青空を茜色の夕焼けに染めて
外を少し歩けば、服が体にペッタリとくっつき、水滴のような跡をつけて少しずつ濡れていく。まだそんなムサ苦しい季節の中、いよいよテストが始まる。部活動は一週間前から休みになったけれど、それほど勉強するわけでもなく、カラオケに行ったり、ゲームをしたりとテスト前だというのに呑気なものだ。いっそのこと部活をやっていた方が無駄なく充実するように思える。
それに今、そんなことよりも常に頭にあるのは、葵さんのことだ。
何をしていても思考回路の先頭にいて、シャワーをしていても、ごはんを食べていても、男子の大事なプライベートな時間、ナニをアレしていても、いつだって俺の邪魔をする。決して悪い意味ではなく、むしろそれがいい。
学校にいるときは、もちろん席も近いとなれば必然と話だってする。その度に垣間見る、横顔、笑顔、ボーッとした顔、全部が可愛くて、ドキドキして、キュンとして、平静を装うのもそれなりに大変だ。
これが本物の恋ってやつか。
自分でもわかるくらいに彼女に吸い込まれそうだった。でも、何かに似ている気がした。好きって感情が変わるわけではない、ましてや揺らぐなんてありえない、それ以上かも。ただ、葵さんと一緒にいると……抱きしめたくなる。
「テストどうだった?」
「まぁまぁかな? ほとんど昨日、一昨日、勉強したくらいだから。葵さんは?」
「わたしもまぁまぁかな?」
フフフッと笑いかけてくる。この瞬間、まるでふたりきりの空間になったのかと思うくらい、周りが目に入らない。
「葵さん、そんな謙遜しなくていいのに。葵さんのことだから、絶対正解率は九〇パーセント以上だよ」
「えっ? そんなことないよ。でも、嬉しいありがと」
またか、またお前か。
いい雰囲気だったはず、ここからキュンキュンしていたはず、真面が話しに入ってくるまでは。というか、いつも葵さんは真面に笑いかけている。もしかして、勉強できる系がタイプってこと? ……無理じゃん、絶望しかない。
「笹井くん、顔、顔」
「えっ?」
「だから、顔」
真面が目と鼻と口を手で広げるような動作をして指差してきた。自分の顔に触れてみる……ハッ! ショックすぎて変顔をしていた。
「ありがと」
「うん」
あれっ? なかなかいい奴なのかもしれない。いつも難しそうな顔をして、勉強ばかり、しているイメージだったから、ほとんど話したことがなかった。
「じゃあ、また明日。俺、彼女と勉強するから」
「また、明日」
さらりと言った一言、何気なく聞き流せるはずなのに、彼女? 俺はその言葉に敏感なのか、聞き逃したくなかった。
「えっ?」
去っていくドアの方を見た。手を振りながら二組の木下佳織が迎えにきていた。
「彼女って、二組の木下?」
「何だよ、知らなかったか?」
そう言いながらスリーパーホールドをするように、坂戸輝紀が首に腕を絡めてきた。
「おい、ゴホッゴホッ。なんだよ」
「笹井くん大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。絽薫はこれくらいされても関係ないから」
「そー」
三咲凛花の言葉に素直に納得してしまう。なんて尊いんだと、見惚れてしまう。
「そーなんだよ! 演劇部なら、どんなことでもやれなきゃならん! さすが俺の目に狂いはない!」
台詞染みた言い方で福居昇流が人差し指を立てて、堂々と俺の横に仁王立ちをした。
「つーか、いつまで見つめてんだよ」
「そーだよ、絽薫ってわかりやす過ぎ。葵さんもダルかったら言っていいんだよ、邪魔って」
「邪魔はなくない?」
「まあ、そーだよな? さすがに邪魔じゃかわいそうだ。やんわりと退けよ! くらいじゃん?」
「ムーブオン!」
重低音が響くようなうっとりする声で、福居が茶々を入れる。
「ムーブオンね」
また納得したように、葵さんが繰り返した。
「それは違うから」
テスト初日が終わった。まずまずのできだったと思う。あと四日間勉強との闘いだ。
