3-4 不死の虫
地面に転がる死んだビーグル犬にわたしは静かに目を落とす。
沢山の屍人達は犬が事切れるのと同時に、焼け焦げた炭のように変化して崩れ落ちていった。りなちゃんだけは他のゾンビよりもゆっくりとチリに変わっていった。りなちゃんはなななの元へゆっくりと歩いていく。やがて仔犬用のリード紐がカチャリと地面に落ちる。りなちゃんは消えてしまった。後には白に近いグレーの灰が残った。
地面は崩落の衝撃でまだ鈍く振動している。地下鉄の天井はすっかり崩れ落ち、わたしの頭の上には曇った空が見えた。
ゾンビに噛まれた肩からは燃えるような熱を感じる。身体中が擦り傷だらけだ。肋骨がズキズキと痛む……。
けれど今のわたしには、それらの痛みがどこか虚ろで遠くの出来事に思えた。
わたしはこの銃を突き刺さした時に流れ込んできたビーグル犬の記憶と死の衝撃に混乱していた。
あの口の悪いビーグル犬が一途に主人を思っていたなんて……。蟲さえ食べなければきっとビーグル犬とりなちゃんは……。
『漆黒の不可解物質(ブラックマトリクス)』
わたしの思考を遮り、ふいに頭の中に文字が浮かぶ。
振り向くと……、いつのまにかわたしのすぐ後ろに背の高い男が立っていた。
冷たい瞳、銀縁メガネ、黒いジャケット。それはあの野比沢武だった。
野比沢の掌には見慣れない半月の形をした黒いものがプカプカと浮かんでいた。その半月形の黒い物体の直線部分をポケットを開ける様な仕草で野比沢が開く。
すると……、絶命したビーグル犬の体が宙に舞い上がり、黒い物体の中へと吸い込まれていく。
「えっ…….!? ちょ、ちょっと! 何をしてるの!? 」
びっくりしてわたしは野比沢を睨んだ。
ビーグル犬に宿る『常世の蟲』はわたしのものだ。これだけ苦労して手に入れた蟲を横取りされてはたまらない。
「また会ったな。田宮くし」
「えっ!? どうしてわたしの名前を? 」
「お前は1度、『拍子狂い』に操られている。あの武器は操るものの情報を自在に引き出す機能があるんだ。便利だろう? 」
そう言った野比沢は浮遊する黒いポケットからあの肩がけキーボード『拍子狂い』を取り出してみせた。
「お前のことなら僕は何でも知っている。初めての男から姉への妬みまで何もかもだ」
「はっ!? 」
わたしは不快感で顔を歪める。
「しかしお前がまだ生きていたとは意外だった。あれだけの蟲を吸収して、今も正気を保っていることもな。正直驚いた。あの範田真央には少なくとも6、7匹の蟲が巣食っていたはずだが、それをお前は全て食平らげてしまったのか? もしもそうなら人間の許容量を超えてしまっている。普通ならサナギを越えて成虫になってしまうはずなんだがな。お前の体はいったいどうなっているんだ? それともあれから何か特別な事をしたのか? 」
野比沢は落ち着いた口調で語りかけてくる。以前と同じ人間とは思えないほどに野比沢の佇まいは知的で理性的だった。
「いいから……、早くあの犬に宿っていた蟲を返して! 」
わたしは憮然とした態度で言った。
野比沢が知りたいのはあの満月の夜の事だろうけれど、あんな事を誰かに話すつもりは毛頭なかった。
それに野比沢と話すうちに全身の痛みが増してきていた。わたしは額に滲む汗を拭って野比沢を睨みつける。
この男は油断ならない。得体が知れない……。
野比沢は黒いジャケットの内ポケットからハンカチを出すと、神経質な手つきで時間をかけてメガネを磨いた。ハンカチには崩した平仮名みたいな赤い刺繍がしてあった。
野比沢はため息をついてから、つまらなそうに言った。
「あの犬に蟲を与えたのは僕だ。苦労して倒したところで悪いんだが、発現した『死霊島』は頂いていく。しかし……、犬を殺したのは確かにお前だ。それにお前はもう我慢ができないのだろう? 」
そう言って野比沢は、彼の腰の辺りを浮遊している『漆黒の不可解物質』と呼ばれた不思議な物体に手を入れると、何かをつまみ出した。
わたしはそれを見た瞬間、反射的に目を潤ませてしまう。鼓動が一気に跳ね上がる。野比沢の指先には探し求めた『常世の蟲』がいた。
その蟲は眩い光に包まれてモゾモゾと蠢いている。頭部の中心に人間の眼球の様なものが1つ付いていた。その眼はキョロキョロと辺りをうかがうように動いていた。蟲から発せられる甘い香りがわたしの鼻を刺激する。わたしの理性を溶かしていく。
「そら、口を開けて」と野比沢は表情を変えずに言った。
「んっ!? 」
わたしは呻いて後ずさる。
確かに野比沢が言う通り蟲が欲しくて仕方がなかった。
でも、それはできない。今、ここで……、この男の前で蟲を食べる訳にはいかない。
蟲を口に入れたなら、わたしは間違いなく快感に飲み込まれ、あられもない姿で狂ってしまう。そんな姿を誰かに……。いや、この怪しげな男にだけは、絶対に見せる訳にはいかない。女としてのわたしのプライドがそれを許さない。
でも……。それでも……、わたしの口は物欲しそうに自然と開いてしまう。心臓がドクンと脈打つ。野比沢の手にある金色の蟲から目が離せない。わたしは頬を真っ赤に染めて物欲しそうにうるんだ瞳で蟲を見つめる……。
(「あぁ……、早く……、アレをわたしの中に入れたい! 」)
強い衝動にわたしの心と体は支配されていく。
そんなわたしの様子を野比沢は冷たい眼差しで観察していた。
「いらないのか? 」
野比沢は目を細めて言った。
嫌な奴……、わかっているくせに……。
わたしは自分がどうしたらよいのかわからなくなる……。
「お、……お願い」
いつのまにか、かすれる声で懇願していた。声が震えている。身体の芯から湧き出る熱が全身に広がっていく。先程まであんなにわたしを責め立てていた傷の痛みは嘘のように消えた。ビーグル犬の壮絶な死のショックさえ、上手く思い出せない。
涙が溢れてくる。唇が震えている。もう……、蟲の事しか考えられない……。
わたしがもうこれ以上我慢できないと思った時、ふいに野比沢は興味を失った様にため息をついた。
そして指先で摘んだ蟲を地面に置いた。さらに彼は『漆黒の不可解物質』からもう1匹の蟲を取り出した。2匹の蟲はわたしの前でモゾモゾと半身を起き上がらせている。
わたしはゴクリと唾を飲む。
「ここら辺一帯は人が寄りつかないようにしてある。この間の公園と同じように。しかしこれだけの規模の破壊が起こると、いつまで効果が持つか僕にもわからない。このままでは騒ぎになるかも知れない。お前は早く安全なところまで避難した方がいい。蟲を食べるのはそれからにする事。そして蟲はひと月に2匹までにしなさい。それが人間でいられる限界だから。また1度蟲を食べたら、次は最低1ヶ月は間を空けること。そうすれば、もう少し自我を保っていられるはずだ。それから……。もし……、蟲に関して何か助けが必要な時はここに連絡をするといい」
そう言って彼は連絡先を渡してきた。何故だか彼の指先は震えていた。
「あなたは……、一体なんなの? 」
わたしは僅かに残る理性をかき集めて尋ねたけれど、彼は質問に答えず足早に立ち去ってしまった。
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