心の音色、彩る季節
みずみずしい梅雨の晴れ間に
「ただいま」
「おかえり」
「ママ、わたし、すっごく楽しかったよ」
「それはよかったね。また連れてきたら? 何くんだった?」
「えっ? あぁ、絽薫くんだよ」
「優しそうだったし、パパも気にいると思うよ」
「うん、じゃあ今度ね。……ママ、ありがと」
それしか言えなかった。本当はもっともっとたくさんのことを話したいし、聞いてほしい。でも、これ以上は言えない。わたし自身も辛くなってしまうから。
こんなことなら、ここに来なきゃよかった。
…………。
そうじゃない、ここに来なければわからなかった。
忘れたくない。
わたしはものすごく幸せで、満たされていたこと、家族や友達といろんな話をして、笑い合って、充実していたことを。
☆ ☆ ☆
ここがわたしの部屋か、一〇畳ほどある部屋をドアからぐるりと見回していた。
「荷物置いたら手伝いに来て」
吹き抜けの下、リビングから母の声が響いてきた。
「うん、すぐ行くよ」
広々とした空間に、眺められる家族団欒を想像した。ここにダイニングテーブル、あそこにソファーを置いて向かい側がテレビか、なんて事を勝手に考えていた。初めての家での生活に戸惑いはあるけれど、今までの経験を生かして、ひとつひとつ着実にこなしていこうと決めていた。長い間ではない、それはわかってはいる。だからといって無意味なものにはしたくはない。ここでのいい思い出を作りたい、残したい。そう思った。
新築で、自分たちの注文をほとんど取り入れてもらった。真新しい部屋の匂い、嫌な匂いはない。自然にこだわり、木の温もりに触れられるようにと、たくさんの木材が使われている。シースルー階段に、オープンキッチンのカウンター、もちろん床のフローリングにも。アカシアや杉の木、目を閉じると森林浴をしているように感じられそう。
キッチンの壁は淡い数色のレンガと木目で少しアンティーク調に統一されている。そこにシーリングライトがあり、眩しすぎず明るくて使いやすくなっている。母は料理が好きなので、こだわりのキッチンにしたかったと言っていた。念願が叶ってかなり満足しているみたい。
「ママ、これ何?」
奥の壁、ちょうど腰の高さくらいの位置に、三つほどフックのようなでっぱりがあった。
「このカレンダーとか、何か掛けれたらなって、作ってもらったの」
「そーなんだ」
「こんなにいいキッチン作ってもらったのに、普通のカレンダーつけたら台無しでしょ? だからこういうときのために買っておいたの」
「かわいいね。雰囲気も色合いも合ってていいと思うよ」
「でしょ?」
嬉しそうに顔を綻ばせ、カレンダーを眺めていた。
手を目一杯上まで伸ばして背伸びをした。テーブルや椅子、ソファーやテレビ、大きさのあるものはほとんど運び込まれ、片付けもひと段落した。
キッチンで四方八方見えるように、その場でくるりと回ってみた。家らしくなったなと思う。朝、来たときは何もなくて、フローリング、階段、壁も冬眠をしているように静かに思えた。今は暖炉に火が灯ったかのように暖かさが伝わってくる。自分たちの工夫次第でどんな家にでもできるんだと、この夏を想像して胸が高鳴った。
冷蔵庫がまだ冷えていないため、コンビニへと飲み物とお菓子を買いに行くことにした。少し休憩ついでにちょうどいい。途中、紫陽花が綺麗に咲く公園の前を通った。数秒目に入っただけなのに、心が安らぐようだった。
コンビニで頼まれたものとほしいものを買った。近辺を知るために、違う道で帰ろうと思っていたけれど、さっきの公園が気になり、結局来た道を戻ることにした。
梅雨の晴れ間は、空気がみずみずしくて気持ちがいい。公園に入りベンチに座った。周りを見渡すと、キャッキャッとはしゃぎ動き回る子ども、それを一息つく暇もなく追いかける母親、微笑ましくて自然と口元が緩む。買ってきたチョコレートをひとつ口にして、しばらくその光景を眺めていた。
何気なくスマホを見ると、家を出てきてから四〇分は経っていた。いつまでも道草を食っているわけにはいかない、まだ小物類の整理が残っている。早く帰らないと何かあったのかと心配させてしまう。
公園を出て歩いていると、後ろから地響きが起きるくらいの衝撃音がした。振り返るとトラックがガードレールに突っ込んでいた。なぜだか胸騒ぎがして、騒然の中、ゆっくり近づいていく。
この人は……
涙が溢れてどうしようもなかった。なぜあなたが事故に遭わなくちゃいけないの? あなたはもっともっと生きなくちゃいけない人だよ。
あなたを死なせない、絶対にわたしが守るから!
