ぼくと子ねこ
あれっ? おばけ? 家から公園までダダダダッと大きな足音が聞こえるくらい、思い切り地面を蹴りながら走っていた。ちょうど古びたアパートを通り過ぎようというとき、横のゴミ置き場で袋が音を立てて崩れた。ブロック塀とアパートの日陰になる所にあり、風が吹くと気持ちがいい。笹井絽薫はきっといつもなら気には止めなかった。こんなに焦って走っているのに、そんなささいなことくらい見逃したい。
でも、なんだかその一瞬のことが、今日に限りものすごく気になってしまった。公園に友達を待たしているという罪悪感はあるけれど、覗かなくちゃという好奇心が抑えられなかった。
青い網のシートを左手で力一杯に掴み、バサッと勢いよく取り払う。
ニャ~オ。
涙で潤っているのか、光が反射しているのか、そのどちらでも構わない。澄んだ宝石のように蒼い目、汚れているけれど、グレーで整った高級な絨毯のような毛並み、甘い泣き声。何も怖がる様子も見せずに、無邪気な眼差しでまっすぐにこっちを見てくる。
一撃ノックアウト!
思わず抱き寄せた。
キュンです。
きっと今の自分をアニメにしたら目がハートになっているんだと思う。絽薫は心の奥でそんなどうでもいいことを思いながら、腕の中にいる子猫を抱きしめたまま急いで走り出した。
「ごめーん! 今日サッカーできなくなっちゃった」
大声で叫んだ先には三人の子どもがいた。全員小学生、四年三組の仲良しメンバーだ。
サッカーボールでパスをしながら待っていた中野晶馬、北倉栄輔、大屋涼は絽薫が何かを抱えていることに気づき、駆け寄ってきた。
「ろか、何持ってんだよ?」
「ジャーン!」
「あっ、こねこだ」
「そう、途中のゴミ置き場で見つけたんだ」
「ゴミ置き場? 汚いよ」
「そんなことないよ。洗えば綺麗になるし」
「かわいいな」
「ねっ?」
「俺にも触らせて」
ほんの数分、お披露目会をして、絽薫は子猫のお世話をしなくちゃと家へと帰った。
「ただいま~」
玄関のドアを勢いよく開けて、靴を脱ぎ捨て、お風呂場まで直行した。ドタバタとフローリングの床を蹴り飛ばすようなあまりの足音に、母親が廊下まで出てきた。
「おかえり~。ちょっと、ろか! 玄関のドア開けっ放しだけど」
「ごめーん、後でやるから」
もうすでに風呂場まで着いているのに、わざわざ玄関まで行くはずもない。
「後じゃない! 今すぐやりな……」
廊下のほうで聞こえていた声が、後ろまで迫ってきた。
「ちょっと、あんた何やってんの?」
母親が後ろから覗き込んできた。
「見てわかんないの? 洗ってるんだよ。モアちゃんを」
洗面器に子猫を入れ、ボディーソープで泡まみれにして洗った。お湯が飛び跳ね、所々濡れてしまい、水遊びのようで気持ちがいい。
「キャー!」
奇声を上げて後ろで尻餅をつく母親を、不信感たっぷりの表情をして、横目で見た。
「何悲鳴なんてあげてるの? こねこなのに」
「ろか、あんたおばあちゃんが猫アレルギーって知ってるでしょ?」
「知らないもん」
「し、し、知らないじゃないよ! 猫の毛なんて吸ったら速攻病院行きなんだよ」
「なんでそんなこと言うの?」
「なんでって、確かに今のは言い過ぎたけど、でもアレルギーには変わら……ちっちゃい、可愛いね」
「ふふふっ、お母さんもそう思う?」
可愛いと言われると飼ってもいいよと言われているようで、自然と笑顔がこぼれる。
「あっ、だけど、ダメだからね。おばあちゃんがいるんだから」
「なんでそんなこと言うの? おばあちゃんだってモアちゃんを見たらアレルギーなんてどっかいっちゃうよ」
母親はハァーと深いため息を吐いた。
「ろか、あんたが飼いたいって気持ちはわかる。お母さんだってこんな可愛い子、家に置いてあげたい」
「だったら」
「でもね、このお家はろかとお母さんだけが住んでるんじゃないよ。お父さんもいるし、おばあちゃんもいる。みんないるからこのお家があるんだよ」
