ずっとこうしていたかった、あの夏のキスのように。
今日も雨が降っている。六月に入ってからずっと雨空が続いている。初めの頃は気温が低く、湿気がひどくても不快感がなかったからか、さほど気にはしていなかった。けれど、中旬も過ぎると、さすがに、夏の影が迫ってくる。
体に張り付いて、いくら制汗剤を浴びるほどスプレーしても、ベタつきの取れないシャツとパンツ。寝癖なのかと、面白すぎてガラス越しに苦笑しかできない天パの髪。今年の梅雨は何もなくても苛立ってしまう。
いってきまーすと家を出でて傘を差した。数歩歩くと違和感に気づく。手の平を上に向け、傘から出す。引っ込めて見てみると何もついていない。傘を下ろして空を見上げると、雲間から陽が差していた。半月以上ぶりの太陽に、力一杯背伸びをすると、全身の穴という穴が掃除機のように、勢いよく深呼吸をしている感覚がした。
花陽公園の前で足を止める。雨の雫で濡れた紫陽花が、光を反射してガラス細工のようだった。触れてみると見た目とのギャップで、思わず笑顔になっていた。柔らかな花びらはガラスではなく、本物の花なんだなと生命のおもしろさを感じられた。
もしかしたら、去年の今頃も同じようなことを思っていたかもしれないと、記憶の中を思い返した。
————。
子ども、トラック、光、女子高生、頭の中で映像が見えた気がした。
人の足音だろうか、すぐ近くで何回も行き交っている。意識がぼやけているのか、半分眠っているようだった。
「こんにちは」と誰かの声が聞こえた。「毎日ありがとね」と母親の声だろう、少し会話を交えて、どこかへと行ってしまった。
「絽薫くん」
聞き覚えのある声だった。誰だったのかと頭の中を探しまくった。考えているうちに、白い光が瞼を覆い、思考がそこで止まってしまった。
どれだけ時間が経ったのか、経ってないのかもわからない。そういえば、自分は花陽公園で紫陽花を見ていたはず、それなのに、これは何なんだろうと思った。夢の中にいるのか、それとも自分は空気になってしまったのか、光と闇の中を彷徨っているようだった。
「もう一年だよ。頭にも身体にも何も問題はないって言われたよ。あとは、絽薫の意思次第だって。早く目を覚まして……」
母親の泣きながら話す声だった。何のことを言っているのか、まったくわからなかった。
「お母さん、どう?」
磨都の声、声変わりを始めてますます声は男らしくなっていくな。
「お兄ちゃん、聞こえるか? ちゃんと聞いてるか?」
聞いているに決まっている、ここにいるんだから。少し震えたような声で寂しげな感じがする。いったい何だというのか。何をそんなに悲しげなのかわけがわからない。ちゃんと話してほしい。
俺は——。
目を開けると、目の前には紫陽花があった。ゆっくりと三六〇度回ってみると、いつもの通り慣れている花陽公園の前だった。
————。
あっ、家を出て学校へ行くところだった。いったい、自分は何をしていたんだろうと頭を傾げた。スマホに目をやると八時半を過ぎていた。
ヤバい、急がなきゃ!
なぜか、遅刻しそうな時間に思えた。思えたというか、遅刻する時間だった。急いで走り出そうとした、その時、後ろから声がした。
「絽薫くん」
振り向くとそこには、真白な光に包まれた天使がいた。光は翼から放たれているようで、翼を閉じると光も見えなくなった。
不思議だったけれど、驚くことはなかった。当たり前のようで、いつもすぐそばにいたような感覚すらあった。
一歩ずつ、こちらへと近づいてくる。逃げようという考えは、頭には浮かんでこない。
「絽薫くん」
「百彩ちゃん。早く行かないと遅刻だよ」
「うん、行こう」
手を繋ぎ歩き出した。
————。
しばしの沈黙が流れた。
気まずいわけではない。ただ、何から話したらいいのかわからなかった。
「絽薫くん、あのね……」
百彩ちゃんが話し出すと、自分から話しが溢れ出した。
「ここはどこ? 俺はいったいどこにいるの?」
「ここはね……」
「俺は死んでるの? 生き返れないの?」
やっと、自分は疑問だらけなことに気づいた。今までのことや、さっき起きたこと、夢なのか、現実なのかそれさえもわからない。
「死んでないよ」
「じゃあ、俺は何なの? 空気? 幽霊?」
百彩ちゃんの話しを遮るつもりはないけれど、どうしても言葉が先に出てしまう。
「笹井絽薫、あなた自身だよ」
「……俺は、あの日事故に遭って——死んだんだ」
「そう一度はね……死にかけたが正解かな」
「じゃあ、やっぱりここは天国への道なの? それとも……」
