1-2 嫉妬の虫

家を飛び出したわたしは泣きながら走った。馬鹿みたいに全力疾走した。滲んだ視界に映る景色がビュンビュン通り過ぎていく。

雨でも振っていればよかったのに、辺りは清々しく晴れ渡っていた。

頭の中では裸で抱き合う姉と彼氏の姿がスロー再生されていた。わたしは地面を思いっきり蹴って走るスピードを上げた。体が重い。走るのは苦手だった。

そしていくら走っても、頭の中に流れる嫌な映像は消えなかった。わたしは何かから逃げるみたいに山手通りを全力疾走した。

こんなに走ったのは久しぶり……。そういえば生理だった。漏れたらどうしよう?

不安になって足を止める。心臓がバクバクして息が切れた。おでこから一気に汗が噴き出す。

ふと我に返って周りを見ると、わたしは新宿中央公園の前にいた。初台の自宅から大分走ったみたいだ。

息が苦しい。足が鉛みたいに重い。もう走れない……。

わたしは所在なく公園に入って行く。

午後3時の中央公園には色々な人がいた。大きな滑り台には子供達が群がり、その周辺には母親と思われるおばさんやおばあちゃんが小さなグループを作って何やら立ち話をしていた。クネクネと曲がる林道のベンチには仕事をサボっているスーツ姿のサラリーマン。小山のてっぺんにある白いテラスでは何かの撮影なのか、ショートカットの綺麗な女の人がカメラマンやレフ板を持ったスタッフに囲まれていた。

わたしは目についたベンチに腰を下ろした。隣のベンチにはおじさんとお兄さんの丁度中間ぐらいの男がうつむいて座っていた。服装はジャケットにコットンパンツ。ベンチの横にはギターケースのようなナイロンのバックが立て掛けられている。

全力で走ってきたのでわたしの首筋やおでこは汗でベチョベチョだった。涙と鼻水があふれた顔はきっと酷いことになっているだろう。せめて汗拭きシートでもあればよかったのだけれど、制服のポケットには携帯電話しか入っていなかった。

ベンチに座って一息ついた途端、先程の情景が悪質なサイトのポップアップ広告のように次々と蘇ってきた。お姉ちゃんの綺麗な体と彼氏の恍惚の顔。だらし無い表情。荒い息遣い。2人の濃密に絡み合う視線。おちんちんの先から糸を引いていた乳白色の液体……。

何もかもが最悪だった。

あんなにも熱心にわたしを口説いてきたあの彼が、こうもあっさりとわたしを裏切って姉に夢中になってしまうなんて……。あの男はわたしの初めての彼氏なのに……。わたしの事、好きだって言っていたのに……。

彼はバイト先の先輩でわたしより2つ年上だった。アイドルタレントのような整った顔立ちで、柔らかい雰囲気の彼はバイト先でもモテる存在だった。何人かの女の子が彼を狙っているのも知っていた。そんな彼がわたしに興味を示した事が嬉しくて、自然に彼を受け入れてしまったけど……。

うかつだった。お姉ちゃんと彼氏が顔を合わさないように注意していたはずなのに……。彼はわたしが今日、バイトの出勤日だと言うことを知っていたはずだ。そして彼をわたしの自宅に招いた事は1度も無い。……にも関わらず、今日、彼はわたしの自宅にいた。お姉ちゃんを抱いていた。

まさか!? 以前からお姉ちゃんと関係がっ……!

いや、そもそも浮気じゃ無いのかも知れない……。

もしかしたら、お姉ちゃんに近づくためにわたしを利用した……?

わたしは彼にとって姉を手に入れるための道具……?

そんなの酷すぎる!!!

けれど……、お姉ちゃんのこれまでを考えれば、それは充分にあり得ることだった。

わたしは悔しくて、惨めで唇を噛んだ。

心の中で悲しみや混乱を打ち消すみたいに、怒りと妬みがどんどん広がっていく。嫉妬がわたしの心を赤黒く染める。思い出したみたいに下腹部が痛み出す。生理痛が怒りに拍車をかける。

わたしは居ても立っても居られなくなり携帯電話を取り出した。そして先程の2人の痴態を収めた動画を観る。

こんなもの見たく無い。気持ち悪い。

でも……、見たくないはずなのに、それを見ずにはいられなかった。

もしかしたら……、何かの間違いかも知れない。

この様子で?

……あり得ない。バカじゃないの!

でも……、もしかしたら彼はお姉ちゃんに無理やり誘われたのかも知れない……。

あのお姉ちゃんが自分から男の子を誘う?

