2-1 快楽の虫
2匹目の虫は、穏やかで優しい官能をわたしの深いところへ染み込ませていく。
虫は口の中で泡のように広がって、飲み込む前からぬるま湯が体の中にじんわりと広がっていくみたいな快感を感じた。
ふわぁぁ……、気持ち……、いい……。
ゴクンと虫を飲み下す。
はぁぁぁ……、たまらない。
体の芯から溢れてくる暖かい快感がお腹の下の方をじんわりと刺激していた。微熱があるみたいに体がポカポカする。
あぁぁ……、きもちぃ……。
性的な快感によく似たその刺激は、さざ波のように寄せては返す……。
そして、いつのまにかそれは消えてしまった。
すっかり刺激の波が収まってしまうと、今度は別の感覚がわたしを支配した。それは自分の中心がズレてしまったような不思議な違和感だった。
魂と肉体が分離して、それぞれが波に揺られているような……。自分の体から感覚だけがはみ出しているみたいな不思議な感じ……。
わたしはしばらくの間、注意深く様子を伺う。ユラユラと体の芯が波打っている。
やがて、わたしの中のズレは地震が収まるみたいに静かに消えていく。
そして……。
頭の中で「カチッ! 」と何がハマる音がした。ハッキリとその音を聞いた。
その音でわたしの体とわたしの魂は再び1つになった。コンセントを差すように何かに繋がる感覚が確かにあった。あるべきところに大切なものが収まったような、差し込まれたコードから全身に力がみなぎるような……、すごくスッキリした気分。不思議な覚醒感。
まるで体の表面から古い皮膚がバリバリと剥がれてスベスベした赤ちゃんの肌へ生まれ変わったみたいに、全身がサッパリとした清涼感に包まれている。吸い込む空気がやけに美味しく感じる。辺りの草木から匂う緑の香りが鼻をくすぐる。匂いがくっきりとしていて鮮明だ。
心の中は、さっきまで嵐みたいに渦巻いていた悲しい気持ちが嘘のように吹き飛んで、晴れ晴れとした前向きになっている。
何も解決してないのに……、なんでこんなに気分がいいんだろう……。
あの虫を食べる事で、わたしを取り囲む世界が生まれ変わったみたいだ。
足取りも軽くわたしは歩き出す。今ならどんな事だってできそうな気分だった。
わたしはおもむろにポケットから携帯を取り出す。立ち止まって再びお姉ちゃんと彼のセックスムービーを観た。
さっきよりずっと単純で激しい怒りが沸き上がった。怒りと憎しみの炎が一気に燃え上がる。
あの人達を許さない! 絶対に許さない! 地獄に堕ちればいいんだ!
わたしは怒りに任せて、躊躇なくその動画ファイルをネットにアップした。
画面に映るデータ転送の進捗を見守る。
そしてアップロード完了の表示を見た時、唐突にわたしの怒りは収まった。まるで憑き物が落ちたみたいに怒りが消えた。
心が穏やかになる。
お姉ちゃんと彼氏だった人のことなんて、もうどうでもいい。好きにすればいい。
スッキリしたわたしは、それからトイレを探した。
汗と涙、鼻水でグチャグチャになった顔を洗い、乱れた髪を整えたかった。公園のトイレは汚そうで嫌だったので、近くにある大きめのコンビニを見つけてトイレに入った。
「あれ……? 」
鏡に向かい手ぐしで髪を整えていた時、自分の変化に気がついた。
あれだけ汗をかいて涙を流したのに肌がサラッとしていて綺麗だった。
肌だけでじゃない。顔が……、自分の顔がなんだか少し違う気がする。
目鼻立ち、眉やまつ毛、頬の膨らみ、全てがいつもの自分よりもずっと魅力的になっている……?
何度も鏡を見て、携帯のカメラでいろいろな角度から自分を写してみる。
やっぱりそうだ。
わたし……、かわいくなってる!
断っておくけれど、わたしはもともと、それなりに恵まれた顔立ちをしている。けれど、あのお姉ちゃんに比べれば、わたしのかわいさなんて猫にくっついたノミのように付属的でささやかなものだった。
でも今、鏡に映る自分の姿はささやかじゃなかった。全然ささやかじゃない! 自分でもびっくりするくらい魅力的だ。
これならあのお姉ちゃんにだって負けていないかも……?
