そこにある幸せ

黒百合咲夜

日常風景

 大月美緒は、今年の春から大学生だ。

 高校生の時からずっと憧れていた大学生活。多くの友だちに囲まれ、サークルや普段の生活の中で充実した時間を過ごす。いつかは人生で初めての恋人が出来るかもしれない。

 そんな彼女の期待は、見事に裏切られることになる。


『で、ここでいう意味とは……』

「……ふわぁ~あぁ~」


 パソコンの前で大きなあくびを漏らす。

 想像していた大学生活は、世界的に広がった感染症の影響でほとんどがオンラインでの授業になってしまった。そのせいで学校に行ったのは最初の数日だけ。友だちなんて出来るはずがない。

 退屈に思いながらテキストに要点を書き込んでいく。やはり、対面授業でなければほんの少し寂しく感じるようだ。

 解説が終わり、次のページの内容に移る。その一瞬で背伸びをして体の姿勢を変えると、

背後で部屋の扉が開く音がした。


「ふわぁ~。おはよ~」

「おはよ~、じゃ、ないでしょ。今二時限目の途中よ?」

「あ、そうなの? よく寝た~」

「よく寝たじゃない! もっと早く起きなさいよ!」

「私、今日は午前中に授業ないんだもの」


 まだ眠たい閉じた目を擦りながら部屋に入ってくるのは、美緒の中学時代からの友だちで一緒に地元から出てきた細谷みのり。学部は違うが、同じ大学で唯一の友だちだった。

 大学近くのアパートでルームシェアをしている二人。娘に一人暮らしをさせるのは不安だと感じた二人の両親がルームシェアを提案したのだ。

 寝ぼけ眼を擦るみのりが椅子に座る。上半身を机に投げ出してお腹を鳴らした。


「ねぇ~。朝ご飯は~?」

「見て分からない? 今授業中だから適当に食べといて」

「えぇ~。美緒の作るトーストが食べたい~」

「ならもっと早く起きなさいよ!」


 みのりを無視して美緒はパソコンと向かい合う。ちょうど、期末試験で出す可能性が高いと先生が言っていた問題の解説場面だった。

 テキストだけでなくノートも利用して整理していると、みのりが美緒の背中に抱きついた。顔を埋めて体重も預ける。


「みのり?」

「ねむーい。ここがちょうどいい温度なの~」

「ちょっ、はーなーれーて! 書きにくい!」


 みのりの腕は美緒の胸の前で組まれているためすごく動きにくい。思うように腕を動かせない美緒が呆れ半分怒り半分で振りほどこうとしている。

 だが、みのりはいたずらっ子のような顔で抵抗した。力を強くして振りほどかれないように耐えている。


「抵抗……するなぁ!」

「じゃあトースト作って~」

「だーかーら! 授業中!」

「じゃあ寝る~」


 どこまでも平行線で無意味なやりとり。

 遂には美緒が本気を出す。すっと体を滑らせてみのりの拘束を抜け出すと正面で向かい合って取っ組み合いのような形になった。

 みのりも面白げに美緒と手を合わせる。それは取っ組み合いというよりは押し相撲と呼ぶのが正しいだろう。


「おっ、やる~?」

「遊びじゃないから! おとなしくしなさいよ!」


 しばらくお互いに押し合う。美緒が思う以上にみのりは力が強かった。


『――さん。大月さん。大月さん』

「こん、のぉ……! 案外筋力あるわね……!」

「ねぇねぇ美緒。呼ばれてるよ?」


 みのりが顎でパソコンを指し示す。美緒が振り返ると、画面を覗き込むように先生の顔がアップになっていた。

 途端にみのりの手を離して画面と向き合う。


「は、はい!」

『ようやく気づきましたか。では、解答は何でしょう?』

「えぇと……友人のおかげで私は楽しくすごしている、です」

『あー……正解、ですね。でも、そこは十分前に終わったところですよ』


 画面の向こうで先生が苦笑いする。

 マイクもカメラもミュートになっているが、きっと同じ授業を取っている他の人も笑っていることだろう。恥ずかしくて俯いてしまう。


『あぁ、それと』


 先生が頬を掻いた。


『大月さんのマイクですが、途中からミュートが外れていましたよ。仲良しなのは素晴らしいことですが、授業はちゃんと聞いてくださいね』


 美緒の顔はもう真っ赤だった。

 小声で謝罪してミュートになっていることを改めて確認する。涙目で振り返ると、みのりは机に頬杖をついて笑っていた。

 みのりはそれ以上邪魔してくることはなく、美緒は先生の解説を聞いてノートに纏めた。

 問題の解説が終わると同時にチャイムが鳴っているのが聞こえる。先生はチョークを置くとカメラを真っ直ぐ見つめた。


『えー、今日はこれで終わろうと思います。皆さんも感染対策をしっかりして、このような状況下でも楽しい学生生活を送れることを祈っています。気の合う友だちを作って……あぁでも、単位に影響のない範囲でね』


 そう笑って言うと、部屋が閉じられた。

 美緒は勉強道具一式を片付け、すっと立ち上がる。みのりを見ると、視線を明後日の方角に向けていた。


「みーのーりー……ッ!」

「あ、あはは……。さすがに悪ふざけがすぎたよね。ごめんね?」


 素直に謝るみのりを見ていると、自然と美緒から力が抜ける。

 なんだかんだあっても、まだ楽しい大学生活を送ることが出来ているのはみのりの存在が大きい。みのりがいなければ邪魔されることはないだろうが、それ以上に虚無感が大きいだろうと美緒は思っている。

 苦笑して肩をすくめた。パソコンを閉じるとパン類を置いているかごの前まで歩く。


「じゃあ、ご飯にしましょうか。私もみのりも三時限目に授業があるものね」

「だね。お腹空いてるのに暴れたから、もう空腹で限界~」


 机で完全にだらけきっているみのりに美緒が笑う。

 食パンの袋を机に置いて冷蔵庫を開けた。


「で、何を乗せるの? 玉子? ウィンナー?」

「どういうこと?」

「トーストよ。食べたいんでしょ?」

「うーん……お昼だからそうめんが食べたいかな?」

「……あんたねぇ」


 どこまでも自由なみのりに呆れ、実家から送られてきた乾麺の袋を開封するのだった。

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