5-1 姉妹の虫

「ごめんね、くしちゃん」

そう言ったないしの表情は言葉とは裏腹に鋭いものだった。瞳には怒りを秘めた光が揺らめいている。

2人は千駄ヶ谷にある神社で待ち合わせしていた。

ここは姉妹が昔住んでいた家にほど近いところにあった。またこの神社は複数の駅からアクセスが良いのに何故かいつも人気が無かった。そしてここは、ないしと野比沢が初めて出会った場所だった。

時間は午後3時。空はどんよりと曇り辺りに人影はない。

くしはしばらく考えてから、姉を真っ直ぐに見つめて複雑な表情で答えた。

「この前の事なら……、わたし、気にしてないから……」

しかし姉は静かに首を振る。

「違うの。この前の事は確かに私が悪かったけれど、それじゃない」

「お姉ちゃんの動画のことなら……」

くしの言葉をさえぎってないしが叫ぶ。

「そんなことどうだっていいの! これから私がする事よ! それを先に謝っているの。間違った事をしようとしているのは自分でもわかっているのに……、どうしてもこの気持ちが抑えられないの」

「どういう事? お姉ちゃんが何を言っているのかわからない……」

眉に皺を寄せてくしは聞き返した。

「くしちゃんは野比沢武を知っている? 」

「えっ……? 野比沢って……、ああっ、あの背が高いメガネの怪しいおじさん? 」

くしは怪訝な顔で聞き返す。

「そう……、50過ぎのおじさん……」

「えっ……、あの人、そんな歳なんだ」とくしが驚く。

そんな妹の様子にないし唇を噛んだ。

(「すごく……、綺麗になってる」)

久しぶりに妹を間近で見て、ないしは愕然とした。しばらく顔を合わせていない間に妹は美しく成長していた。

(「いいや、違う……。あれは成長じゃない。蟲のせいだ。妹は蟲の力で本来持っていたポテンシャルが最大限に開花しているんだ」)

蟲は吸収された宿主の細胞を活性化させて、肉体のパフォーマンスを極限まで引き上げる。蟲を宿した妹は活き活きとしたオーラに溢れていた。

ないしには妹の体から漏れ出すエネルギーがわかった。その艶のある長い黒髪。キラキラと輝く大きな瞳。透き通るような肌……。くびれた腰……。キュッと締まった足首……。若い女が持つ弾けるような透明感……。

(「ああ、……そうか。これなんだ……。この溢れ出る女としての魅力を前にして感じる妬み。目の前の女と比べて、自分がメスとして劣っているかも知れない事への劣等感。このフツフツと湧いてくる負の感情こそが、自分が今まで同性から散々向けられていた敵意の正体なんだ……。まさか自分が他の女に対してこんな気持ちを抱く事になるなんて……。それも唯一側に居てくれた自分の妹に……」)

ないしは野比沢の気を引いているであろう美しい妹に激しく嫉妬している事を自覚する。

「……」

「お姉ちゃん? 」

急に沈黙した姉を不審に思うくし。

するとないしは、まるで野比沢のようにため息をついて言った。

「私は……、15年前に野比沢に出会い蟲を与えられた。それからずっと私は彼の言いなりなの。私は彼の命令ならなんでもする女……。蟲を持つあの人には決して逆らえない。……ねぇ、くしちゃん。あなたは彼とどういう関係なの? 」

「えっ……、15年前? 」

(「15年って……、わたしが生まれた頃? そんなに長い間、お姉ちゃんは蟲を食べていたんだ……。ああ……、そうか。そういうことか。だからお姉ちゃんはあんなにも魅力的だったんだ。やっと……、わかった」)

