5.虚脱、強奪、意志離脱

 いかなるものにも、好機というものが存在している。それを上手く見極めることが出来る者は賢者、そうでない者は愚者であると言えるだろう。それであるならば、彼は果たしてどちらなのであろうか。


 人とは、何度も事が起きることで生じる『慣れ』というものに絶対的な信頼を置いている。それは『期間』という面においても例外ではない。例えば、1ヶ月に一度開かれる会合があるとする。最初は誰もがそれに慣れてはいないが、何度か回数をこなせばそれに慣れ、日常の一部となる。しかし、定例の会合の次の日に緊急の会合が開かれれば、少なからず平静ではいられないだろう。今回の襲撃はそれと似ていた。月の輝く雲一つない夜に襲い来る獣の軍勢。本来それが再来するのは次のその日のはずであった。しかしそれらは、月の隠れているこの夜に、この街に現れた。昨日の撃退戦のこともあって、今宵戦闘に出ている者の数は、昨日の半分にも満たなかった。


「ええい、いつまで続くんだ! スクラ殿はまだか!」


筋肉質で屈強な男が、獣人の胸に刺さった槍を引き抜いて叫ぶ。


「壊れた門を塞がない限りは終わらないでしょうね…。アウラ、まだやれるか?」


痩身の男が被っている軍帽を整え、曲剣に付いた血を振り払う。


「はい! 昨日に比べれば数が少ないので大丈夫そうです!」


そしてアウラは刺剣を鞘に収め、取り出した短い紐で髪をまとめて後ろで縛る。さっきまでは4人いたのだが、そのうちの1人がスクラを呼びに行ったのでこの場にいるのは、彼ら3人だけだった。襲撃が一時的に絶え、刹那の休息をとっている彼らから少し離れた場所、壁の上からの炎で仄かに照らされた門の外では、セレニウスが1人で獣人たちを文字通り捌いていた。それはもう本当に、流れ作業のように獣人たちが切り裂かれていた。暗闇の中で走る銀色の軌跡が、いとも容易く獣人の腕を、脚を、首を断つ。振るわれる強靭な肉体からの腕の一撃も、更にそれを上回る腕の力で受け止め、そして枝のようにへし折った。


「……改めて見ると、本当に凄まじい強さだよな」


「流石はセレニウス様、といったところですね。あれで本調子じゃないらしいですよ。あっ、何体かこっちに来ますね」


「……またか。まあ、仕方ない。セレニウス様は1人でやってるからな。その討ち洩らしを処理するのが、俺たちの役目だからな。やることをやろう」


セレニウスの様子を見ていた2人は、彼女が討ち洩らした獣人が2体、こちらに向かってくる様子を見て臨戦態勢を取る。そんな彼らを、アウラが制止する。


「私が行きます。カルコスさんとシデロスさんは手を出さないでください」


刺剣を構え、アウラが前に出る。


「……大丈夫なのか?昨日みたいに助けが来るとは限らないぞ」

「安心してください。昨日みたいな醜態は晒しません。……ええ、晒しませんとも」


そうは言っているものの、刺剣を構えるその手は震えていた。しかしその細腕は、僅かとはいえ場数を踏んでいる者の腕である。故に、恐れで上塗りされたそれは戦うすべを知っていた。


「まあ何かあったら俺かカルコス殿のどっちかが助けるだろうから、まあやるだけやってこい」

「……すみません。では、行きます!」


シデロスの後押しを受けて、アウラの震えが少し治まる。深く息を吸い込み、そしてそれをゆっくりと吐く。そして彼女は風のように、獣人へと斬りこんでいった。


 寝台の上で、リトスはもがいていた。彼に覆いかぶさっているスクラの魔術、正式には『覆抱褥ほうふくじょく』という名前があるのだが、彼はそれを知らない。というより、今はそんなことを気にしている場合ではない。普段のスクラであれば多少加減して使っていたのだろうが、余程急いでいたのだろう。


「うぐ、ぐ……。重い……、苦しい……」


まるで分厚い布団のように、それは重くリトスの上にのしかかっていた。付け加えるのならば、真夏に金属のような重さの布団をかぶせられているような苦しさと重圧があった。


「僕が、行かなきゃいけないのに……!」


リトスのその決意が、彼の身体に力を与えている。しかしそれはこの状況を覆すには至らない。覆いかぶさっている蒼い布団を、払いのける力は彼に無かった。そう、かつての彼には。精一杯の力を振り絞り、寝台の横に立て掛けてある杖に手を伸ばそうとする。


「重い……、抜けない……」


覆抱褥から腕を抜こうと、力を込める。やはり重いそれから、腕を引き抜くのは彼にとっては容易ではなかった。しかし、それは不可能ではなかった。


「あと少し……。あと、少しで……」


そして、遂に彼の腕は重圧から脱した。そしてその証であるかのように、淡い紫の輝きを放つ杖を手にする。その小さな成功に、彼は笑みをこぼした。そしてのしかかっている天素の塊をどかそうと、杖を振った。そうすれば天素の奔流で、重圧が離れると思ったからだ。


