32.5度の真夏日、開帳場にペンキを塗る
全くやる気の起きない授業、窓の外を眺めると、灼熱の鉄板のように熱しられた校庭に、教頭先生がホースで水を撒いていた。どんよりと湿ったあの梅雨空を、少し恋しく感じてしまう。室内は弱冷房のためか、座っていれば汗を流すことはないけれど、喉に染みて痛いくらいの、キンキンに冷えたレモンスカッシュがほしい。絶対に一気飲みしてやるのに。
「はい、それじゃ笹井、一六七六年パリで販売されていたものは何だと思う」
「えっ?」
「今の話の流れを考えれば簡単だぞ」
話し……、確かレモンがどうたらこうたら……。
「レモンスカッシュ!」
ほぼ聞いていなかった。テストも終わり、授業はテストに向けてというよりかは、先生や生徒の箸休め的なものになっている。うんちくやら豆知識をクイズのように出題したり、話し合いの場になっている。
「おしい! 他にいないか?」
「はい! レモネードでしょーか?」
「おう、正解!」
左側を直視する。流石は真面だ、授業に関係ないことでも何でも知っている。一体、どんな生活をしているのか、不思議でならない。女子の気配なんて全くないと思っていたのに、お嬢様の木下と付き合っているなんて、女子の好みってわからないものだ。呑気にそんなこと考えていると、葵百彩がうしろを振り向き、すごいねと微笑みながら言っていた。百彩ちゃんまでも……、俺もおしかったのにと恨めしくふたりを見ていた。そこで空気を察したのか、こちらに向かい笑顔を向けてくれた。社交辞令だとしても究極に可愛すぎる。単純なのかもしれないけれど、最高の気分のまま、終業のチャイムが鳴った。
来週は終業式、通知表のことを考えると少し頭が痛くなる。でも、待ち遠しい。夏休みに入ると演劇部の大会がもう間近に迫る。それまでに、毎日、みんなで意見を言い合っていいものを作っている。
サッカーとは違い、毎回の試合、というか演技で違うことをやっているわけじゃない、むしろ、同じことの繰り返しだ。シーン事態の雰囲気はどうなのか、一言だけでも、ニュアンスや声のトーンで変わってしまう。台詞のタイミング、間の開け方など何度も合わせる。奥が深いんだなと思った。初めの頃は、そんなことでストーリーが変わるわけでもないのに、こんなことやる意味あるのかなと、正直なところ思っていた。けれど、みんなの演技を見ていると、本当に声のトーンや間を変えただけでも、そのシーンの映像が違って見えてくる。
福居の言った通り、なめてたな。
帰りのホームルーム前、百彩ちゃんのいないことに気づいた。福居昇流、坂戸輝紀、三咲凛花とともに、廊下を見たり、窓から外を見て探していると、外の渡り廊下を、また茶谷織人とふたりで歩いていた。
「行ってくる!」
三人を残して、颯爽とふたりの場所へと向かった。
「どこ行くんだよ?」
「あー、凛花。何やってんの? 先輩とこ行ってくるね」
「りょ!」
森田果穂が階段までついてきて三階へと駆けて行ったけれど、そんなことはどうでもいい。俺は早く行かなきゃいけないと、一段飛ばしで降りて行った。
一息つき、目標を確認すると共鳴するように後ろから足音が聞こえてきた。振り向くと三人がついてきていた。ほら、あれだよと渡り廊下を見るように促すと、知っている福居を残して、ふたりはため息を吐いた。
「王子かよ」
「王子が出てきたんだ」
「何が?」
「いや、笹井はそりゃイケメンだと思うよ。でも、サッカーでキャプテンやってた時ならまだしも……」
「なぬ? それは何か、演劇部ではモテることはないと?」
「やべっ、違うって。演劇部だと中々かっこいいパフォーマンス見せる機会がねーだろ?」
「まーそーだよね? あたし、絽薫が演劇してること見たことないし」
笑顔の中に、鋭い視線を感じる。
「えっ、何それ」
「一理あるかもな? やってる俺からしても大会に見に来てもらわない限り、見せる機会なんてないからな。運動部なら外で練習してればいくらでも見せられるし」