頭の中の霧が晴れるみたいな気分でくしは納得した。

するとないしは、皮肉っぽい笑顔を浮かべて話し続けた。その表情はくしの知る姉らしくなかった。

「そう。6歳からの15年間は野比沢武と彼から与えられる蟲だけの人生。……だからね、くしちゃん。あなたは野比沢に関わらないで! 」

本当の理由を隠して、ないしは要件を叫んだ。

「ああ、そんな事……。それなら心配しないで。あのおじさんとの間には関係っていうほどのものは何も無いよ。1、2回、偶然会っただけだし……。渡された連絡先にもこっちから掛ける気なんてないから……」

「えっ!? 連絡先を……、渡された!? うそ……、野比沢から!!? 」

頭を何かで殴られたような衝撃がないしを襲う。

(「あの野比沢が自分から連絡先を教えるなんてあり得ない! ……そんな事あるはずがない。だって私にはずっと……。15年もの間、ずっと秘密にしていたのに……。そんなに……!? 野比沢はそんなにも妹の事が!? 」)

ないしの心が嫉妬に狂う。心に灯った黒い灯火は炎となってあっという間に燃え盛り、ないしを焦がす。

ないしの体が小刻みに震えている。

(「どうして!? なんで野比沢は私ではなく妹を選ぶの? 私の方がくしちゃんよりもずっと前から彼の側にいたのに……。顔だって、体だって……、私の方がずっと良いはずなのに……! わたしは彼が望めば何だってするのに……! わたしは全てを彼に捧げてきたのにぃぃぃぃ!! 」)

くしはまだ何かを話していたけれど、ないしの耳にはもう何も聞こえなかった。

ないしは突然、携帯を取り出して妹に見せる。

「くしちゃん、この動画、知ってる? 」

くしが目を見開く。それはあの公園で範田真央に跨り腰を振っている自分の姿を撮影した動画だった。

「どうしてそれを!? 」

「野比沢から貰ったの」

ないしは嘘をついた。実際には彼のパソコンから勝手にコピーしたものだ。

「くしちゃんにも私の苦しみを分けてあげるよ」

ないしは意地悪く携帯の画面を見せつけて妹に言った。

「リィィィィン! 」

その時、2人の頭に鈴の音か鳴り響いた。

「くしちゃんも聞こえたでしょ? 今の殺意の波動が。つまりそういうことだよ」

「やめて! お姉ちゃん!! 」

くしは恐怖に歪んだ顔で叫んだ。

(「あの時の姿なんて誰にも見られたくない! 蟲に狂ったわたしなんて……。あんな姿を誰かに見られたら……、終わりだ。絶対にダメ! そんな事させない!!! 」)

『飛跳閃光』

くしは黒い銃を呼び出すと、素早くないしの携帯電話に狙いを定め光の弾丸を発射した。

「バシュッ! 」

しかし弾丸は携帯電話をすり抜けて後方のコンクリートに大きな穴を開けた。

「はずした!? 」

けれどくしはすぐに気がついた。

(「はずれたんじゃ無い。まるですり抜けたみたいに……、躱したんだ。目にもとまらない程のスピードで! 」)

「お姉ちゃん! なんでなの!? 私への復讐? 」

「……私、やっと気がついたの。いや、違う……、今まで目を逸らしていたの。くしちゃん……、ごめんね。私は野比沢武が好き」

真っ直ぐな瞳でないしは言った。口に出す事でないしの決意はより強固なものになった。

「えっ!? 」

くしには姉の言っている事が理解できない。しかしその「ごめんね」が、今までの姉とは違う本当の「ごめんね」である事がわかった。

「でも……、彼はくしちゃんの事が好き……」

そう言ったないしは自分の武器の名を呼ぶ。

『静寂の丘(サイレントヒル)』

ないしの右手に白いナイフが握られた。

「お姉ちゃん!? 」

「リィィィン! リィィィン! 」

警告する様にないしが殺意の波動と呼んだ鈴の音が鳴り響く。

姉はゆっくりと妹へ近づく。

姉の思い詰めた表情を見て、くしは一瞬にしてないしの決意の深さを理解する。姉が自分に強い敵意を持っている事を理解する。

そしてフツフツと怒りが湧いてくる。

(「いい加減にしてよ……。お姉ちゃんが誰を好きだってわたしには関係ない! お姉ちゃんの身勝手な想いで、勝手にわたしを恨んで! 勝手にわたしに嫉妬して! ……もう、お姉ちゃんに振り回されるのはウンザリだ!! 」)