「あ、あれ? どうして……。あっ」


しかし彼の上の塊はその姿を崩さなかった。想定していなかったこの状況に置かれると同時に彼はとあることを思い出した。それは先ほどまでの魔術講座でのこと、まどろみの中で聞いていた『魔術理論講座』にて話されていたことだった。


≪さて、最初にも言ったが、魔術とは天素を制御して起こす現象のことだ。そしてその現象を起こすにあたって天素という物は変質する。変質する前の、ただ励起させ活性化しただけの天素は容易にその姿を、性質を変化させる。しかし一度変質させた天素はその姿でいたがる。つまり、非常に変質を起こしにくくなるんだ。魔術師の中にはこの頑固者を動かす『霊重奏れいじゅうそう』という技術を使える者もいるが、それは上位の一握りだけだ。今の君には無理だろうな。そういった天素を操作したいなら自然に霧散するのを待つしかないだろう____≫


スクラのこの言葉を思い出し、リトスは悔しそうに杖を握りしめる。今の彼に取れるであろう最有力の手段は、潰えてしまったのだった。しかしリトスは諦めなかった。


「……行かないと、僕が行かないと……」


何が彼をそこまで駆り立てるのか、それは彼自身にもわからなかった。そんな出自不明の使命感のままに、リトスは天素を励起させた。そして彼は天素を一か所に集中させた。


「今度は、大丈夫かな……」


そして出来上がったのは、彼が実技講座にて作り上げた蒼い結晶板であった。


「ここを、こうして……」


結晶板を器用に動かして、上の塊の横に配置する。彼が取ろうとしている行動は、実に単純なことだった。


「頼むよ、メガロネオス……」


そして彼は自らに宿る『能力』に呼びかける。それに付随している『硬化』は、この状況においてはほぼ意味が無かった。単なる祈りのつもりのその力は、彼の中に確かな自信をもたらした。そして彼は、結晶板を真横に思い切り動かす。そして、ドスンという重いものが落ちる音と、硬いものが壁にぶつかる音がした。


「はあ……、はあ……。重かった。……どうしよう、これ」


重圧からの解放による安寧もつかの間、彼の目線は結晶板が激突したことでひびが入ってしまった石壁に向いていた。


「……あとで謝らなきゃ」


しかしそんなことを気にしている余裕は彼に無かった。杖を持ち、結晶板を横に浮かせたまま、彼は大急ぎで靴を履いて部屋から走って出ていった。能力による疲労のことなど、彼はすっかり忘れていた。


 綺麗な銀色の刺剣の切っ先が空を切る。襲い来る獣人の胸元、そこには大きな蒼白い結晶が突き刺さっていた。その色を塗りつぶすかのように、赤い液体が流れている。そして結晶が霧散すると、獣人の胸は深紅に開花した。それを見て、アウラは思わず動きを止めた。


「油断するな!まだ敵はいるぞ!」


彼女の背後から聞こえるその言葉で、彼女は再び剣を構えた。そして一瞬で獣人との距離を縮めると、その喉に剣を突き刺した。すぐに後ろに飛び退くと同時に剣を抜く。


「よく戦えているじゃないか。立派だぞ、アウラ」

「……スクラさん。随分遅かったですね」


背後から近づいてくるスクラに、アウラは剣の血をふき取りながら答える。スクラの姿に気付いたカルコスとシデロスが近づいてくる。


「スクラ殿! 例の少年のことはもう良いのですか!?」

「カルコス氏、彼は慣れない能力使用で疲労しきっています。動いたとしてもそこまで持たないでしょう。……彼を危険に晒すわけにはいきません。それなりに丈夫な部屋にもいるわけですしね」

「……まあ何でもいいです。スクラ殿さえいれば心強いです」


そんな彼らのやり取りを聞いていたのか、遠くから声が響く。


「スクラ!! 来たならこっちを手伝って!! いい加減面倒になってきた!!」


セレニウスが門の外で叫んでいる。そう叫びながら、彼女は獣人を切り裂き続けていた。どう見ても加勢は必要なさそうだが、ここで無視すると後が非常に面倒になるのはスクラの方である。


「今行きます!! あー、そういうことらしいから俺は行きます。引き続き警戒しておいてください」


スクラはそう言って門へ走っていく。


「スクラ殿とセレニウス様は相変わらずだな。でも、これで心配はなくなった」

「そうですね。まあ警戒するに越したことは無いですから」


そう言いつつも、シデロスは曲剣を鞘に収め、アウラは刺剣を持つ手の力を抜いた。どう見ても警戒は緩められている。それは裏を返せばセレニウスとスクラへの信頼の表れとも見て取れた。


「な、何だこいつは……、アギャッ!」

「だ、誰か助けを……」

「……」


そんな彼らから離れた場所、昨夜襲撃があった北東門にて深紅の異変が起きていることは、たった1人を除いて誰も知り得なかった。




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