そう誓った。
「残りは明日以降にしましょ。ごはんの用意するから、お風呂洗ってくれる?」
「うん」
広いバスタブにシャワーをかけて泡を流す。湯沸スイッチを押しせば準備完了。お風呂場を見ていると昔のことを思い出す。私が逃げ出そうとすると、捕まえられ泡だらけにされた。変な感じがして初めは嫌だったけれど、暖かくて気持ちよかった。今でも忘れはしない、ずっと覚えている。
お風呂に入ったあと、リビングで冷たいアールグレイを飲んだ。
「おいしい」
「これいいでしょ? ネットで買ったんだけど、また買っておくね」
「うん。ママ」
「何? どーかした?」
「ううん、何でもない」
「そう?」
「うん。私そろそろ寝るね」
「うん。明日は初登校だもんね、しっかり寝てリラックスしないとね」
「うん、おやすみなさい」
「おやすみ」
「パパ、おやすみなさい」
「おやすみ」
リビングの吹き抜けにある、シースール階段を上り、自分の部屋へと向かう。どこにいてもリビングが見えるような設計で開放的になっている。
下を見ると、母と父が寄り添い合い、お酒を交わしながら楽しそうに話をしている。仲のいい夫婦。ここに来られてよかったと心が温まるようだった。
ベッドに横になる。沈み込み、包まれるような気持ちのいい肌触り、普通ならすぐに眠りに誘われてしまいそう。でも、瞳を閉じてもなかなか眠りにつけない。今日を振り返り、どうしても考えてしまう、公園でのことを。
神様に本当に感謝している。でも、ふたりのことを考えると、少し、胸が締め付けられる。
わがままなのかもしれない、エゴなのかもしれない、自分勝手なのかもしれない。きっとそうなんだという思いが、ため息になる。
少し後悔しているの?
違う、後悔なんてしない。むしろ、これでよかったんだと思っているくらい。
あのとき、助けてくれた。だから今のわたしがいる。今度はわたしが助けたい。今のわたしができるすべての力を使って。
歩き方が少し変わるだけ、たどり着くところが変わるわけではない。
きっとこうなるために、あの日に出会ったのかもしれない。あのときは何も言えなかったけれど、今はちゃんとありがとうって伝えられる。
ほんの少しの時間だった。わたしを見つけて、優しさをくれた。ぬくもりってこんなにも心地いいものなんだって、小さなわたしにとっては、とても大きな幸せだった。
いつかちゃんと伝えたい。
あなたは何も悪くない。あれは仕方なかったことで、あなたが罪の意識を感じる必要なんて、ひとつもない。
毎年、わたしのために祈ってくれている、本当に心から感謝している。
ありがとう。
「おはよう。新しい学校はどう? 楽しそうね」
「新しい学校? ……うん、とっても楽しい。仲良くしてくれてる」
「そうなんだ、よかった。今回で転校はなくなりそうだからね。パパは名古屋に落ち着きそう」
「そっか、よかった。わたし転校するの嫌いじゃなかったよ」
「そう? 小学校のときなんて二回目だった? 泣いて帰ってきたことあったじゃない」
「えっ? そんなことあった?」
「惚けちゃって。あっ、牛乳なかったね。待って」
「ありがと」
朝のたわいもない会話、そんな些細なことがホットミルクを飲んだときのように、じんわりと心を暖かくする。
玄関の鏡で髪型、制服の最終チェックをして、よしっと胸の前で両手をグーにして気合を入れる。
「いってきまーす」
梅雨の時期は、ジメジメして嫌だという声が多いと思う。汗ばんで服がベタついて気持ち悪い。……わたしはこんな季節も好きなのかもしれない。雨に濡れて、宝石を身につけているかのような紫陽花も、雲間から降りてきた光の階段も、まるでくすみかけた日常に、アクセサリーをつけたときのような、ちょっとした胸の高鳴りをくれる。この感覚が楽しい。きっとそう感じているのは自分だけではないと思う。
花陽公園が見えてくると、入り口あたりに同じクラスの笹井絽薫が、自転車で止まっていた。どうしたんだろう? 何かあったのかな? と心配になり後ろから声をかけた。