自分のことなのに、客観的に見ているようだった。
「違うよ。ここはあなたとわたしの思い出の中」
「思い出? どーして?」
意味がわからない。今見えるもの見えないものに対しても、すべてがわからない。何が本当で嘘なのか、考えることさえできないくらいだった。
「ねぇ、歩こ」
歩き始めた。でも、何かが変だった。車の音も、人の声も、風の音すら聞こえない。まるで、時間が流れていないかのように、静まりかえっていた。
「私はね、本当にここから消えてよかったの。寂しい気持ちもあったし、離れたくないって気持ちもあった。でも、私がいるべきじゃないの」
淡々と話し始めた。
「あなたと出会っていなければ、何もなく天使に戻っていたはず。でもね、私はあなたに助けられた」
「助けた? 俺が百彩ちゃんを?」
「そう、この姿なら……わかる?」
そういうと風に吹かれて百彩ちゃんが消えてしまった。周りをキョロキョロと見渡すと、足元にグレーで青い目をした、猫がいた。
「モア、モアなのか?」
身体が勝手にモアを抱き上げていた。顔を擦り付けて、涙がこぼれ落ちる。
「モア、モア、ごめんね。俺のせいで、俺のせいで……」
「あなたのせいじゃないよ。私を助けてくれたでしょ?」
頭の中に声が聞こえてくる。
「助けてなんかないよ。俺はモアを死なせてしまった。あの日、雨の中、助けられなかった」
子どもの頃を思い出して、涙が止まらなかった。
「ちがうよ。わたしはね、あなたのおかげで幸せだった。ゴミ置き場にいたわたしは、何日もまともにごはんを食べていなくて、死を覚悟していた。そんなときにあなたが現れた。きれいに洗ってくれて、ミルクを作ってくれてごはんも食べさせてくれた。そして、一緒にいてくれた。わたしは、もう死ぬ運命だった。あなたは最後に愛してくれた。とても、うれしかったの」
「そんなこと、もし俺が、ちゃんと夜ミルクをあげてたら、雨に晒さなければ……」
引きつって上手く言葉が出てこない。
「自分を責めないで。もし、あなたのいう通りにしていても、わたしには時間がなかった。部屋に上げていて、そこでわたしが死んでしまっていたら、あなたはもっと自分を責めていた。あなたは何も悪くない」
「…………」
「それをわかってほしい」
「……もあ、大好きだよ」
「わたしも大好きだよ」
抱きしめられた。そこにいたのは百彩ちゃんだった。
「会いたかった。ずっと、ずっと、夏が終わってから、何かおかしくて。でも、それに気づけなくて、頭の中で違和感だけが残ってて、たまに現れる、誰かの存在がどんどんと遠くなって——百彩ちゃんがいないなんて、俺、これ以上、耐えられないよ」
「わたしもだよ」
その言葉に、少し口元が綻びそうになった。
「なら、これからは……」
「これからは、わたしのこと、ちゃんと忘れなきゃ」
「えっ? 何で?」
「ねぇ、さっきお母さんや磨都くんの声が聞こえたでしょ?」
「えっ? うん」
「もし、わたしがいたとしたら、あなたは今も、病室のベッドの上にいる」
「えっ? どーゆーこと?」
「あなたは事故で意識不明、植物状態。ただ、生かされているだけの人」
「俺が……」
「そう、あなたは生きていて、死んでいるのと同じ」
「でも、百彩ちゃんはいるんだろ?」
「そうだね。でもね、わたしは天使なの。これでも愛のキューピットなんだよ」
「愛のキューピット?」
「うん、わたしは勉強のためにここに来たの。そこであなたを見つけた。そして、助けた」
「助けなくていい。百彩ちゃんはここにいたらいい」
「ダメ! もしそうしたら、わたしは百彩として生涯を終えなきゃいけないの。わたしは天使として愛を結びたいの」
顔を背けた。その顔が強張っていたようだった。緊張というよりは、俺にはわかる、嘘をついてることがあるって。
「でも……」
「でもはないの! あなたはちゃんと生きて、ここはあなたの場所じゃない。わたしは……」
初めてみる、強い口調だった。
「嘘つくなよ。天使として愛を結びたいってのもホントだと思う。でも、ホントは俺と俺たちと一緒にいたいんだろ?」
「…………」
「だったら、今まで通り一緒にいればいいよ。演劇部で大会目指して、またプール行って、祭りに行って、高校生したらいいよ。百彩ちゃんがいなかったから、クリスマスできなかったし、今度はしようよ!」
「……ありがと」
振り向いた顔には、優しい笑顔と涙が流れていた。思わず抱き寄せた。
「当然だろ? 大切な人なんだから」
「わたしも、とっても大切な人だよ」