「ババシュッ! 」

くしは湧き上がる怒りと共に銃のスライドを自分の手で引き、5発の誘導弾を姉の心臓めがけて打ち込んだ。ハッキリと殺意を持って。

「ジュジュッ!!! 」

けれどないしは弾丸を躱さずに白いナイフで素早くかき消した。5発の弾丸は瞬時に空中で消滅した。

「弾丸を……、切った!? 」

「そんな遅い攻撃、躱すまでもないよ」

ないしは独り言のように呟く。そして妹の視界から消えた。

「ザッッ! 」

「えっっ!? 」

くしが気がついた時、姉はすでに自分の背後にいた。

ないしは一瞬で距離を詰めると、すれ違いざまにくしの脇腹をナイフで斬りつけていた。

(「あ、あ、あり得ない!? な、な、何っ、あのスピード! 全然……、見えなかった!!! 今、わたし、斬られた!? 」)

くしは衝撃のあった脇腹に恐る恐る手を当てた。しかしそこに切り傷は無い。服も破れていなかった……。

(「何かが触れた感覚があったのに……、えっ、あれっ!? 」)

「ちょっと……、何っ!? 」

思わずくしが呻いた。

傷はなかったけれど、まるで麻痺したようにくしの体が動かない!

「くしちゃん。私のナイフにはね。特殊な機能がついているの。このトリガーを引いて切りつけるとね、傷を負わないかわりに動けなくなっちゃうんだよ」

妹に息がかかるほど顔を近づけたないしは、嬉しそうに耳元で囁く。

(「何っ……、それっ!? 最悪!本当に……、身体が動かない! それにさっきの動き……、お姉ちゃんは異常だ! あんなの勝てるわけがない! レベルが違う! わたしなんかじゃ……」)

妹は姉との力の差に愕然とする。

「口だけは動かせるようにしたよ」

うっとりとした表情でないしは妹に囁いた。

「お、お姉ちゃん!? 」

妹の声を無視して姉は右手のナイフを逆手に持ち替える。

くしの毛穴が一気に開いて冷や汗が全身から噴き出した。姉の左手にはカメラモードを起動した携帯が見えた。嫌な予感しかしなかった。

「やめてよ! お姉ちゃん!! 」

しかし姉は薄く笑って言った。

「あの公園の動画にはくしちゃんの裸のおっぱいとアソコが写ってなかったものね。追加で撮影しなきゃ。男の人はね、そこが見たいんだよ」

姉の表情がゾッとするほど美しく歪んだ。

そしてないしは妹の衣服を白いナイフで真っ二つに切り裂いていく。くしの肌に傷がつかないようナイフはゆっくりと彼女の着ているグレーのニットを切断し、スカートを裂いた。破れた衣服からくしのブラジャーとショーツが露出した。

「あれ? 可愛いブラしてるね。おっぱいも少し大きくなったんじゃない? 」

ないしはそう言って妹のブラジャーの中央を白いナイフの先端で引っ掻くよう切った。

勢いよくブラジャーは破れ、くしの胸が弾むように晒された。

「やっばり少し大きくなったんだね。綺麗な形……。でも私よりはだいぶ小さいかな。それに乳首が少しブサイク。左右の形だって違うし……、色も私の方が綺麗だね! 」

(「……殺してやる!! 」)