「笹井くん、おはよ」
何か考え事をしているのか、こちらに気づく気配がない。笹井くんの背中をさすりながら顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 体調悪いの?」
「えっ?」
寝起きのような顔をしてこちらの方を向いた。
「何かあったの?」
「えっ? 葵さん? どーしたの?」
「ん~、どーもしないよ。行こ」
「あっ、あー、そーだよね」
間の抜けた声になんだか安心した。
笹井絽薫、とても優しい人で、少しそそっかしいところもあるみたい。ずっと会いたかった。わたしのことわかるかな? 聞きたくてもなんて聞けばいいのかわからない。それに今言ったところで混乱させてしまうし、黙っておこう。
今はまだ、その時期じゃない。
あなたをもっと見ていたい。まだ気持ちも不安定だから、いつでも寄り添えるように、支えられるように、なるべく近くにいたい。
どうしたら一緒の時間が過ごせるものなのか、少し考えよう。
「葵さん、しっかり捕まっててよ。駅まで飛ばすから」
「うん」
自転車の後ろに乗り、ギュッと笹井くんに抱きついた。背中にもたれかかると、大きくて、あのときのことを思い出す。
暖かくて心地いい、変わらない姿が見られた気がした。
「葵さん。……葵さん?」
「えっ?」
眠ってしまったようだった。別に寝不足なわけじゃない、疲れているわけでもない。安心しきった子どものような感覚なのかもしれない。もう少しこのままでいたかった。
「大丈夫? 途中で声が聞こえなくなったから、まさか寝てるなんて」
変に思われてしまったんだろうか? 確かに、駅までの道のりで寝てしまうなんて、明らかにおかしい。
「ごめんなさい。なんだか気持ちよくて」
「いや、謝らないでよ。なんか、可愛いなって……」
「えっ?」
「えっ? いや、何でもない、何でもない。……行こっ」
「うん」
少し頬が赤くなったようだった。わたしを乗せて自転車を走らせていたんだから、少し息が上がってしまったのかもしれない。
「ごめんね、わたしのせいでちょっと疲れた? 頬が赤くなってる」
そう言いながら、笹井くんの頬に触れた。
「ひゃっ!」
驚かせてしまったのか、勢いよく後ろに仰け反った。その拍子に地下鉄の入り口から足を滑らせそうだった。慌てて全力で抱き寄せた。
「ありがとう」
「うん」
自然と流れで目を見つめ合った。一瞬、時間の流れを忘れていた。
「……じゃ、行こうか?」
「う、うん。そーだね」
何なんだろうか? 少し、変な感覚がした。嫌な意味ではなくて、もたれかかっていたときと、少し似ている感じがする。それよりももっと強いかな?
このままでいたい。
止まっていたら動くことができないのに、わたしは何を思っているのだろうと、この時はまだ、心がわからなかった。
「百彩さん、今日は本当にありがとう。果穂さんに部活行っていいよって言ってしまって、風紀ボックスの回収があったのに」
期末テスト最終日、部活動をやっている人は久しぶりの部活で、いつもなら前日にやれることがやれていない状態だ。そのため、バドミントン部の森田さんはごめん、よろしくと言って部活に行ってしまった。
ホームルーム後に配った、進学、就職に対しての講習やインターンについてどのようなものをしたいか、してほしいかというアンケート用紙の回収と、生徒会のやっている風紀ボックスの調査用紙の回収を手伝った。
以前、転入したての頃に校内を案内してもらい、その時から茶谷織人が学級委員や生徒会をやっていることを知った。どんなものかと経験のためにも手伝わせてほしいとお願いしたら、快く聞き入れてくれた。それから、今日のような日には声をかけてくれるようになり、その度に少しながら手伝いをするようになった。
普通ならこういうところから恋が始まるのかもしれないと、微笑ましく思った。
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