ライムの香りは恋の香り

 地区大会、最終演目が幕を閉じた。長かったようで短かった四日間。午後からは、ワークショップとお疲れ様会と題し、一時間程度、レクリエーションや勉強会をする。その後に県大会出場校が三校発表される。サッカーのときはその場の得点の差で勝敗が決まるけれど、今やっている演劇は人の感性だから、その場でどの高校が何点で優勝するなんてことはなく、審議で決められる。

 台本がきて、オーディションをして、配役が決まり、毎日のように繰り返し練習をしてきた。本番中、みんなが舞台に立ち、演じているのを音響席で見ていた。

 かっこよかった。

 凛々しかった。

 誇らしかった。

 今度は自分もあの舞台に立ちたいと思った。

 入部したときは演じるということがよくわからなくて、裏方でもいいかなと思っていた。しかし、舞台で見たあの姿は下手や上手いそんなことよりも、役者ひとりひとりにキラキラしたオーラが纏っているかのようで、輝かしかった。

 クソくらい羨ましいとも思った。

 もちろん、山吹原高校演劇部の演技は一番だ。絶対県大会に行きたい。強く心の中で願った。今までで見た最高の【明日の恋】だったから。

 部員がそれぞれ休憩時間を過ごし戻ってくると、劇場の外、駐車場に集められた。

「みんなお疲れ様。これからいよいよ発表だ。俺たちは昨日やれることはやった。ミスったやつもいるだろうし、あたふたしてテンパったやつもいたと思う。でも、それを踏まえて地区大会はやり尽くした。俺は行けると思う」

「俺もだ。台詞間違えたり正直あった。すまん! でもよ、十分、県大会に進める実力は俺らにはある。去年に負けねーくらい、やってやった!」

 部長の本田先輩と副部長の大山先輩が結果発表前に軽い挨拶をした。みんなどんな気持ちなんだろう?  

 これまで、部長、副部長が中心になってやってきたのはもちろんだけれど、他にもそれぞれ役割がある。舞台監督、演出、大道具、小道具、音響、照明など、全部が、全員が必要不可欠だ。各々の場所で中心になって策を練ったり、指示を出したり、物を集め、作り、他校とミーティングをしたりと、裏では怒涛のように動いていた。

 そして、ひとつの作品が作り上げられる。

 部員全員の思いはひとつ。

 県大会に行く!


「それでは、四位から発表していきます。四位、杉ヶ丘高校、【叫び!】三位、藤宮元島高校、【夏の日の夕暮れ】二位、山吹原高校、【明日の恋】一位、地区大会連覇の堤大山高校【シンプル】、一位の堤大山高校と二位の山吹原高校、三位の藤宮元島高校は県大会出場おめでとうございます。中部大会に行けるように頑張ってください。四日間お疲れ様でした」

 会場がライブハウスのように、爆音の喝采が上がった。先輩たちは今年もやられたと涙こそ見せないけれど、歯を食いしばり、拳をギュッと握りしめていた。大山先輩は今にも叫び出すんじゃないかと言わんばかりに体が小刻みに震えていた。

「また堤に持ってかれたな」

 歓声の中でも、はっきりと大山先輩の声が聞こえた。

「地区大会は二位だって構わない。県大会で勝負だ」

 本田先輩の力強い目の輝きは刺さるくらいに見え、ふたりの強い意志を感じられた。後輩の俺たちも、先輩たちの思いをそのまま形にできるように力を尽くしたい。

 そう思った。

 



「ありがとうございました。明後日また、よろしくお願いします」

 ふとん屋に代金を支払い、明後日回収に来る時間を確認し、校門前でトラックを見送った。少し心が浮かれてしまう。オレンジを丸かじりして、果汁がジュワッと吹き出すかのように、喜びが溢れてくる。

 今日から二泊三日の合宿だ。

「夜、小田先生いないって」

「ふーん」

「ふーんってなんだよ? 葵さんとふたりになれるようにしてやろーか?」

「えっ? いや、そんなこと……」

 福居が急に願ってもないことを言ってきた。心のどこかでは、そんなことを考えていたとは思う。でも、もし、それが現実になったとしたら……ダメだダメだ、変な妄想をしてしまう。