今朝発見した頬のニキビはすっかり消えていた。スネにあった古傷(ヤクザ管理人から逃げる時に転んだ傷……)さえ綺麗に無くなっていた。
にわかに嬉しくなったわたしは、自分の身体を仔細に確認してみる。
あれ? なんだか……、心なしか……、胸が苦しいかも……?
試しにブラのパットを抜いてみるとしっくりとしたフィット感に変わった。
「おっぱい……、大きくなってる! 」
思わず声に出して呟いてしまう。
生理だから?
……いや、……そういえば腰のドロっとした重みが消えている。眠気やダルさも感じない。ショーツを下ろすとナプキンには殆ど血が付いていなかった。生理は今日始まったばかりなのに。
「さっきの不思議な虫……、アレのせいだ」
それしか考えられなかった、わたしはなんだか妙に納得して頷いた。やっぱりあの虫は普通じゃない。
そもそも芋虫を食べたくなるなんてあり得ない。それにあの虫の味。体調が突然良くなったし、生理が終わって、見た目だって……。何よりあんなにグチャグチャだったわたしの心が嘘みたいに穏やかだ。
まるであの虫がわたしの欠点や良くない感情を全部食べちゃったみたい……。
わたしは上機嫌で佇まいを整えるとトイレから出た。かなりの異常事態なのに不安は全く無かった。
不意にどこか遠くから「リィィィン」という鈴の音のような音が耳に響いてきた。
そう言えば、さっきもこの音を聞いた気がする。
何の音だろうと考えながらコンビニを出ると突然、声を掛けられた。
「ねぇ、あなた、さっきムシを食べたでしょう? 」
びっくりして振り向くとそこには背の高い女の人が立っていた。
「急にごめんね。でも声を掛けずにはいられなかったの」と笑って言った。
お姉ちゃんほどではないけれど、なかなか魅力的な笑顔だった。
その人は166cmのわたしよりも更に背が高かった。おそらく170cm以上はあるだろう。髪は明るめのブラウンショートで、すっきりした髪型が顔の小ささを強調している。クッキリとした眉に大きくまんまるな瞳が猫のような印象。服はふんわりとしたヒラヒラの白いトップスに紺のショートパンツ。そこから真っ直ぐに伸びた足はとても綺麗だった。胸はわたしより少なめでほとんど膨らみが無い。
そこまで観察して、ようやくわたしは思い当った。さっき公園に入った時に見かけたモデル風の人だ。
びっくりして固まっているわたしに彼女は言った。
「私の名前は範田真央。歳は24です」
彼女からはキャラメルを溶かしたような甘い匂いがした。なんだかその匂いをずっと嗅いでいたい気分だった。
そんなわたしの視線に気付いた彼女は、クスッと笑ってわたしを見つめ返す。
「あっ、わたしは田宮くしです」
自分のよくわからない感情を打ち消す様に、わたしは慌てて答えた。
「ふーん、くしちゃんか。顔も名前もかわいいね! 歳は? 」
「15歳です」
「若いね、制服だから私よりは下だとは思ったけど」と言った彼女の笑顔が、屈託無く可愛らしかったので、わたしは少し気を許してもいいいかという気になった。
わたしと真央さんは、先程までいた中央公園のベンチに戻ると並んで座った。
「さっきの虫の話ですけど……、見ていたんですか? 」
「うん、遠くから気配を感じた程度だけれど、何が起こったのかは大体わかるのよ。だって私も『常世の蟲』を宿した人間だから」
「えっ!? とこよの……、虫? 」
「うん、そう。くしちゃんがさっき食べた金色の芋虫は『常世の蟲』っていう神さまの一種。人の強い欲求とか、激しい感情に反応してこの世に現れるんだって。その蟲を食べた人間は若返ったり、不思議な力が使えるようになったりするの。例えばこんな風に……」
そう言った真央は立ち上がると、両手を広げて声を発した。
『影牢(シャドープリズン)』