……あり得ない。

わたしは有り得ないとわかっていながら、そんな儚い希望を検討しては否定する。

しかし動画の中の彼は明らかにお姉ちゃんに夢中だった。彼の真剣で余裕の無い眼差し。お姉ちゃんの華奢な腰に添えられた手。打ち付けるような激しい腰の動き。そしてわたしにはしたことの無い後ろからの挿入……。わたしには見せた事の無い惚けた表情……。わたしとする時は優しい言葉はかけてくれるけれど、彼のあんな顔をわたしは今まで1度も見たことがなかった。

彼の全てがお姉ちゃんを激しく求めていた。

そして……、お姉ちゃんも彼に抱かれて幸せそうに見えた。お姉ちゃんの桜色に染まった頬。真っ赤になった耳。彼は四つん這いのお姉ちゃんを背後から抱き寄せる。その腕を無理な体制でキツく握りかえしている細くて白いお姉ちゃんの腕……。

到底、レイプされているようには見えない。彼のおちんちんに喜んでいる……。彼を全身で受け入れている……。お姉ちゃんは彼の事が好きなのかも知れない……。

何っ、それ!?

もう嫌だ! 本当に嫌だ!! 全てが壊れてしまえばいい!!!

わたしは吐きそうになり動画を止めた。

その時、ハタと思いついた。

この忌まわしい動画をネットの投稿サイトに上げたら?

もしこんな動画がネットに流れれば、2人の人生は台無しになる。少なくともお姉ちゃんはこの先ずっと消えない傷を負うことになる。こういった動画ばかり好んで観ているロクでも無い男達に自分の裸を見られ、恥ずかしい姿を晒してしまう。動画はあっという間にネットの海へ拡散して、二度と消すことはできなくなるはず。まともに外を歩く事さえできないほどの好奇の目と嫌がらせ。そしていわれのない差別。欲望剥き出しの男達の視線。蔑む女達の視線……。

黒い想像がどんどん膨らんでいく。それはとても甘い味がした。

携帯を持つ手が小刻みに震えた。

……。

……。

……。……。

長い時間悩んだ末に、わたしは携帯の電源を切った。

土壇場でわたしは思い留まった。

別にお姉ちゃんや彼氏の事を許した訳じゃ無い。ただ罪を背負う勇気がなかっただけだ。2人を地獄に落とすだけの勇気が、わたしには無い……。

また涙が溢れてくる。わたしを包む無力感と絶望……。

ああ……、もう嫌だ。

「死にたい……」

そう言葉にして呟いた時、フワッと金色の光がさして、視界の隅に何かの動きを捉えた。

それはわたしの座るベンチの上をゆっくりと這いずっていた。

「虫……? 」

わたしの座るベンチの隅に虫がいた。その虫は芋虫のような形をしていた。不思議な事に体からは黄金色の光を発していた。

芋虫なんて見るのも嫌な筈なのに、何故だか、わたしはその虫から目が離せない。

虫は全部で2匹いた。金色の光を発する虫は、まるでわたしを誘うように一斉に上体を起こした。

「リィィン」と小さな耳鳴りがした。

わたしは恐る恐る1匹をつまんでみる。

重さはほとんど感じない。それは綿あめの様に軽かった。体毛はなく表面はシャンプー容器のように硬くツルっとしていた。体の色は薄いクリーム色。それが明滅して金の光を放っている。頭の中心部分には目をつぶっている女性のような顔があった。

この世のものとは思えない……。

けれど不思議と恐怖は感じなかった。むしろその姿はとても幻想的でかわいらしい。

わたしは我慢できなくなって、衝動的にその虫を手に取り……、口に入れた!

その虫を「体の中に入れたい」という突然湧き上がった欲求を、どうしても抑える事ができなかったのだ。

虫は口の中で溶けるように広がっていった。同時に頭の中では何かが弾けるような「バチ! バチ! 」と言う音がした。手先が痺れる。なんだかわからない感情が突然膨れ上がり涙が出た。下腹部にズンっという重みのような感覚が広がっていく。心臓が「ドクン! ドクン! 」と大きく鼓動して体が小刻みに震えている。

それはわたしが経験した事のある貧しい性交渉よりずっとずっと官能的な感覚だった。この感覚をずっと味わっていたいと思った。

けれど、その快感は波が引くように徐々に弱まり消えてしまった。

「もっと……」

そう呟くと、まるで待っていたみたいにもう1匹の虫がゆっくりと半身を上げた。

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