「バーカ、冗談だよ」

「あー! 発見なのだー!」

 いい気分が身体を流れようとしていたのに、ものすごく嫌な予感がした。恐る恐る声の方を向く。

「やっぱり」

「やっぱり、笹井絽薫だー!」

「じゃ、そーゆーことで」

 あまり関わらずに逃げようと思っていたのに、福居が無駄な気を遣ってきた。

「あっ、俺、やることあるからさー、先行くわ。ごゆっくり!」

 わざとらしさ満載で手を振り、渡り廊下の方まで駆けて行った。

「さすがは福居昇流、わかってるのだ。あっ、愛夏としたことがうっかりさん」

 右手を握り頭を打つようなポーズをした。俺はこういうところが苦手なんだ。かわい子ぶって喋り方や、身振り手振りを大袈裟にしたり、ひとりなら絶対しないことを、他人がいるときにはアピールするように見せつける。苛立ちを通り越してため息が出てくる。

「演劇部、お疲れ様です」

「ありがとう」

 このまま立ち去ろうとしたら、「ちょっと!」と止められた。

「えっ、何? 他に何かあった?」

 振り向きほとんど無表情で問いかけた。

「愛夏も部活頑張ったんだよ。アイドル部」

 両手を胸の前に当てて、こちらを覗くように見てくる。

「あー、オツカレサマ。……お疲れ様」

 一言目は、完全にスルーされてしまったため、仕方なく丁寧に言い直した。

 好かれるのは嫌ではない。むしろ嬉しいし、ありがたいと思う。けれど、推しが強すぎるのはやはり苦手だ。

「やっぱり、笹井絽薫は優しいのだ。ホントに愛夏の王子様」

 ニコッと笑う顔がいつものアピールのための笑顔ではなくて、素直に喜びを表しているようで、うかつにも可愛いなと思ってしまった。

「じゃあ、またね」

「えっ? ああ、また」

 校門の前で手を振る榎園さんに、手を振り返して見送った。

 フーッと息を吐いた。下駄箱から渡り廊下を写真の端から端まで見るように視線を流した。福居が待っているはずがない。俺も急いで戻ろうと小走りで下駄箱前を通り過ぎようとしたら、ワァッ! と突然大きな声がした。少し物静かで薄暗くなった下駄箱の雰囲気と合わさり、ゾクッと背筋が冷えた感覚と共に、オバケを見て、腰を抜かしたかのような情けない雄叫びを上げた。

「アハハハハッ」

 隣で爆笑している声が聞こえた。

「不意打ちだし」

「ロカ男はかわいいな」

「うっさいなー」

 俺は、こういうことにめっぽう弱い。驚かされたり、お化け屋敷だったり、肝試しだったり……もし、彼女ができたら絶対一緒には行けない、いや、行かない。それは守らなくてはいけないトップシークレットだ。情けないところなんか、見せるわけにはいかない。

 浅いため息を吐きながら前を見ると、校舎と体育館、部室までを繋ぐ渡り廊下の途中で、百彩ちゃんがこっちを見て立っていた。

 ヤバい、今の完全に見られたってこと? こんなカッコ悪いところ。

 百彩ちゃんがこちらへと足を進める。その姿を直視できない俺を横目に、福居が話しかけた。

「姫、大変失礼致しました。こやつがこんなに煩く叫ぶとは思ってはおらず、ご無礼を」

「フフフッ、姫ね」

「で? 俺はまた農民かよ?」

「よくわかっているではないか」

「フフフッ、でもそういう絽薫くんもかわいい」

「えっ?」

「えっ?」

 何か自信ありげな言い方に聞こえた。というか、いつもよりも力強い目線に押し倒されてしまいそうな気分だ。

 絶対にさりげなく出た言葉だろうけれど、それはどういう意味なのかと、気になってしまう。ただ単に子どもっぽいということなのか、それとも……

「人として?」

 俺の抱いていた疑問を福居が代弁してくれたようだ。

「えっ? 人として……」

 三拍ほどの沈黙が流れた。

「人として? ……うん、何で? そうだよね?」

 百彩ちゃんが自問自答し始めた。かわいいと言ったときの力強さはなくて、なんだか動きもぎこちない。少し挙動不審にも見えなくない。

「葵さん、えっ? もしかして、ロカ男のこと……」

「えっ? 何言ってるの? そんなこと……神様が許してくれない」

 そう言うとそのまま下駄箱の方に走り出した。恋するのに愛のキューピットはいるのかもしれない。でも、神様の許しなんていらんじゃないかと思う。そろそろ正直になってほしいと願うばかりだ。

「百彩ちゃん、どこ行くの?」

「えっ?」

 こっちを見る百彩ちゃんの頬が、俺だけだろうか、赤くなっている気がする。いや、赤い!

