24.威風、一石、月光燦然
我はこの現状に満足していた。誰に感謝されるでもなく、粛々と様々な外敵を狩り続ける。しかしそれは確かにペリュトナイの絶対的な平和に繋がっている。我はいつしか誇りを持つようにもなった。しかしどこか、そんな満ち足りた中で陰るものがあるようにも感じた。
事件が起こったのは、それから少し経った頃であった。陰る何かはこの頃には大きくなり、しかしその正体は未だにわからないままだった。街を襲う、人型の獣の群れ。その獣が死者の中から、羽化するように這い出てくるその様は、我が今まで見てきたどんなものよりも異質で、悍ましいものであった。我は誇りを胸に、街を守るべく獣を狩った。幸いにも、そこいらにいる獣はそれほど強いわけではない。市民たちの避難を終えつつ、我は獣を狩り続けた。そんな中で、我は出会ってしまった。
一見すれば他の獣に比べて細身な、その獣。しかしなびかせる暗い金色のたてがみは、何よりも異質で恐ろしいものとして、我が目に映った。しかし我は恐れない。陰が妙に目立つのを感じながら、我はその獣に戦いを挑んだ。
今の状況は、はっきり言って良いものであるとは言えない。リトスが戦闘不能になっているという点では、状況は極めて悪い。しかし、状況に絶望するような暗い影はどこにも無い。ここにあるのは唯一つ。単純明快、しかし強固な決意だけだった。今ここに、その決意に至るまでを繋いだ者は倒れ伏している。その事実が、彼女の決意をより強固なものとした。
「もう、十分です。これで終わりにしましょう」
真っすぐ、輝く銀の刺剣を構えるアウラ。彼女の目には、所作には、一切の雑念や恐れも無かった。ただ冷静に、目の前の敵だけを見据えている。
「少しの間何かをしていようと、我を下すことはできんぞ! 貴様もここで倒れるがいい!!」
イミティオが吼えようと、アウラは動じない。彼女の髪が微かに揺れる。しかし彼女は恐れを抱いていない。そしてそれと時を同じくして、微かに塵が舞い上がる。この瞬間、闘技場内には風が吹いていた。
ただじっと、私は目の前の敵を見据えている。背に吹き付ける風が心地良い。この風に乗れたのなら、どんなに爽快な走りが出来るだろうか。しかし今は気のままに走っている場合ではない。ただ1つ、するべきことは決まっている。その為に私は剣を研ぎ澄まし、この風に身を任せるのだ。
“さて……。お膳立てはしてやった。気の向くままに翔けるがいい。吾輩を能力源としている以上、下手を打つことは許さんぞ……?”
私の脳裏に響く声。私だけが、聞いている声。それは尊大で威圧的で。しかしどこか優しかった。一度だけ、私はその姿を垣間見たことがある。夢とも現ともとれないような、嵐の中に浮かぶ神殿のような場所。そこの主が如く君臨する男の顔は、よく見えなかった。ただその威容と迫力は、まさに『魔王』と言うに相応しかった。大いなる天災たる嵐の中心で、まるでその嵐全てを支配しているかのように君臨するその男が、私には遥か遠く気高いものに見えたのだ。そんな『魔王』にお膳立てをしてもらったのだ。ここは自分のできる最大限をこなすしかないだろう。……アウラ。私のこの名前はペリュトナイの古い言葉で『そよ風』を意味するらしい。人にやさしく、時には背中を押す追い風となってほしいと、父が名付けたらしい。これまでも、これからも、私は風であり続けるだろう。しかしこの瞬間、私は外敵を薙ぎ払う『突風』となる。そして私は、大地を蹴った。
突如吹いたその風に、イミティオは混乱を隠せなかった。ここは闘技場の中。構造上、風が吹き込むことなどあり得ない。それはつまり、この風が自然のものではないことを示しており、イミティオもそのことに気付いていた。
「貴様ぁ……! 一体、何を……!」
唸るように言葉を絞り出すイミティオに、答える者はいない。その代わりと言わんばかりに、突如一際強い風が吹いた。そして、イミティオと対峙していたアウラの姿が消失した。その瞬間を捉えた者は、この場には誰もいなかった。
(なっ……! 姿が見えん、だと……!? だが防ぎさえすれば……!)
咄嗟に壊劫で身を守ろうとするイミティオ。しかしその手が動くよりも早く、アウラが至近距離に接近した。加えて、アウラの剣はイミティオが守ろうとした心臓部ではなく、壊劫を持つ右手、その手首に向けられていた。普段の彼女であれば、ここまで正確無比な一撃を繰り出すことは困難に近いだろう。ましてや能力により加速している今、狙いを定める難易度は上がっている。それを可能としたのが、リトスが決死の思いで稼いだ1分という時間と、それによって高められたアウラの集中だった。
「は、や______!!」
アウラはもう止まらない。イミティオが認識した時には既にアウラが目前に迫っており、その手に構えた刺剣を、身構える壊劫を持つ手に突き立てんとしていた。
「……『
そして振り絞られたかのようなその声と共に、獣を討つ一手となる一撃が放たれた。それを止める者、止め得る者など、最早存在し得なかった。風と共に様々なものが宙を舞う。赤黒く煌めく血の飛沫。何かを握っていたかのような形で固まっている大きな獣の手。そして、主を失って回転しながら吹き飛んでいる壊劫…。それぞれが発生した風にあおられて飛び散る中、ただ1つ壊劫だけが、まるで吸い寄せられるかのようにある一点へと飛んでいった。そこにはちょうど、1つの影があった。
イミティオは、この状況を理解しきれなかった。自身の手は、そこにあった重みは何処に行ったのか。この痛みは一体何なのか。何故自分は片膝をついているのか。それらを追想し、反芻し、そしてその果てに答えを導き出す。目の前の女。心意気は感じるものの、非力で、臆病で、どこか懐かしさと恨めしさを思い出させるその女が、自身に害を為したのだ。当然のごとく、怒りが彼の中で沸き立つ。しかし今はそれに身を任せるわけにはいかない。落ち着いて傷を再生し、もう一度攻勢に出なければならないということを理性で理解した。
(傷は……。やはり深いか……! それに、この傷も熱いだと……!? まずい! 再生を急がねば…!)