「タオル取って」
飼えないと察した泡のような心が、排水溝に流されるように、素っ気なく言わせた。
綺麗で真っ白なタオルをくれた。子猫が嫌がって逃げ出そうとするのを母親が抱き寄せて止めてくれた。
「ちょっと貸してみな」
そう言うと、絽薫からタオルを横取り、くしゃくしゃとネコが嫌がる間もなく、拭き終わった。
「ドライヤー取って」
「はい」
「ねこちゃん、逃げないでよ」
「ねこちゃんじゃなくて、モアちゃんだよ」
「えっ⁉︎ もう名前つけたの?」
「さっきもそう言ったし」
少し離した位置からドライヤーを当て、クシで梳かすとすっかり見違えた。まさに高級絨毯そのもののように艶のある毛並みは、今まで触った中で一番柔らかでしなやかで、手放すなんて考えられなかった。
「やばっ、ホントに野良猫? ペットショップから逃げてきたんじゃにゃいにょかにゃ」
子猫の両脇を掴み、自分の鼻とくっつけながら無意識にあかちゃん言葉を使っていた。
「何、その喋り方」
「はっ、別にいいじゃん。こんなに可愛いんだから自然とこうなっちゃうの」
「ふ~ん」
「ろかが赤ちゃんのときだって、こうやって喋ってたんだから」
「ふ~ん」
「はい」
そういうと母親は子猫を手渡してきた。
「とりあえず、おばあちゃん帰ってくるまで、ごはんあげよっか?」
「うん!」
リビングに連れて行き、ミルクを飲ませ、ツナ缶を湯掻き食べさせた。そうこうしているうちに、祖母が帰ってきてしまった。そこで母親に里親を見つけるようにと、バスケットを手渡され口論になった。
苛立った勢いで家を飛び出した。
なんでいっつもいっつも……
絽薫は、裏庭の水道に被せてあったバケツにモアを入れ歩き出した。目的地はすでに決まっているようで、迷いはなく凛とした表情をしていた。
「モアちゃん、今から誰にも見つからない、いい場所につれてってあげるからね」
お母さんはいい飼い主が見つかるって言ってたけど、モアちゃんの親は僕なんだから、ちゃんと育ててあげるからね。心配しなくていいよ。
バケツから顔を覗かせるモアを見ながら、心の中でそう語りかけた。
「モアちゃん、着いたよ」
一時間ほどかかっただろう。学区外の公園だ。堤防沿にあり、敷地はいつもサッカーなどをする公園の数倍はありそうだ。
広場の中を突っ切り、ランニングコースまで行くと草木が多くなる。少し林のように見えるところ、その奥に神社の小さな社がある。さらにその奥に行くと、今は使われていない屋根や壁に穴が空いている納屋が静かに佇んでいる。
壁の穴から中に入ると、何に使うのかわからない道具や、木材、ペンキなどが所狭しと置いてある。その隙間、二畳分ほどのスペースにダンボールや、ペットボトル、ブルーシートで作った秘密基地がある。
「今日からモアちゃんと僕のお家だよ。これからよろしくね」
モアをバケツから出してやると、ニャーオと鳴き、絽薫の膝の上で体を丸めた。動画を見たり、寝転んだり、置いてあったものでモアと遊んだりと、誰のことも気にせず自由な時間を過ごしている。気がつくと外は薄暗くなっていた。
「あっ、お腹空いたよね? あっ、お金持ってないよ。どーしよ」
何も考えずに家を飛び出してきたことを、後悔した。これからここに住むのに何も持ってきていない。ため息が出た。
見つからないように帰ろうかと迷っていたら、スマホが鳴った。何? と思い画面を見たら、母親からメッセージが届いた。内容を確認してみると、どこにいるの? 何時だと思ってるの? と、怒っている顔文字付きでら送られてきていた。めちゃくちゃ怒られる! と恐ろしさから帰ろうと考えてはみたものの、モアを連れて帰ることはできないしと頭を悩ませた。
策を練ること数分、自分でもニヤけてしまうほどのいいことを思いついた!