「あっ、あぁ。こっちね。わたし、ふたりを呼びに来たんだった。ちょっと待ってたから……」

 少しおぼつかない足取りで、渡り廊下を練習場の方へと走っていった。俺と福居は顔を見合わせ、少しの間を取り、お互いの視線を合わせたまま深く頷いた。福居も同じことを思っているんだと確信した。

 百彩ちゃんは俺のことが好きなんだ。

 確かめようと俺が喋ろうとしたら、遮られるように福居が喋り出した。

「好きはまだ確実じゃねーぞ」

「えっ、だって……」

「そんな急に変わるかよ。気になりはじめたくらいじゃねーか?」

「……そんなことないし」

 少し不貞腐れてしまう。百彩ちゃんのあの反応は、絶対に恋する乙女だ。

 生温い風が吹いた。額から汗が地面へと滴る。背中はベッタリとTシャツが張り付きうっすら肌を透かしている。気持ち悪いはずなのに、そのことさえも、ただスチームサウナの中にいるんだ、と錯覚してもいいくらい心地よく感じてしまう。火をつけた矢のような日差しに、身体中めった刺しされても構わない。

 愛は、俺の愛はそんなものには負けやしない!

「あぢぃぃ!」

 少しの間妄想に浸っていた俺に、どこから持ってきたのか、福居が直射日光を存分に浴びたであろうスプーンを、腕に押し当ててきた。

「負けたな」

「はっ? 何が?」

 ジュッっと、フライパンで肉が焼けるときのような音が聞こえた気がする。俺は二の腕を瞬時に見た。熱いお湯を冷ますように、息を吹きかけながら摩った。

「だって、言ってただろ? ぶつぶつ聞こえてたから。俺の愛は……」

「おい、言うなよ。おいって」

 福居は俺の愛はーと大声を出しながら練習場へと向かっていった。先輩たちに聞かれたらイジられること間違いなし! 意地でも止めようと必死で追いかけた。


 

 ぷはぁ~、やっぱこれっしょ?

「うまい」

「だな?」

「って、福居それフルーツ牛乳?」

「えっ? そーだよ。風呂上りはフルーツ牛乳だろ?」

「お前、かわいいとこあんだね」

「はっ? な、何言ってんだよ。べべべつにそんなの狙ってねーから」

 風呂上りで赤ら顔だった福居の顔が、真っ赤にのぼせたようになった。急いで瓶を片し、たどたどしく椅子にもたれかかった。

「何言ってんの? フルーツ牛乳って子どもっぽくて意外だなって思っただけだよ」

「はっ? わ、わかってるし」

 はっ? が裏返ってはいたが、別にそこを追求する必要もないと思い。そっかと話を流した。

「何、じゃれあってんだよ」

 入り口のドアが開いたと思ったら、大山先輩と本田先輩が立ってにいた。

「先輩、明日は裸の付き合いしましょうね」

 福居が調子良く大山先輩と本田先輩に駆け寄った。

「俺はそーゆー趣味ねーから」

「何言ってんすか~?」

 面倒くさそうに手で厄介払いでもするように、福居を交わして脱衣所へと入っていった。

「あとでな」

 本田先輩はふたりのやりとりを見て、ニヤつきながら大山先輩の後を追った。

「何? 裸の付き合いって」

「えっ? 男同士裸で語り合う的な?」

「あー、それな」

「ロカ男リアクション薄いだろ」

 そういいながら二の腕を引っ叩かれた。俺は痛てててと、引きつった顔で叩かれた場所を摩り、やった本人は大笑いをしていた。そこに女湯から百彩ちゃんと新座明歩が出てきた。