傷の再生を急ぐため、イミティオは千切れ飛んだ自身の手を探す。いくら再生力の高い獣とて、欠損した部位を生やすことは不可能であった。彼の手はちょうど、闘技場の中心に近い場所にあった。案外あっさりとそれを見つけたイミティオは、すぐさまその足で中心へ向かう。そして手を拾い上げて、接着するように傷口同士を合わせた。
(再生が遅い……! このままでは……! ……いや、大丈夫か……!)
再生が間に合わない焦燥に駆られていたイミティオだったが、すぐにそれを投げ捨ててニヤリと嗤う。彼の逸らした目線の先、そこには力を使い果たして動けずにいるアウラがいた。高めた集中の糸が切れたことで、一気に力が抜けてしまったのだった。
「動け、ない……」
「動けずにいるのは貴様も同じのようだな!! この傷の再生が終わった瞬間に八つ裂きにしてくれよう……! 我を害した貴様を貪ってくれる!!」
自身が優位にいることを認識した瞬間に、イミティオが吼える。その様が酷く情けないことを、イミティオ自身は気付いていなかった。しかし、このままでは明らかにアウラたちが不利であることは明らかであった。勝利の確信か、イミティオの口角が更に吊り上がる。しかしそれは、ほんの僅かな刹那のことだった。
「……やっと、見つけた。私の、壊劫……!」
突如響いた声に、その場にいた誰もが振り向く。腰に提げられた刀から刃を抜き放ち、引き抜いた大剣を軽々と肩に担ぐ。その歩みは重く、確かな目的を持って進んでいた。その姿に、イミティオは畏怖し、アウラは希望を見出した。
「なんと、いうことだ……! 貴様ら、まさか……!!」
「やっと、来てくれましたか……! セレニウス様!!」
セレニウスは、ふと横を見る。そこには気を失って倒れているリトスがいた。
「リトス……。よく、頑張ってくれたね……。少しだけ待ってて。……すぐに終わらせるから」
リトスの横を通り過ぎ、彼女はアウラのところに行きつく。そしてすぐにアウラの前に立った。
「セレニウス様……。私……」
「……よく頑張ったね。後は私に任せて。……貴女は自慢の教え子よ」
セレニウスが向けた笑顔と言葉に、アウラは笑みを漏らす。そしてそこで力が抜けたかのように、アウラは崩れ落ちた。
「……そう。本当に、頑張ったわね。……さてと」
「!!」
崩れ落ちるアウラを見届け、セレニウスはイミティオに向き直る。その時には直前まで浮かべていた笑顔をすっかり消し去り、怒りを浮かべている。
「貴方、あの子たちを侮ったよね」
「だったら……、何だというのだ!」
淡々と、セレニウスが言葉を零す。冷静の極みのようなその言葉。しかしその内には、何よりも熱く燃え滾る怒りがあった。それに気付いてか気付かずか、イミティオが浅はかな怒りのままに吼える。
「……無理解、無自覚っていうのは、本当に残念だね」
それを意に介さず、セレニウスは言葉を続ける。その様子に、イミティオは言いしれない恐怖を覚え始めていた。
(こ、言葉が出ない……! 何だ……? 我が、恐怖しているとでもいうのか?)
吼えることすら、今のイミティオには不可能だった。自身の命の終わりを、本能のようなところで理解して、理解させられていた。
「……もう、終わりだよ」
その言葉と共に、セレニウスが前に翔ける。その手にした壊劫と永劫を、翼のように構えながら向かってくる様は、まるで巨大な猛禽のようであった。
鋭く深く、イミティオの脇腹を瞬間的な斬撃が裂く。それをイミティオが認識したと思えば、何かを蹴り砕く音が響くとほぼ同時に、重く速い斬撃が反対方向から斬り返してイミティオの腕に食い込む。また何かが蹴り砕かれ、鋭く深く。蹴り砕かれ、重く速く。鋭く、深く、重く、速く。延々と、絶え間なく……。イミティオは気付けば無数の壁に囲まれており、セレニウスはそれを蹴った勢いで怒涛の斬撃を繰り出していた。壁が砕かれるたびに、また新しく壁が生えてくる。これこそが、セレニウスの能力である『カマルハルブの高壁』。壁を生やすというだけの能力をここまで戦闘に活かせるのは、ひとえにセレニウスの膨大な経験と圧倒的なセンス、そして何よりも、扱いの難しい2つの剣を自在に操りながら風のように翔けることが出来る彼女の異常ともいえる身体能力が深く関係していた。いつしか地面は壁の破片で溢れかえり、壁の生成も起こらなくなっていた。それはつまり、セレニウスのこの怒涛の連撃からなる1つの大技、その終わりを意味している。そして壁が砕かれ続け、最後の1枚となった時、セレニウスがそれを蹴ると同時に壊劫と永劫を交差させるように構えた。一連の攻撃を締めくくる、絶大な一撃が放たれる。
「『エコー・エゴ』!!」
空気を砕くようなその叫びと共に、この上ない破壊力を持つ最後の一撃が、イミティオを完膚なきまでに叩き潰した。その一撃に、それ以前の連撃の1つ1つでさえ、イミティオには受け止めることは出来なかった。
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