心の中で絶望と言う鐘が鳴り響いている。暗くしんみりとした森の中、覇気さえ感じられない。ぽつんと置かれた冷たすぎる鐘が、何もしていないのに、ひとりでに鳴っているような……そんな光景が浮かんでくる。
「ちょっとこっちくるよ」
「……壁だ壁!」
馬鹿だよなと普通なら思うかもしれない。けれど、今の四人にはそれが最善だった。壁に向き合い、ぺったりと張り付く。柱近くなら尚更いい。
王子こと茶谷と百彩ちゃんの笑い声が聞こえてきた。見てやりたいと思う気持ちを必死に抑えて、耳を澄ました。
「ホントにそうなの?」
「ホントホント、福居はいいキャラだよ」
なぜか、福居が話に出てきている。
「じゃあ、ホームルーム終わったらふたりに言ってみようかな?」
「それがいいと思うよ」
何の話なのか掴めないまま、行ってしまった。
「なんかいい雰囲気じゃなかったか?」
「王子の場合誰といてもいい雰囲気じゃね?」
「でもさ、嫌味な感じがないんだよね〜」
「俺は、別にそー思わないけど」
終業のチャイムが鳴ると同時に、やる気スイッチをオンにする。
「笹井、福居またなー」
「絽薫、福居明日ねー」
「うん」
「おう!」
「あっ、凛花、先輩たちによろしくね。」
「うん、任せて。がんばれー」
「葵さんもありがと、じゃね」
「森田、どーしたの?」
「明後日引越しで、部活ばっかやって全然終わってないんだって。いい加減怒られるって」
「それな」
ドアの前で何かを話していたけれど、俺は目の前のことで頭がいっぱいだった。
「葵さん、また明日」
「うん」
百彩ちゃんへの挨拶は絶対に忘れない。さっきのことは関係なく、短縮授業になっているせいで、一緒に過ごす時間が減ってしまった。その分、少しの会話でも逃したくない。これがあるかないかで、部活でのテンションが違ってくる。
「ロカ男、行くか?」
「うん」
百彩ちゃんに手を振り、教室を出ようとしたとき、呼び止められた。後ろを振り向くと、少し頬を赤く染めた百彩ちゃんがいた。
「あの」
「どーしたの?」
「あの……」
「んっ?」
「えっ? ちょっとお前らここで告るなんてやめろよ。俺、惨めじゃん」
「えっ?」
「えっ?」
ドキッと胸が高鳴った。百彩ちゃん、さっきの茶谷とのふたりきりはカモフラージュで、実は俺に告白したいと相談していた……、気づかなくてごめん! どうぞ!
「違うの、あのね」
違うんかい!
って、そうでしょーよ。福居だって、どう聞いてもわざとらしかったし。百彩ちゃん、お願いだからこれ以上傷つけないで、心の中でそう祈った。
福居が俺と百彩ちゃんの間に入り、すぐそばの机に手を置いた。
「うん、どーしたんだい?」
斜め下を向きながら、紳士のようだった。何やってんだよと思ったけれど、特にそのことには触れなかった。
「フフフッ、あっ、ごめんなさい」
百彩ちゃんが思わず吹き出した。ほら見ろ、そんなことやったって女子にはモテないんだよ。そう、ツッコミたかった。でも、それを言ってしまったら、本当に惨めな気がしてやめておいた。
「あの、わたしも、演劇部入れないかな? って」
「葵さん……」
「ほほう」
福居は考えるように、握った手を顎の下に持っていった。
「あの、それに織人さんが勧めてくれて」
「えっ、織人さん?」
「なぬ?」
「いや、俺が勧めたわけじゃなくて、百彩さんが興味がある言ってたから、おすすめしたんだ」
後ろの席で帰り支度をしている茶谷が、爽やかに言った。嫌味なんかはまったく感じられなかった。
「そうだったんですか。ならば、ぜひどうぞ! 私目がご案内致します。葵姫こちらでございまする」
福居はそういうと、片膝を床につき左手で誘うかのようにドアの方を示した。
「フフフッ、ありがとう」
「わざわざ、申し訳なかったな、武士殿」
わざとらしい真顔で茶谷に視線を送る。
「えっ? 俺は何もしてないけどね。あはは」
急に演技のスイッチが入った福居に対して、苦笑いしかできないようだ。
「さあ……。おい、そこの農民、ここはお前のくる場所じゃない。どけ」
