておいてくれればいいよ」

「うん。……それで、報われないっていうのは? まさか、もう……」

「ああ違う違う。別にレキ君は死んじゃったわけじゃないよ。ただ、壊劫は彼が一番最初に作ってくれた剣なんだ。詳しいことは話すと長くなるから……。この戦いが終わって、移管がある時に話してあげるね」


そう言うと、セレニウスは小指を差し出す。それは指切りを望んでいるかのようであった。それにリトスは一瞬戸惑ったものの、一呼吸おいて指切りに応じた。


「これ、約束だよ。……絶対に勝って、生きて帰ろうね」

「……うん。約束、僕もするよ。絶対に生きて帰って、セレニウスの話を聞くよ」


指切りを交わした2人は、互いに微笑み合う。そんなことをしていると、彼らの前で倒れていたアウラが呻きだす。そしてしばらくすると、彼女はゆっくりと目を開いた。


「あ、れ……? セレニウス様に、リトス……? どうしたんですか? 2人してそんなに嬉しそうに……」

「……何でもないよ。それよりもアウラ、目を覚ましてよかった。リトスが心配してたよ?」

「集中が切れただけでよかった。……さあ立って」


先に立ち上がったリトスが、アウラに手を貸して立ち上がらせる。少しよろけながらもアウラを立たせたリトスの姿を見て、セレニウスはまた嬉しそうに微笑む。


「成長したね。こんな短い間に……。スクラが見たら泣いて喜びそうね……」

「だったら……。早くこの戦いを終わらせて、スクラに会いに行くよ。会って、この姿を見せるんだ。勝手だけど、それも約束の1つに加えるよ」

「いいえ、スクラさんだけじゃありません……! シデロスさんに、他のみんな。……そして、カルコスさんも。みんなに会うために、絶対に生きて、勝って帰りましょう!」


そしてリトスとアウラは、自ずと指切りを交わす。そんな約束を胸に、3人は歩き出す。行先は、ペリュトナイ王城。この闘技場を超えた先にある、かつての繁栄の証。そして今の、討つべき強大な支配が座すその場所へと。今の彼らにあるのは約束へと邁進する覚悟と、自身の死以外を厭わない決意であった。




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