市役所ではお静かに
魔術は複雑な演算が必要だと思われがちだが、実際は違う。
そうじゃなきゃ俺に扱えるはずがない。
魔力を流す回路の筋道さえ立ててやれば簡単だ。
脚に魔力を込めて加速する。
逃げ惑う老人の胸ポケットにペーパーナイフがあるのが見えた。
「失礼、借ります」
老人の答えを待たずにナイフを抜き取り、先端で指先を少し切る。刃先に俺の血を染み込ませるためだ。
投擲に必要なのは、軸足の踏ん張りと利き手の発条。俺はそのために左の踵から右肘にかけて魔力を誘導する刺青を入れてある。
重心を左脚から移動させ、右手を振りかぶってペーパーナイフを投げる。硬度を強化した刃がダンジョン時代の遺物、天井の豪奢な照明を貫いた。
血液が付着した刃の先端から魔力を流し、落下する照明にかかる重力加速度を増長させる。
豪華な装飾の腕木とガラスが真下に蠢くグールの群れを押し潰した。
中の蝋燭が飛び散り、炎がグールたちを包む。充分な灯りになった。視力の強化はもう必要ない。
俺は周囲を見回す。
首を真っ赤に染めた衛兵を、もうひとりの兵士が止血していた。
ロビーは悲鳴を上げて逃げ回っているのが七割、早くも戦闘態勢に移り、魔物の群れと切り結んでいるのが三割。さすが元冒険者たちだ。
だが、元凶のローブの男をどうにかしない限り出入り口は封鎖されたままだ。
奴を探そうと踏み出したとき、背後からくぐもった呻きが聞こえた。
「そのひと、危ない!」
遠くで女が叫ぶ。視界の右端が暗く翳った。
俺は両膝に魔力を込めて左側に跳躍した。
飛びかかろうとしていたグールが宙を噛み、体勢を崩す。
俺は魔力を纏ったままの足を振り下ろし、グールの頭蓋を砕いた。ガラスのボウルに入れたプディングを器ごと踏み潰したような不快な感触が足の裏に響いた。
「あんた、すげえな!
近くにいた老人が目を剥いた。俺がペーパーナイフを奪ったことは気にしていないらしい。人間ができている。
「
「嘘だろ!」
「本当だよ」
へし折れた木の囲いが飛んできて床に突き刺さった。対岸から迫るグールの群れも近い。
俺は木片の下部だけを強化して脆い盾にする。痛みも恐れも感じないグールたちは容易くそれを粉砕した。
構わない。
本命は木の盾で隠した床に散らばるガラスの方だ。
魔力で硬度を増した破片が死者の脚を切り裂いた。
一時的だが鋼の剣にも劣らない鋭さだ。
機動力を失った亡者たちは自分の血の海で滑り続ける木偶と化した。
「強化魔術ってのは使い方次第でこんなに強いんだな」
頷く老人は片手に握った斧を血に染めていた。彼も冒険者なのだろう。
「まあな」
確かに
他人の支援に徹するが故に、いくらパーティに貢献しても個人としては評価されにくいからだ。
実際、他の魔術師のランクはSからEまであるが、強化魔術師のランクはAまでしかない。
功績を上げたい奴らは嫌がるが、俺は地位や名誉より、ごくわずかな身内を守れる方が大事だ。
何より、出世して所得が増えれば、免税対策や所得税の申請が面倒になり、役所と関わる機会も増える。
冗談じゃない。
消費税以外の税率がよくわからない俺には絶対に無理だ。
悲鳴と怒声が騒がしい。
俺が最初に並んでいた窓口の方にグールが密集していた。
加勢しようかと思った矢先、銀の軌道が閃いて亡者の群れが弾け飛んだ。
「皆さん、落ち着いてください! 役所ではお静かに!」
視線をやると、俺の対応をした受付嬢カウンターの上に飛び乗って剣を構えていた。
「皆さんご安心を! ユズナにお任せください、私は魔術学校の勇者科卒業生です!」
髪と同じ白銀の刃を魔物に向け、事務員たちを背に庇いながら、彼女は状況がわかっていないのかと心配になるほど喜びに満ちた顔をしていた。
「俺の後輩かよ……」
しかも、勇者科は魔術学校の中でもエリートしか入れない特別な学科だ。ダリオもそこにいた。
俺はそもそも入試の日程がわからなかった。
ユズナは意気揚々とカウンターの下のパイプ椅子を持ち上げた。
白い腕の中で椅子が歪に軋み、木と鉄に分離する。
空中で歪んだ鉄が長槍に変わり、楕円を描いた木板が円盾となった。
強化魔術師を初めて見るなんてよく言えた。
あの女は俺より遥かに珍しい、触れた物全てを武器に変える、
「市民の安全を守るのは公務員の義務ですから!」
ユズナが長槍を振るい、斬撃が鈍色の弧を描く。
勇者科卒業の鍛冶師など冒険者パーティで引く手数多だろうに、何故役所の受付嬢をしているのだろう。
理由はすぐにわかった。
単純に、死ぬほど弱いからだ。
せっかく生成した武器の使い方がまるでわかっていない。
彼女の体格で、しかも不安定な足場で、長槍を扱うのは無理がある。
適当なところに投げて敵の注意を引いた後、机から降りて剣で戦った方がいい。
案の定グールに槍を掴まれてふらついている。
長物の利点がまるでない。これじゃ綱引きだ。
相手が重心をかけたときに槍を手放して、隙を突いて斬りつけるべきなのにそうしない。
強化魔術師として、どう戦えば戦力を効率よく増加させられるか考える癖がついているから、この戦い方には少し苛ついた。
俺は一瞬、手を貸しに行こうかと思い、躊躇った。
あまり敵を倒しすぎると、パーティを追放されたことに説得力がなくなる。細かい審査をされれば、免許の更新を忘れていたことが判明するかもしれない。
俺が躊躇している間に奥のカウンターから細い悲鳴が聞こえた。
ユズナを怒鳴りつけていた上司に、グールの腕が絡みついている。
書類のファイルで必死で防御しているが噛みつかれるのは時間の問題だ。
こっちを先になんとかした方がいい。
俺が方向を変えたとき、グールと男の間に小さな影が躍り出た。
あれほど固執していた槍を手放し、ユズナは机から飛び降りて剣先で魔物の群れを薙ぎ払った。
「何で、お前が……」
中年の男が目を見開く。反撃を喰らったのか、ユズナの鼻から一筋の血が流れていた。
彼女は鼻血を拭い、選手宣誓のように盾と剣を掲げた。
「ご心配なく! 貴方は嫌な上司で、私より二十も偏差値の低い学園の出身なのに毎日私を怒鳴りつけているとしても、勇者は助ける人間を選びません!」
俺は言葉を失った。
公務員は頭のいい奴しかなれないと思っていたが、こいつは馬鹿だ。
勇者課の生徒は多かれ少なかれそういうところがある。
グールは死角からの攻撃に一瞬怯んだが、既にユズナに狙いを定めている。
ユズナは魔物に囲まれて負傷しているというのに、清々しい顔で武器を構え直した。
本当に馬鹿だ。
子どもの頃のダリオにもそういうところがあった。
勇者とはそういうものだ。
それなら、俺は放っておけない。
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