家にたどり着くと、気配を消すように忍足でそっと裏庭に行き、モアが入っているバケツを室外機の上に乗せた。何気なくポケットに手を入れると、カシャッとビニールの音とともに、入っているものがほろりと割れた感触があった。取り出してみると、モアを見つける前に家で食べていたクッキーの残りだった。ビニールを破り、バケツの中にそっと置いた。これで少しの間でもいいから、空腹を満たせられるようにと。あとでまた、お湯と混ぜたミルクを持ってくるから、それまで待っててね、そうモアに約束して玄関へと向かった。
夏休み恒例、早朝のラジオ体操に行った振りをして、そのまま家出をしてやろうと考えついた。誰にも気づかれることなく絶対にうまくやってやると思っていた。
玄関を開けると母親は仁王立ちで待っていた。言うまでもなくこっぴどく叱られた。でも、絽薫は平気だった。明日にはこの家からいなくなり、母親にガミガミ言われるのも今日までだから。
そうは言ってもお腹も空いていたし、父親に慰められ一緒にあったかいお風呂に入れば、なんだかホッとした気持ちになってしまう。怒られるのを覚悟で、風呂上がりのアイスをねだり、三人でゲームをして、いつの間にかうとうとと眠くなってくる。母親に歯磨きしてと催促され、渋々歯磨きをすれば、よく歩いたせいなのか、ベッドに寝転ぶと嫌でも眠ってしまった。
外の騒がしさで目が覚めた。あれっ? 何で寝ているの? 昨日は……夜の出来事を思い出していた。頭を掻きながら外を見ると、かなりの雨が降っていた。窓にヒビが入らないか心配になるほどのドスの効いた音、屋根に重苦しく洪水のように流れる音が、はっきり聞こえる。
雨か……なぜだか、心臓の鼓動が強く早く波を打っているようだった。もう一度、窓の外を見た。
……モアちゃん!
飛び起きた。着崩れたパジャマのまま猛スピードで一階に駆け下りた。
「おはよ、どうしたの? そんな怖い顔して。朝ごはん食べる?」
母親のそんな言葉なんかは耳に入らず、キッチンを抜けて裏口を裸足のまま飛び出した。何やってんの⁉︎ という言葉も雨にかき消され、目と鼻の先の室外機までそのままの勢いで走った。
びしょ濡れのバケツは地面に転がり、そのすぐそばには目を閉じたまま、ピクリとも動かないモアがいた。
「あんたちょっと何やって……えっ? モアちゃん、優しいおじいちゃんにもらってもらったんじゃなかったの? だから昨日遅くなったって……」
優しくモアを抱き寄せる。小学生の絽薫にだってすぐわかった。体温を奪われた体は震えることもなく、呼吸すらなかった。
「お母さん、モアちゃん冷たいよ。 昨日みたいにニャーって鳴かないよ? 僕、僕……」
大泣きした。この雨に負けないくらい涙が流れた。
朝、早起きして家出するはずだったこと。
秘密基地でモアとふたりで暮らそうとしていたこと。
昨日の夜、ミルクをあげに行くねと約束していたこと。
それを忘れて寝てしまったこと。
母親に話すと、それだけで悔しくて悔しくて涙が止まらなかった。夜、ミルクをあげに行っていたら、雨に気づいて違う場所に避難させてあげられたんじゃないのか、早起きできていたら、まだ、息をしていたんじゃないのか、昨日家を出たときちゃんと準備をしていたら、秘密基地で一緒にいてあげていたら——。
僕のせいでモアちゃんが死んじゃったんだ。僕がちゃんとしていないから、僕がダメな人間だから、僕のせいで、僕のせいで。
絽薫の心は後悔でいっぱいだった。母親にギュッと抱きしめられても、小さい子どもをあやすようによしよしされても、悲しさは止まらなかった。
どれだけ泣いたのかわからない。母親の腕に抱かれながら泣き疲れて寝てしまっていた。起きたあと、怒られると思ったけれど、そんなことは全くなく、優しくごめんねと言われた。本当は絽薫が飼い主を見つけられず、どうせ連れて帰ってくるだろうと、高を括っていたようだ。
祖母と鉢合わせしないように子ども部屋に隠して、次の日ネットで里親を探そうと思っていたらしい。
生き物を飼うってことは大変で、責任のあることなんだと学んでほしかった。色んな人に断られたら、何かしらわかってくれると思っていたようだ。
次の日、裏庭にお墓を作った。
ずっと、忘れないように。たった数時間だったけど、大好きだった。その気持ちは嘘じゃない。
もし、モアちゃんが生まれ変わって僕のところにきたら、今度こそ、守ってみせる!
心の中で、そう誓った。
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