それは不思議な単語だった。耳に音をキャッチするのと同時に、頭の中では「影牢」という表記がパッと浮かんで消える。
そして真央の言葉と共に、彼女の掌から半透明の鈍く黄金に明滅する鎖が現れた。
鎖は音もなくスルスルと掌から紡ぎ出され、真央の足元でヘビみたいにとぐろを巻いていく。鎖の端には楔が付いており、尖ったひし形をしていた。そして楔はヘビが鎌首をもたげる様にユラユラと揺れている。
わたしは目を丸くして突然現れた鎖を見つめた。
「この鎖は『影牢』って言うの。これが私の武器。『常世の蟲』は宿主を守る為に取り込まれた人間に合った武器を与えるわ。それは宿主がその名を呼ぶと現れて、自由自在に扱う事ができる……」
そう言った真央の瞳が妖しく揺らめいた。
「リィィィン! リィィィン! 」
突然、わたしの頭の中で大きな鈴の音が響く。音は不思議な事に頭の中心から直接聞こえてくる。それはさっきコンビニのトイレで聞いた時よりもずっと大きな音だった。
心臓が「ドクン! 」と大きく鼓動した。
どうやら真央の耳にも鈴の音が聞こえたみたいだった。一瞬、真央は硬い表情になり動きを止めたけれど、気を取り直したようにニッコリと微笑んで言った。
「ごめんね、くしちゃん」
真央はすまなそうに微笑んだ。
その言い方がお姉ちゃんにそっくりだったので、わたしはビックリして息を呑む。
「ザザザッ! 」
突然、真央の足元で渦を巻いていた金色の鎖がわたしに向かって鋭く突進してきた。
驚いたわたしはとっさに両手で頭を覆ってうずくまる。
「キャッ!」
「ガキンッ!」
わたしの悲鳴と同時に硬質な金属がぶつかり合う音が響いた。
恐る恐る目を開けると真央の鎖についた2つの楔がわたしの目の前、本当にスレスレのところで空中に静止していた。
鎖の先端が留まっている空間は、なんだかモヤモヤとして空気が歪んでいる……。
その歪みはみるみる広がって中心から黒い光の筋が溢れ出す。やがて黒い光は渦を巻き、その中心にゆっくりと何かが浮かび上がってきた。
それは……、黒く発光する銃だった。
黒い銃は長方形の銃身にガッチリとした太くて丸いグリップがついており、かなり大きい。わたしが映画やドラマで見たことがあるモノとはだいぶ雰囲気が違っていた。
その銃からはなんだか神々しい力のようなものを感じた。黒光りする銃の側面部分には『跳飛閃光』という文字が刻んである。
「それがくしちゃんの武器かぁ。そういうのは初めてみるな」と呑気なトーンで真央が言った。
その態度を見て……、わたしはやっと事態を飲み込んだ。
この人は初めからわたしを襲うつもりで近づいてきたんだ!
わたしは混乱して真央さんを睨む。
「何なの!? なんで……、こんなことするの!? 」
「ごめんね、くしちゃん。私、あなたの中の蟲がほしいのよ。あなたも一度食べたから分かるでしょう。あの味は癖になっちゃうの。あれを味わうためなら私、なんでもするわ。だから悪いとは思うのだけれど、大人しく死んでくれないかな」
真央は艶かしい表情でわたしを見ている。
その顔に背筋がゾッとした。
わたしは迷わずに振り向くと一目散に駆け出した。
「ザザザザッ! 」
しかし真央の鎖は地面を這いわたしの足を絡め取る。わたしは体勢を崩して派手に転んでしまう。そのままズルズルと鎖に引きずられ真央の足元に連れ戻された。
「悪あがきはやめなよぉ。痛くないように一瞬でヤッてあげるからさ」
真央は少し興奮した面持ちで言った。
わたしは「やめて! 」と叫ぶが、真央は微笑んだまま鎖が紡がれている掌をわたしに向けた。金の鎖が鎌首をもたげて再びわたしに襲いかかる。
「リィィィン! リィィィン!」
その時、わたしの頭の中でまた、あの鈴の音が聞こえた。
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