姉の言葉に妹の怒りが沸騰する。くしは渾身の力を込めて身体を動かそうとした。

しかしどんなに力を込めても、くしの体は指先1つ動かなかった。『飛跳閃光』のトリガーすら引けない……。

姉はそんなくしの様子を見て悪戯っぽい表情を浮かべる。

それからおもむろにナイフの刃の裏側で妹の乳首を刺激した。不思議な事に『静寂の丘』と呼ばれる白いナイフが触れた部分だけは体の感覚が戻っていく。

くしの乳首は突っつくように刺激されると、すぐに勃起してしまった。

「わぁ、この乳首……、すぐ勃っちゃったね! くしちゃん淫乱なんだぁ」

姉は妹の乳首を弄び、カメラで舐めるように撮影した。そして今度は白いナイフを妹のショーツの端にあてた。

「やっ……、やめてよ、お姉ちゃん!! 」

震える妹の声を無視して、姉はくしの履いている淡い水色のショーツの端を器用に切断した。

くしの性器が露わになる。

「うわぁ、くしちゃんのおまんこってこんななんだぁ……。かわいいね。くしちゃんのアソコはビラビラがすごく小さいんだね。毛も全然生えてないし、なんか赤ちゃんみたい」

くしは抵抗できない自分が情けなくて……、今の状態が恥ずかしくて……。そしてあの姉にいいように辱められている事が何より悔しくて……、瞳に涙を溜めた。

妹は唇を噛んで姉を睨む。

今のくしにできるのはそれだけだった。

そんな妹の表情に、ないしは自分の中の黒い欲望がどんどん膨らんでいくのを意識した。

こんな事をしたって意味がないのに……。

姉は妹への陰湿で性的ないじめをやめられない。

妹を汚したい。妹を辱めたい。もっともっと貶めたい……。2度とあの人が妹に振り向かないように!

「あれっ? やだぁ、くしちゃん、ココ、濡れてるよ、やらしいんだぁ」

姉は妹のヌルヌルになった膣口をナイフの裏側で擦りながら言った。

「いやぁ……や、やぁ……、めてよ……」

くしの腰が自然と震える。こんな状況でも快感を覚える自分の体に苛立つ。

(「身体がおかしい……。手足は動かないののに、あのナイフに触れられた部分だけは熱を持ったようにジンジンしてる……。ダメだ、感じてはダメ……」)

「これを入れたら……、どうなっちゃうかな? 」

そう言った姉は白く輝くナイフの刃先を妹の頬につける。

「や、やぁ!? やめ……、て、お姉ちゃん……、もうやめてよ! 」

くしは絶望的な気持ちでないしに言った。

妹の涙ぐんだ表情を見たないしは、自分のアソコがまるで蟲を食べた時みたいに疼いている事に気が付く……。この女を壊してしまいたいという黒い欲望は、ないしの中でさらに膨れ上がった。

ドクン! ドクン!

ないしの心臓が大きく脈打つ。

すると突然!

ないしの体に異変が起きた。

「あっ!? 」

姉は短く呻いて自分の股間を抑えた。

ないしの股の間からウネウネと波打つ金色の糸のようなものが溢れ出てくる。

「こ、これ……、蟲の……!? そ、そんな!? 今日は食べてないのに……? 」

ないしが驚きと恐怖の入り混じった声を上げた。彼女の股間から伸びた糸はあっという間に伸び広がって彼女の体を繭のように包み込んでいく。

「ど、どうして!? ちゃんと約束の分量は守っていたのに!! 」

ないしは叫んだ。

「もう手遅れッス」

その時、姉の背後から聞き覚えのある冷たい男の声がした。続いてその声は不思議な単語を発した。

『最後の幻想(ファイナルファンタジー)』

声と同時にないしの胸に深々と半透明の刃が突き刺ささる!