————。
「俺は農民じゃないとか、ふざけんなとか、言っていいんだぞ」
無反応な俺に福居は小声でアドリブを聞かせる。
「織人さん……百彩さん……、なんか俺バカみたいじゃん。勝手に好きになって、勝手にヤキモチして、バカみたいじゃん」
教室にはまだ残っていたクラスメイトが数名いたけれど、そんなことは関係なかった。感情が抑えきれなくて、自分勝手に言葉を吐き捨て、その勢いで逃げ出してしまった。誰もいなければ泣きたいくらいだった。たかが一目惚れで、片思いで……一方的に、でも、悔しかった。何もやれない自分が、何もやろうとしない自分が、百彩ちゃんの笑顔をもっとみたいだけなのに……。
どうにもできない気持ちが、自然と足を走らせていた。額からは汗が流れ落ちて、途中、体育館横の水道で頭と顔を流した。タオルを持っていなかったため、首を左右に振り手で払った。そのまま部室まで行き先輩たちに挨拶をした。どうした? と、二度見をされたけれど、この暑さの中なら誰でも同じことをしたくなる。
まるで悲劇のヒーロー気取りだ。いつもなら福居とハンバーガーやら弁当やら食べに行ったり、買ってきたりするところ、百彩ちゃんと福居に出くわしたくなくて、少し離れたコンビニのイートインコーナーで冷やし中華を食べた。マヨネーズをかけてやろやかになったタレがなんとも言えなくうまい。このうまさをひとりで噛み締めていると、だんだんと虚しくなってきた。
百彩ちゃんにだって恋愛する権利があって、それを俺が一方的な思いを押しつけて、逆ギレして……、それこそバカみたいじゃん。自分が情けなくなった。こういうのが器のちっちゃいやつというのかもしれないと悟った。
タレを一気に飲み干して、燃えるゴミにすべて押し込んだ。急いで自動ドアを出て行こうとしたら、目の前に福居、百彩ちゃん、茶谷の三人が現れた。
「あっ」
自分は二重人格なのかもしれない、頭にそんな思いが浮かんでくる。今さっきまで器のちっちゃいやつや何やら思っていたのに、隣に一緒にいるところを見ると、悟ったはずのことが、一瞬にしてなかったことになってしまう。
どんな顔をしたらいいかわからずに、こくんと会釈をしただけで走り出した。見たくなかった、百彩ちゃんと茶谷が一緒にいるところなんて。
泣きそうな気分で走っていると、「待てよ!」と強く左腕を握られ、呆気なく止められた。
「ロカ男、何やってんだよ?」
「何って、別に」
ばつが悪い状況に顔を背ける。足音がして目を向けると、百彩ちゃんと茶谷が福居の後ろに来た。
「走るの遅くてごめんなさい」
「……えっ?」
つい声に出てしまった。ズレていると言うか、嘘や冗談を言っているわけではなくて、周りの雰囲気を飲み込めていない、ただ、素直な百彩ちゃんに拍子抜けしてしまう。
「わたし笹井くんに謝りたくて」
「謝るって……いったい何をだい?」
「百彩さん?」
…………。
「もっと早く言うべきだったって」
「えっ、何?」
一歩踏み出した百彩ちゃんの純心……、いや、色で例えるなら純白な視線に、荒んだ心が一歩後退りしてしまう。
「わたし、ずっと気づいてた。笹井くんにあいさつされてから。でも、どうしても先に演劇部に入りたいって言いたくて、無視しちゃった」
三人が百彩ちゃんの方に耳を向ける。
「シャツのボタンズレてるよ、ほら」
そう言うと、おもむろに目の前に来て、シャツのボタンを外そうとした。あまりの急接近に、弾き飛ばされるように尻餅をついた。
「うわっ」
「大丈夫? ごめんなさい、わたし力が入りすぎたのかも」
心配そうな顔をして、目線を合わせるようにしゃがみ込んでくれた。
「ほら、いち、に、さん」
リズムよく俺の腕を引っ張ってくる。立ち上がるべきか迷ったけれど、百彩ちゃんのリズムに合わせて一気に立ち上がった。
「きゃっ」
「ごめん!」
勢いをつけたせいで百彩ちゃんがよろめいた。すかさず支えて、手を握り返していた。
目が合った。
…………。
キュン超えしてドッキュンだ!