「あっ」

 俺は見惚れてしまった。肩まであった髪はバンスクリップで軽く纏めて留めてある。周りを薔薇に囲まれてしまったかのように、ふたりからかぐわしい香りが流れ込んできた。

 エロい。

 生唾を飲み込む。

「お待たせ」

「うん」

 百彩ちゃんと目が合い、中々離せない。牛乳を飲んで冷えたはずの体が、ヤカンのピーッと音を立て、沸騰し始めたときのような熱さに覆われそうだった。

 福居と新座がそれぞれの顔の前で片手を振り、視線を遮ろうとしていたようだけれど、そんなものは頭を叩かれるまで目に入らなかった。

「熱い!」

「痛いじゃねーのかよ」

「いや、痛い」

「お前、どーしたよ?」

「どーしたよはふくすけでしょ?」

 上から目線で福居を見下ろすように新座が言った。

「はっ? どーゆー意味?」

「もっちゃん、バカどもはほっといて行こ」

「うん」

 新座はそういうとさっさと靴を履き、百彩ちゃんと銭湯を出ていった。

「なんだよ、な?」

「さぁ?」

 銭湯のドアが勝手に開いた。ボーッとした顔でドアの方を見ると、新座が顔を出してきた。

「何やってんの? おいてくからね」

「あっ、はいはい」

 脇目も振らず一直線に靴箱まで向かい、瞬時に靴を履き、有無も言わさぬ速さで外へと出た。

「よくできました。早く行こ」

 新座がこちらに笑いかけ、振り向いた百彩ちゃんとまた目が合った。さっきは目線を外せなかったのに、今度は目を逸らしてしまった。ニッと口角を上げて、今できる精一杯の笑顔を見せることしかできない。再び百彩ちゃんを見ると新座と先を歩いていた。

「ロカ男、行くぞ」

「う、うん」

 気まずいわけじゃないのに、なぜだかうまい言葉が見つからず、話そうにも話しかけられない。

 恋は甘酸っぱいって言うけれど、甘いというより、苦くて酸っぱい。レモンのようにグサッとまっすぐに突き刺さる香りじゃなくて、クネクネ折れ曲がったり、後を追うような独特な香りで、心を惑わせる。

 好き、ただ、それだけなのに……

 恋ってまるでライムみたいだ。少し、大人な気分を漂わせ、大人への道のりを歩かせ……大人って——難しいな。



 自分は食パンにでもなってしまったのかと思うくらいに、こんがりと腕からいい香りがしてきそうだ。ジリジリとした日差しがまるでトースターで全身を焼かれているような気分にさせる。少しでも涼もうと日陰になる校門の外壁にもたれかかる。

「あー、気持ちいい」

 合宿二日目、ちょうど昼の休憩の時間。今日は部活で学校に来ている、坂戸輝紀と三咲凛花も一緒にハンバーガーを食べに行く予定だ。待ち合わせ時間から五分過ぎたくらいだ。

「百彩ちゃん好きだ。俺と付き合っ……」

「何言ってんだよ」

「えっ?」

 待っている間、前日の夜のことを考えていると、どうしてもその後のシチュエーションを想像してしまう。本番のとき、緊張で言い間違えたりあたふたしたら、絶対に、それだけで雰囲気がぶち壊される。そうならないためにも練習が必要だと思った。そんなことを考えていただけなのに、声に出ていたようだ。

「えっ? て、ロカ男焦んなって。俺たちの青春はまだまだなげーよ。もっちゃんだけが女じゃねーから」

 肩に手を置かれ、なっ? っと笑顔で頷かれたら、振られる前提で言われているような気分になる。

「はっ⁉︎ 何、その振られるのが決まってるみたいな言い方」

「はっ? そんなことねーって。気にすんな」

「うーん」

 意味がわからない。気にすんなって気にするわ! 今までは告白したわけじゃないけれど、間接的に振られたって雰囲気になっている。だからこそ、告白はちゃんとしたい! それで本当に振られたら、それは受け止めるしかない。でも、両思いになりたい。

「わりー、遅れた」

「ごめんね、あたしが遅くなっちゃって」

「そんなんいいって。久しぶりだな、なんかお前ら……」

「……何?」

 福居の何かを疑うような目に坂戸と三咲はお互いに顔を見合わせて、まるでとぼけているかのように答えた。

 俺は鈍感なのだろうか、変な雰囲気はわかるが、それが何に対してなのかが見当が付かなくて、素直な五歳児のようにそのまま疑問をぶつけた。

「どーしたの?」

「実はさ、俺たち……」

 何か気まずそうな、けれど、どこか浮かれているような、そんな表情でこちらを見ていた。

「お待たせ~」

「後でいいや」

 坂戸が何か話そうとしたとき、ちょうど百彩ちゃんと新座が走ってやってきた。

「ごめんね、小道具と衣装の直ししてたら時間見てなくて」

「そんな待ってねーって。さっ、行くか?」

「どうしたの?」

 百彩ちゃんは感がいいのか、変な雰囲気に気づいたらしい。

「あっ、フフフッ」

 ふたりを見るなり、優しく微笑み何も言わなかった。一体、何なんだろう? 思春期っていうのは、各々に秘密にしたいものがあるものなのかなぁと、雲ひとつない空を見上げた。

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