「ぐばぁっ!! 」

ないしの口から大量の血が吐き出された。

彼女のボリュームのある胸を突き破った刃の切っ先は、姉の真向かいにいた妹の鼻先、ギリギリの所で止まった。刃の先端からドライアイスのように白い煙が立ち上っていた。

くしは無理に首を捻って刃を握っている人物を見た。歪な刃に貫かれた姉の背後には……、野比沢がいた。

彼は不思議な刀を呼び出して、容赦なく姉の心臓を背後から貫いていた。

野比沢が『最後の幻想』と呼んだ武器は、氷の塊を切り出したような刃に滑り止めのテープのようなモノを巻いた円柱の持ち手がついていた。表面は半透明で水面のようにテラテラと光っている。刀身から持ち手まで淡い水色で、ほのかに冷気の煙をあげていた。そして刃の突き刺さった姉の傷口は、見る間に凍りついていく。

「ウゴッ、ゴプッ! 」

胸を貫かれ、止めどなく血を吐きながら、ないしが言った。

「ど……う、……して? 」

「チョリッース! ないしパイセンは気がついていなかったんすか? 蟲が羽化したのはパイセンを支配していた強い負の感情が原因っすよ。強い嫉妬がパイセンの中の蟲を一気に育てたんス。蟲は人の持つ強い感情や欲望が大好物っスもんね。な、ないし……、お、お、お前には何度も注意したはずだ、……っス。それなのにぱ、ぱ、パイセ……お、お前は! あれだけ事前に注意したのにお前は……。オレッチにはもう止められないっす。もう……、サナギの時間は終わってしまう……、っス。このままではパイセンは成虫になってしまう! ……こうなってしまったら、殺すしかない……。せっかく蟲以外に興味を持たないように時間を掛けて育てていたのに……。お前はもう……」

野比沢が不安定な口調で話す間に、ないしの胸を貫いている氷の刃は、まるで冷気が伝播するように姉の全身を凍らせていった。

(「このしゃべり方……、知ってるな……。ああ、あのチャラい中学生の子かぁ。あの子の武器はこんなだったんだ。オチンチンはすごく小さかったのに、彼の武器は大きくて太い……。なんかやだなぁ……。あぁ、でも……、やっぱり、私はこの人に殺されるのかぁ……。もう、それでいい……。私はもうずっと前に……、この人に殺されていたみたいなものだから」)

ないしは背後から自分を貫く刃を握っている男を力無く見つめる。

「1つだけ……、教えてほしいの」

「……」

野比沢は表情を変えず無言で頷いた。

「グププッッッ! 」

ないしは口からまた血を吐いた。それから苦しげに細い声を絞り出す。

「どうして……、私じゃなくて……、妹なの? 」

野比沢は驚いて眉を上げる。

そして少しだけ目を伏せる。

「……、……」

やがて彼は何かを決心したように顔を上げると『最後の幻想』から手を離した。

それから『漆黒の不可解物質』を呼び出す。そして黒い半月形のポケットに手を入れると、人の大きさほどの塊を半分ほど取り出して見せた。

それは……、女のサナギだった。

そのサナギは今のないしと同じように首から下が黄金色の糸に巻かれてミイラのような状態だった。

「あっ……」

サナギの顔を見たないしが呻いた。

「このサナギは僕のお母さんだったモノだ。お母さんは蟲をやり過ぎて羽化する寸前だった。一度、羽化が始まったら止められない。もう元に戻すことは不可能だ。人間には戻れない。でも助けなければいならない。今はできなくとも。いつか必ず助けなければならない。だからこれ以上、羽化が進まぬよう『漆黒の不可解物質』に入れて保存している」