声が震えていた。
————。
深呼吸して息を整えていた。そして、こちらを向いて微笑んだ。
「ごめんね。そこまで勝手なことはできないの」
「だって、一緒にやってたじゃん。開帳場にペンキ塗ったり、遊園地も行ったし、みんなでいろいろしてたじゃん」
「それはね、現実であって現実じゃないの。これ以上は、無理なの」
「どーして?」
「あなたが壊れてしまうから」
「……壊れる」
「いつかは無くなってしまう現実を、続けることはできる」
「じゃあ」
百彩ちゃんは首を横に振った。
「あなたは、わたしがいたら壊れてしまうの」
「百彩ちゃんがいたら……」
「あなたの命はわたしの命でもある。命はひとつしかないのに、そこに二人は存在できない」
「えっ? だって今……」
「聞いて。あなたを見守るためにこの三ヶ月間一緒にいたけど、もうあなたは大丈夫」
「何も大丈夫じゃないよ」
「稀にね、助けたりしたことを忘れていなくて、ふたつの現実に迷い込むことがあるの。そうすると、必然的に助けたことが無になってしまう」
…………。
「天使にとっては無ではなくて、どちらにしても天使の力は残らないの」
「えっ? じゃあ……」
「これ以上わたしがいると、あなたとわたしは迷ってしまうだけじゃない。どちらにもつけずに壊れてなくなってしまう」
「そ、そんな……」
「絽薫くん、わたしね、本当に幸せだった。二度も幸せをくれた」
「……うん」
「絽薫くん、最後にわたしのお願い聞いてくれない?」
「さいご……って、なに?」
「キス……したい」
「キス? キスならいつでも……」
泣きそうだった。
涙が溢れそうだった。
でも、堪えた。
「百彩」
そう呼びかけ、抱きしめた。目を見つめてキスをした。
ずっとこうしていたかった、あの夏キスのように。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
目を開けると紫陽花が鼻にくっついていた。周りを見渡すと、花陽公園の入り口横にいた。何か、ボーッとしていたようで、頭を掻いた。今、何中? あれっ? と考えを巡らせる。ふと、歩道を見てみるとスーツを着た人、制服を着た人、ランドセルを背負った……小学生が歩いている。頭をフル回転させなくてもわかった。通学中だよ! スマホをポケットから瞬時に取り出し、時間を確認すると、八時を過ぎたところだった。まだ家を出てからそんなに時間が経っていない。ホッと胸を撫で下ろした。長い時間、ボーッとしていたような感覚があったから、身体中の毛が逆立つほどに焦ってしまった。
フーッと深呼吸をして空を見上げた。久しぶりの晴天に、心が浮かれる。
今日は朝から気分も清々しいし、いいことありそうな気がしてきた。
さあ! 高校最後年、夏の大会に向けて気合い入れるぞー!
地区大会前のダルい期間がきた。期末テストだ。追試にならないように、最低限の勉強はしないといけない。と言いつつ、特にやることがないのが現実だ。
そんなある日の学校帰り、自転車を家に向い走らせていた。なぜだろう? 自分でもよくわからなかったけれど、家とは違う方向に向かっていた。昼ごはん前だし、暇だしと、気の向くまま先に向かった。
あれっ? 何か間違えたのかもしれない。ここは住宅展示場なのかと思えるような、家が並んでいた。ゆっくりと眺めながら進んでいたら、六〇代くらいのマダムに「あら、どうも」と声をかけられた。誰? とは思ったものの、適当に頭を下げて相槌をした。
その流れのまま隣の家を見た。——違和感というか、少し懐かしいような温かさが込み上げてきた。その場に止まり、ボーッと見ていたら、後ろから綺麗な女性に話しかけられた。
「うちに何かようかしら?」
「えっ? いや、その……すごいカッコいい家だなって」
気まずくて、頭が真っ白になる。
「そうかしらね? あなた……」
顔をマジマジ見られた。
「すいません、帰るんで」
「あらっ、違うの。どこかで会ったことあるかしら」
「……いや、ないです」
ない。あるはずない。こんなところに来たことなんて、まずない。高級住宅街的なやつ? 将来はわからないけれど、今は関係ない。残念でしかない。
でも、あの人何となく知ってるような……。
勉強のし過ぎで頭がおかしくなったんだろうか?
ギュルルルルと腹が鳴った。腹が減っては戦はできぬ。自転車を力一杯漕いで、家までの道のりを急いだ。
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