一瞬にして、空気と身体が混じってしまったかのように、体温が急上昇した。軽く平熱を超えて四二・五度までいったはず。
なんかどうでもいい。茶谷なんてどうでもいい。俺は百彩ちゃんが好きなんだ。大事なのはそこだと思う。彼氏がいたってそれがなんだよ! 関係ない!
「二人とも大丈夫か?」
と、福居が目の前で片手を振っていた。
「えっ? う、うん。大丈夫です」
頭がボーッとして声がうわずった。
「百彩さん、大丈夫?」
「う、うん。わたしは……」
福居にひそひそ話をするように、小さな声で喋りかけられた。
「えっ! マジッ?」
百彩ちゃんと茶谷、福居を交互に見返した。
「よがっだー」
言われたことに、強がっていた心が一気に緩み、お天気雨のように涙が溢れてきた。泣き顔は見せたくなくて、福居の胸を借りた。
百彩ちゃんと茶谷は恋愛関係ではない。もうひとりの学級委員の森田が、引っ越しの準備で部活に出れないため、先輩たちに練習計画を提出しに行っていた。バドミントン部は大会期間外の練習は二年生が計画を立てるらしく、当番の森田は速攻で家に帰るため、葵さんに茶谷の手伝いをお願いしていたのだった。
もうひとつ、○○さん呼びはもともと茶谷の方針でもあった。新入生、転校生に早く馴染んでもらうため、苗字ではなく名前で呼ぼうと、生徒会に立候補したときもそんなことを言っていたなと、話を聞いて思い出した。
自分の行動が恥ずかしくてたまらなくなった。どう福居の胸から離れたらいいのか、どうふたりを見たらいいのか考えてしまう。
「笹井くん? どーしたの? 大丈夫?」
百彩ちゃんの柔らかな声が心まで癒していく。
「大丈夫だよな? なっ? ロカ男」
福居が両肩を握り、身体を離した。腹式呼吸で息を深く吸い、ゆっくりと吐いた。
「あ、あの、その、なんて言うか、アハハッ……ごめん!」
深く頭を下げた。精一杯の気持ちだ。
「えっ? あ、あのっ、わたしこそごめんなさい。まだ慣れてなくて……あっ、あの部活やったことなかったから」
「いや、俺もごめん。なんか変なことなっちゃって。絽薫くんの気持ち知ってるし……、俺は応援してる」
最後の言葉だけ小声で耳元に話しかけてきた。
「あっ、ありがと」
さっきまで見たくもなかった茶谷が、本当の王子様に見えてきた。
「さっ! 飯にしようではないか。葵姫、あちらに茶屋がありまするので、参りましょう!」
「茶屋ってコンビニ……」
「おい、農民! 誰が話していいと言った? 姫、武士殿参りましょう!」
「いや、俺も行くよ」
「はて、農民? もう食ったのではないか?」
「いや、そーかもしれないけど……ごめんて」
「謝るって、そんな姿勢か? なあ、おふたり」
「えっ? わかったよ、いや、わかりましたよ。姫様、武士殿、家来殿。申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げて、なおかつ、正座までした。五秒数えて乗り切れただろうと、ドヤ顔で正面を見ると、誰もいなかった。今までのことは全て幻だったかのように、素通りするその他大勢が行き交うだけだった。
……茶屋、コンビニを見るとちょうど自動ドアが開き、三人が中へと入っていくところだった。恥ずかしさから下向き加減で立ち上がり、急いで追いかけた。
「お疲れ様でした」
「葵さん、大会前であんまり普段の練習できないかもしれないけど、見るのも勉強になるし、何か提案とかあるなら、気軽に言ってくれていいから」
「はい、ありがとうございます。みなさんに、遅れを取らないように、しっかり見て勉強したいと思います」