「わたし、笹井くんのこと好きだよ」
「えっ?」
四人の声がまるでドラマのセリフかのようにピッタリと揃った。お互いにそのことにも驚いて顔を見合わせた。
「ちょっと待って、葵さんの好きな人ってやっぱり、絽薫なの?」
ヤバい、鼻血が出るかも。毎日思っている俺のこの気持ちが、こんなにも早く届いてくれるなんて。
「あの……」
「なんだよ。結局、笹井がいいのか。サッカー部だったときはエースだし、演劇部になってもエースらしいし。そんなのズルくない?」
「えっ? あの、だから」
「とさかくん、僻むのはよくない。まぁ今現状エースではあるけど、音響担当なんだよ」
福居が俺肩に手を乗せて、担当者を紹介するかのように、たっぷりの作り笑いをした。
「まー、エースかどうか知らないけど、音響なんだよね?」
「音響? ……そーゆーこと言ってんじゃねーから」
「あたし、トイレ行くわ」
「俺も」
何なの? 気を使ってふたりにしてくれたの? って、福居がいるからふたりっきりではないけれど。
都合のいいようにそんなことを考えていた。そして、葵さんに話しかけようとしたとき、目の前を隠すように風が吹き抜けた。見ると葵さんは席にいなくて、ドアの前にいた。
「あの、ちょっと勘違いしてると思う」
葵さんは行く手を遮るように話しかけた。
「勘違いも何も……」
「だから、わたしは笹井くんのこと好きだよ。それは優しくて親切で……」
「だから好きになったってことでしょ?」
少し呆れたように三咲が言った。
「そうだけど、たぶんふたりの言ってる好きとわたしの言ってる好きは違うと思うの」
「もういいよ、葵さん。俺たちはお似合いだと思うよ」
だよね? だよね? 葵さん正直になっていいんだよ。心の中は、遊園地で大好きな乗り物を待っている子どものように、落ち着きがなくなっていた。
「ううん、恋愛感情じゃない。わたしにはちゃんとわかるの。人としてステキな人なんだって」
三拍ほどの沈黙がクラスを飲み込んだ。他に話をしたり、ふざけ合っていた奴らは、静止画のように俺の方を向いたまま、身動きせず固まっていた。何も聞こえてないような振りしながら、ちゃっかりと聞き耳を立てていたんだなと、急に恥ずかしさが込み上げてきた。再びクラスが動き出す。
「笹井」
「絽薫」
坂戸と三咲が同時に俺を呼ぶと一斉に声のする方へクラス大半の視線がいった。見るとふたりして満面の笑みでガッツポーズをしている。
はぁ~、ため息を吐くことしかできない。
「笹井、そーゆーときもある」
「なんか、ごめんね」
こっちにそんな軽い言葉をかけ、そのままトイレに行ってしまった。半開きのドアを同時に出ようとしたせいでぶつかり合い、そこでも邪魔やら、退けよやらぶつぶつ文句を言いながら出て行った。教室を出る時くらい歪み合わずにいけないものかと、それを見て、またため息を吐いた。
クラスの連中は坂戸と三咲を見送ると、何もなかったかのように、自分たちのしていたことを再開していた。
葵さんがこちらに戻ってきた。かなり、気まずい。目を合わせないように外を見ていた。
「笹井くん、ごめんね。なんか変なことになっちゃって」
「ううん」
ボソッと吐き捨てるようにしか言葉にできなかった。俺はこの前告白したようなもので、俺の気持ちを知っているはずなのに、また振られるなんて最悪すぎる。しかも本人に言うんじゃなくて間接的にって、結構痛いよ。家なら、部屋の隅で負のオーラ全開で泣いている。
「大丈夫? 体調悪い?」
「えっ? 体調悪いのか?」
福居の言い方がわざとらし過ぎて、ため息が出る。
「いや、体調悪いってわけじゃないけど」
「本当に? 保健室行く?」
「じゃあ、俺が担ごうか?」
「えっと、わたしが……」
「えっ?」
それは、どういうことですか?
それは、世間一般で言う、誘っているっていうあれのことですか? みんなには知られると恥ずかしいから、ふたりきりになったらね、的なことですか?