野比沢はいつもの冷静で冷たい口調に戻り、淡々と告げた。黒い半月型の『漆黒の不可解物質』は、野比沢の腹のあたりにプカプカと浮かんでいる。

野比沢の武器『漆黒の不可解物質』はその中にどんなサイズのものも収納できる魔法のポケットだ。さらに「漆黒の不可解物質』の内部は時間が止まっている。中に入れた物は完全な状態で保管される。決して劣化しない。またサナギを保管した場合、その武器を自由に扱う事もできる。あらゆるものを保存し、保管しているものを使役できる能力。それがポケットタイプ『漆黒の不可解物質』だ。しかしサナギの武器は持ち主の体の一部。それを他者が使用しようとする時、武器を生み出した持ち主の影響を受けてしまう。つまり持ち主の性格が憑依する。『拍子狂い』の持ち主は売れないバンドマンだったので、野比沢の口調はロッカー風に変化していた。この『最後の幻想』の持ち主は中2のチャラい男の子だったので、軽薄な言葉使いになってしまう。野比沢はそんな喋り方をしたくは無かったが、自分以外のサナギの武器を使う時、どうしても持ち主の人格が憑依して影響を受けてしまう。

『最後の幻想』から手を離した野比沢は、落ち着いた冷徹な口調で話を続けた。

「そして僕はお母さんから『常世の蟲』に感染したんだ。僕とお母さんを愛し合っていた。つまり……、そういう事だ。成虫になる寸前だったお母さんを僕は『漆黒の不可解物質』に閉じ込めて保管した。時間の止まった『漆黒の不可解物質』の中でこれ以上、羽化が進まないように。サナギはこのポケットから完全に取り出さなければ、時は止まったまま。あの日のままだ。そしていつの日か……、この状態を元に戻せる武器を見つけ、再び時の歩を進める……」

野比沢の声は僅かに震えていた。

ないしは野比沢の言葉に目を見開く。そして謎が解ける。

「あぁ……、そうか、そうなんだぁ……」

ないしは虚しく納得した。

野比沢が母親と呼んだそのさなぎは、美しい顔立ちをした長い黒髪の女性だった。年齢は20代半ばくらいに見える。

そして……。

その顔は驚くほど妹のくしに似ていた。

ないしの霞む視界には呆然と事態を見つめるくしの顔が見えた。黒髪のさなぎの顔と妹の顔がないしの中でピタリと重なる。妹はあと10年もすれば、この女と見分けがつかないほど同じ顔に……、美しい女に成長するだろう。

野比沢は他のサナギの武器を使っていない素の状態の時、自分の事を「僕」と呼ぶ。話し方だって敬語だし、あまり口数だって多くない。内気なコミュ障のマザコン少年……。それが野比沢の本質。でも……、その繊細で一途なところがないしは好きだった。

けれど、愛する死にかけの母親と瓜二つの妹が野比沢の前に現れた時、彼女の負けは確定した。ないしの想いは野比沢に届かない。くしがいる限り永遠に。

「私じゃダメなのかぁ……」

ないしは薄れる意識の中、背後にいる野比沢の頬に手を伸ばした。彼の頬は氷の様に冷たかった。冷気がパキパキとないしの身体を蝕んでいく。

野比沢はメガネを外して言った。

「……ないしさん、ごめんなさい」

そして彼も、後ろからないしの頬に手を添えた。

「……うん」

ないしの頬を涙が伝う。

冷たい手……。

ないしの頭の中で野比沢と過ごした色々な場面が次々に浮かんでは消えた。6歳の時、この神社で泣いていた私に声を掛けてきた野比沢の姿が鮮やかに蘇る。

……どうして泣いているんだ?

初対面の子供に高圧的に話しかけてきた野比沢。あの時、冷たくてぶっきらぼうな彼の言葉とは裏腹に、野比沢の手は震えていた。

あぁ……、私……、やっぱりこの人が好きだ……。

ないしは野比沢と妹の出会いを呪った。

2人が出会わなければ、私はずっと野比沢の側にいられたのに……。

その時、ふと彼女は思った。

(「あれ? このままわたしが死んだら……、野比沢はその黒いポケットに私の死体を保管するのかな? もしそうなら……」)

「そうなればいいなぁ……」

そう呟いて、ないしの意識は途絶えた。

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