部長の本田先輩が、いつものように優しい声で、百彩ちゃんに声をかけていた。部長はイケメンだ。男の俺から見てもかっこいいと思う。顔はもちろんだけど、性格もいい。みんながこの人についていくのもわかる。それが今、苦いコーヒーを味わうかのように、不味くてたまらない。吐き出したくなる気分だった。
「どーしたの、笹井?」
「えっ? 何でもないです」
ふたりのやりとりを見ていると、大山先輩が後ろから肩を抱くようにして、声をかけてきた。
「好きなんだろ?」
「えっ? いや、別に……」
大山先輩は副部長をやっている。本田先輩とは違い、少し強面で、頼り甲斐があるタイプだ。口がちょっと悪く、たまに怒ってるかのようにも思えてくる。その反面、面倒見もよく、入った初めの頃は、熱心に教えてくれた。
「まぁ、好きでもな、仕方ない。本田にはかなわないよ」
「えっ?」
考えないようにしていたことを、しれっと言ってのけた。心臓が音を立てて沸騰したかのように、身体中に激流のごとく血液を流し始めた。
一難去ってまた一難とはこのことだ。
「しゃーねだろ? あんだけかっこよくて、性格もいい。モテないわけがない。小学校の頃から知ってる俺が言うんだ。間違いない」
「でも……」
これでもかと沸騰し続けるせいで、身体が熱くなり、手に汗が吹き出してきた。じんわりと生暖かくて、なんとも嫌な感じだ。
「可哀想だけど、あー見えて、女だけにはだらしないんだ」
「そんな……初めて聞きました。そんなこと」
「まあ、青春ってやつだな」
そう言って俺の肩をポンポンと軽く二回叩いて、ふたりの元へと行った。高望みの恋だと言われているようで、膝から崩れ落ちそうだった。一瞬にして、流氷が押し寄せてきた。寒くてたまらない。
「本田、行くぞ」
「ああ」
「頑張ってな、葵ちゃん」
「はい、ありがとうございます」
百彩ちゃんがニコッと笑顔でこっちを向いた。俺も精一杯の笑顔を返した。その後、アウンッと高めの声を出して膝から崩れ落ちた。大丈夫? と百彩ちゃんが駆け寄ってきた。その隣で室内に共鳴するように笑い声が響いた。
福居だ。
福居が俺に膝カックンをしたのだ。
「ロカ男、可愛い声出して何したいんだよ」
「何したいって、膝カックンしたからだろ?」
俺たちのやりとりを見て百彩ちゃんはクスクスと笑っていた。昼のこと、本田先輩のこともあり、こんなカッコ悪いところを見せたくなんかなかったのにと、ため息が出た。察しろよと意味を込めて福居を軽く睨んだ。
「なんだよ?」
「なんだよじゃねーよ」
子どもっぽいかもしれないけれど、好きな人がイケメンと一緒にいるところなんて、見たくない。ましてや、頼りになる先輩で部長ともなれば、当たり前にカーストで言えば最上級。敗北したら、待つのは死。実際に死ぬわけではないけれど、それくらいに……それ以上に苦しいかもしれない。
「葵さん、いや、葵姫、先をどうぞ」
左手を横に広げ、ドアまで誘うかのようにして、葵さんを先に行かせた。俺も続いて行こうとしたとき、耳元で福居に話しかけられた。
「本田先輩は女にだらしなくないよ」
「えっ?」
「心配すんな」
そういうと姫と家来の芝居をしたまま、練習場を出て行った。
福居に言われると、根拠がなくてもこいつが言うなら本当だろうなと思えてくる。人柄なのか、素質なのか、生まれ持ったものがあるのだろう。そっか、と安心できる。
なんで彼女できないんだろ? いい奴だし、身長だって180センチもあって申し分ない。告白されて断ったってことは聞いたことはあるけど、付き合ったって話は聞かないな……どんだけ高飛車なんだよと、ハリセンでかましたくなる。
「農民、早く来い!」
「ふざけんなよ、何でまた俺が農民なんだよ!」
先に出て行ったふたりを小走りで追いかけた。