「どうしたの?」
葵さんをジーッと見つめた。獲物を見つけたオオカミのように、視線を外すなんてしない。一分? 二分? それくらいだと思う。その間、葵さんもずっとこっちを見つめ続けていた。どちらかが逸らすまで見つめてやると思っていたが、その前に葵さんがズルいことをした。
「絽薫」
「えっ?」
突然名前で呼ばれて驚いてしまった、いつもは名字で呼ぶのに。やっぱり、あのふたりに言ったのは嘘で、本当は両想いだということに気づけよってことなのかもしれない。いや、そんなはずない、単なる俺の妄想だ。
「あっ、なんでもないの。気にしないで」
「う、うん」
何だよ、意味わかんないよ。俺のこと好きじゃないなら優しくなんかしなくていいのに。
二度振られたことがショックで、ネガティブになっている気がする。本当はもっと葵さんといろんな話をしたいのに、自分でも心をうまくコントロールすることができない。
小さな子どもみたいだな、俺。
そんなことを思っていると、坂戸と三咲が口論しながら戻ってきた。まだやっている。嫌なら別々に戻ってきたらいいのにと思いつつ、とりあえず何で言い合っているのかを聞いてみた。
「どーしたの?」
「どーもこーもねーよ。こいつが……いや、別に」
「何なの? いちいち言うわけ?」
「はっ? 別に言ってねーだろ? 何も」
「マジで何も言わないで!」
「言わねーよ! 言ってねーだろ!」
何のことなのか何で怒っているのか、全くわからない。治めようがない。
「どーしたの? 落ち着けって」
「どーどー」
そんなことしか言えない俺達を横目に、葵さんが一言と呟いた。
「好きな人?」
「えっ?」
三咲があまりの慌てように後ろに尻もちをついた。
「大丈夫?」
葵さんが優しく手を差し伸べ、三咲はその手を握り引っ張られるように立ち上がった。
「ありがと。あっ、先生来るみたいだね、席に戻らなくちゃ」
そういうとさっさと自分の席に戻ってしまった。意味のわからない俺達は顔を見合わせてお互いに首を傾げた。そうこうするうちに、矢村先生の足音が廊下から響いてきた。
このふたりの勢いに負けてか、自分のネガティブなところが少し忘れられたように感じた。
学校から家に帰ってくると、ゲームをしたり、YouFilmを見たり、ひと通り無駄な時間を過ごした後、テスト勉強をしていた。
YouFilmはユーザーが動画などをアップロードしたり、閲覧したり、コメントをしたりできるSNSだ。これで収入を得ている人たちを、ユーフィルマーと呼んでいる。
普段、部屋の中で勉強をしないせいだろう、なかなか進まずに手が止まってしまった。少し息抜きをしたくなり、コンビニへと自転車を走らせた。
花陽公園の前を通ると、ステンドグラスのように光を受け輝いていた紫陽花が、少し色あせ張りがなくなり始めていた。なんだか涙を流しているようにも見えなくはない。悲しくて泣いているというよりは、新しい季節を運んでくれる、そんな喜びの一雫のように思えた。
自転車を止めて公園の中を見てみた。この時間、雨が止んだと言ってもさすがに小学生は家に帰っているようで、走り回る人影はなかった。
さっ、行くかと前を向き直したときだった、何か変な違和感が脳裏をよぎった。思わず目を細めて考えてみる。
何も思いつかない。
別に頭を強くぶつけたわけでもない、頭痛がするわけでもない、至って健康だ。それがどういうわけか、何かが引っかかっている気がして、落ち着かないと言えばいいのか、それとも胸が高ぶっていると言えばいいのか、自分でもわからない感覚に襲われていた。少し頭の中がボーッとしているけれど、ここにいても意味がないと思い、再びペダルに足を乗せ、力を入れようとした。
「笹井くーん」
突然、後ろの方から俺を呼ぶ声がした。振り返ると、胸のあたりで小さく手を振りながら、葵さんがこちらに駆け寄ってくる。
その瞬間、悔しさで頭がいっぱいになった。いつでも思考の先に葵さんがいるのに、今この時に限って忘れてしまっていた。いや、忘れていたわけではない。少し、頭の奥にいただけだ。勉強という猛威に侵され、自分が自分ではなくなっているんだと思った。勉強は大切だけれど、それなりでいいやと考えてしまう。
「葵さん?」
歓喜に湧く心を悟られないように、平然とした言い方で返した。
「ここで何してるの? ボーッとしてたみたいだけど」
「あっ、いや、何か変な感じがして」
「変な感じ?」
目の奥を覗くように、綺麗な瞳が俺を凝視してくる。ヤバい、このままじゃキスしそうだ。咄嗟に話を逸らした。