ただ立っているだけで、ジリジリと鉄板焼きになったんじゃないかと錯覚したくなる。それくらい、一秒一分数えなくても刻々と日焼けしていくのがわかる。空はどこまでも青く、綿飴のような雲が遠くに浮かんでいる。目を瞑れば、百彩ちゃんとふたりでその綿飴に横たわり、熱い気持ちで周りが溶けていき、きっと海に落ちてしまう……何を考えているのか、海に落ちるなんて。あまあまな綿飴に包まれてもっとあまあまなふたりになる的な妄想だったはずなのに——暑さで大事な妄想の中まで乱れてしまったようだ。
夏休みに入り、ますます気温は上がり三二・五度の真夏日になった。大会まであと四日だ。通し稽古を何度もやり、音響も常にスタンバイしている。でも、今日は夕方まで大道具の最終チェックをすることになっている。
そのひとつで開帳場と言うものがある。それのペンキを塗り直さなければならない。衣装や照明に合わせて、今まで塗ってあった色では合わないということで、今日中にやらなくてはならない。それを任されたのが俺だ。もちろん独りではないけれど、この暑さの中、溶けてしまいそうだ。
「絽薫くん」
「あれっ? 百彩ちゃん。どーしたの?」
「わたしもペンキ買いについて行こうと思って」
「マジ?」
こんな暑い中、練習場から走って校門横の自転車置き場まで来てくれたようで、少し息が上がっていた。
「うん。わたし特にやることないし、楽しそうだから」
「そーなんだ」
えっ? 楽しそうってペンキを買いに行かされるだけなんだけどな……あっ、そうか、まさか、俺と行けるからってこと? 察しろよってこと? ……ダメだダメだ、また妄想が頭の中を乱していく。
「どうしたの?」
「えっ? 何でもないよ。ってか大丈夫? 少し日陰で休んでから行ってもいいけど」
「ありがと、でも大丈夫。行こ」
「よしっ。じゃあ、後ろ乗って」
「うん」
自転車で学校から少し離れた文具店に来た。そこには、鉛筆やらノートやらは必要最低限置いてある程度で、あとは、工具が大半を占めていた。ペンキはと言うと、聞いたことのない色もあり、緑といっても単に緑だけではなく、若草色、よもぎ色など多様にあった。ここで調合もしてくれるみたいだ。それなら、さっそく色を調合してもらおうじゃないか、そんな風に言いたいところだけれど、彩色する色はすでに決まっている、なんとも残念だ。こんなに色があるんだから先輩が来て調合してもらえたらいいのに、と少なからず思った。
帰る途中、あまりの暑さにコンビニに立ち寄り、アイスを買った。口の中から一瞬にして、キーンと脳天に突き凍みるような刺激が走った。部活中で、なんだかみんなに悪い気はしたけれど、買い出しの特権だ。
急いで戻ると、開帳場はすでに外に出されていて、いつでも作業ができるようになっていた。けれど、そこには誰もいない。この暑さの中、外で待つ奴なんかいるはずない。戻ってきたことと、部費のあまりを返そうと思い、練習場に行くため、開帳場の横を通り過ぎた。
バンッ‼︎
鼓膜が伸び切った。突然、大きな音がして、一瞬背中にゾクゾクと寒気を感じた。思わず、ワァッ! と声を上げてしまった。音のした方を見ると開帳場の半分くらいのところが開いていた。三つある中のひとつが半分のところから窓のように開くようになっている。そこからノソノソと顔と出し、満面の笑みを浮かべて出てきたのは福居だった。
「福居くん」
「葵さん、こんな情けない男のどこがいいの?」
「えっ?」
百彩ちゃんは何のことだかわからないようで、首をひねった。福居は開帳場に一度上り、降りてきて俺の肩をポンポンと二回叩いた。
「何?」
俺の顔と百彩ちゃんの顔を見比べてまた俺を見た。
「ワァッってなんだよ?」
「いや、それはさ、なんて言うか、生理現象」
「いい男なんだけどな、なんか抜けてるんだよな?」
「褒めてんのか貶してんのかどっちだよ?」
「どっちでもない」
約一センチくらいの至近距離に顔を近づけ、変顔をしながら福居は言った。
「唾飛ぶじゃん」
俺も同じようにして言い返してやった。それを見ていた百彩ちゃんが笑い出した。ふたりして百彩ちゃんのを見ると、アハハハハッとお腹を抱えながら笑っていた。こんな百彩ちゃんを見たのは初めてで、なんだか見ていた俺たちまでおかしくなってきた。つられて笑ってしまう。
「さっきアイス食べたのに、なんかあんまり意味なくなっちゃったね」
百彩ちゃんは、スカートのポケットから出したハンドタオルで額の汗を拭きながら、さらっとその事実を言った。暗黙の了解って言葉すら頭にないように、純粋そのものに見えた。
————。
「あれっ? 俺のは?」
「…………」
俺は何も言えなかった。あるはずないし、ふたりのあの癒しの空間に、福居のことを考えている時間はなかった。
「あっ、ごめんね、途中で食べたから。それにこんなに暑かったら、溶けちゃうし」
「そ、そーだな」
百彩ちゃんにこんなことを言われてしまったら、しぶしぶ納得するしかなくなる。
「あー、じゃあ俺は業務用扇風機で涼しい練習場に戻るから、ふたりであつあつで頑張れー!」
完全に嫌味だ。だって本当に買ってきていたら、アイスなんて溶けるだけなのに。練習場はここよりかは涼しいか……仕方ない、早く終わらせて練習場に行くしかない!
ペンキの塗り方は先輩に教えてもらっていた。やったことはないけれど、なんとかなるはず。
……俺って不器用だ、わかっていたはず。早く塗り終わりたくて、猛スピードでハケを動かす。ねっとりと塗り始めのところはペンキが溜まったまま盛り上がり、先に行くにつれてまばらで、下地が全く隠れていない。暑さのせいで乾くのも早いけれど、これはこれで悪くはない。ダメージ加工をする予定だったと言われたら、そう見えなくもない。はぁ~、とため息を吐き、隣の百彩ちゃんを見た。そこには、今見たひどいダメージ加工とは違い、段差もなくツルツルな表面に、赤い色が窓ガラスのように太陽の光を反射している。少しそれを眺めていると、百彩ちゃんが俺の手を取り、塗り方を教えてくれた。
「こうやって塗ると綺麗に濡れるんだよ。ほら、できた」
「あ、ありがと」
「うん」
百彩ちゃんの手はマシュマロのように柔らかくて、汗をかいているはずなのに、いい匂いがした。ゴクリと生唾を飲み込む。暑さのせいで頭がクラクラしてきたのか、百彩ちゃんの匂いにクラクラきているのか自分でもわからない。
「お茶、飲む?」
「えっ?」
「水分補給したほうがいいよ。ほら、日陰行こ」
練習場の隣に桜の木があり、そこに並んで座った。百彩ちゃんは置いていた鞄から水筒を取り出し、まずは、自分でひと口飲んだ。そのまま新しいのを注ぎ俺に渡した。
「はい。氷いっぱい入れておいたから、冷たいよ」
「ありがと」
一瞬、時が止まったかのように思えた。そして、意を決してカップに口をつけてゴクゴクと飲み干した。口の中にカップから僅かに残った甘い香りと、息を止めてしまうくらい冷たいお茶が喉を滝のように流れ、全身に染み渡った。
充電完了!
「気持ちいいね。暑いけど、日陰でのんびりするのって」
「うん。百彩ちゃんがいるから余計に……」
「んっ?」
「なんでもない。もうちょっと休んでからやろ」
「うん」
三二・五度の真夏日、最悪だけど、最高な時間。いつまでもこうしていたい。隣を見てそう思った。
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