「今、コンビニ行こうとしててさ……行く?」
「えっ? うん」
「後ろに乗って」
葵さんを後ろに乗せて自転車でコンビニへと向かった。
「葵さんって軽いね。後ろに乗せてても体重ないみたい」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ。それに、髪も目も肌も身長だって、めちゃくちゃタイプだし。名前も百彩って可愛すぎだよ」
俺、何言ってんの? 素直になりすぎだろ⁉︎ 言いたかったよ。めちゃくちゃ言いたかったよ。でも、今このタイミングって、やはり勉強のしすぎで制御が効かなくなったのかもしれない。
「ふふっ、ありがと」
きっと呆れているんだろうと思う。
目の前にコンビニが現れた。後は降りるだけ、どんな顔して百彩ちゃん、いやいや、葵さんを見たらいいのかわからない。とりあえず、自転車を止めて深呼吸をした。
「どうしたの? しんどいの?」
そういうと百彩ちゃんは俺の額に手を当てて、また可愛い顔で覗き込んできた。マズい、これはマズい。何勝手に興奮してんだよ。どうしようとあたふたするのもみっともないし、何より、ナニがアレのところは気づかれたくない。こんなに最高なシチュエーションなのに、仕方ない。先にコンビニに入ってもらうしかない。
「あっ、あのさ、百彩ちゃん、先に入っててくれない。自転車の鍵が見つからないからさ。すぐ行くから」
「鍵? ……うん、わかった」
百彩ちゃんがコンビニの中に入り、スイーツのショーケース前に行ったのを確認すると、気づかれないように全力疾走でトイレに駆け込んだ。異常じゃないよね? すぐに勃つのって、みんなこんなもんだよね? テレビ番組で見たことがある。おじいちゃんたちが若い時はよ、俺はチュウしただけでもビンビンでよ、みたいなこと言っていた。高校生だし、もしかしたら、これからもっともっもすごくなるかもしれないし、想像すると……ダメだ、せっかく治ったものが今度は爆発してしまいそうだ。一度、目を閉じ大きく深呼吸をした。そして、家を出る前にやっていた数学の問題を思い浮かべて、解いてみる。一気に萎えた。呼吸を整え、トイレから出た。
「何、買うの?」
「えっ? んー、じゃあこれにしようかな?」
「じゃあ俺もこれにしよ」
ふたりでチョコ大福を買った。外に出てビニールを破り、歩きながら食べた。色んなことを考えた頭と身体に、甘いチョコレートがなんとも言えないくらい極上だった。
ふと空を見上げると夕焼けに染まっていた。太陽の近くは茜色に揺らぐ炎のようで、その手前は、昼を終わらせたくないかのように青色を強く主張する、その奥は夜の静けさを纏う濃い紺色になっていた。
まるで、空が染め物のように、ジワジワと色を重ねられていく。
俺も同じだ。
俺の心が百彩ちゃん色に染まっていく。
————。
やっぱり、今日の俺はなんだか変な気がする。まあ、事実なんだけれど、こんなこと誰かに言ったらドン引きされそうだ。
「送ってくれてありがとう。また明日、学校でね」
「うん。じゃあ」
家まで送りたかったけれど、ここでいいよと言うので、途中で降ろした。この時間、もし、父親にでも会ってしまったら、何となく気まずい。将来のお父さんに……、いや、気が早すぎる。まだ、付き合ってもいないのに。そんなことを考えながら自転車を走らせようとしていると、後ろから声がした。
「ささいくーん」
「えっ?」
嫌な予感がしたけれど、とりあえず、後ろを向いた。
「あっ、えっと、えぞのさんだっけ?」
「そーだお。
「何でここにいるの?」
悪いとは思ったけれど、少し冷ややかな目をしてしまう。
「愛夏はアイドルになるのだ。そのために歌を習ってて、先生のお家がその辺にあるんだお」
「へー、そっかー。じゃあ」
このまま流して帰ろうとしているのに、しつこく話してくる。
「ちょっとー、こんなか弱い女子をひとりにしていいの? 実はお迎えにきてくれたんでしょ?」
どう見てもわざとらしい困った顔に、ため息が出る。
「それは……」
「そうなの? やっぱりなのだー」
そう言いながら抱きついてきた。
「わ、わかったから、うしろに乗っていいから」
「素直でよろしいぞ」
後ろに座り、俺の腹に腕を回し、体をこれでもかというほどに密着させた。
「駅まで送るだけだからね。そんなにくっついたら逆に危ないよ」
「くっついてないと振り落とされちゃうお」
はぁー、と深いため息を吐きながら自転車のペダルを踏み込んだ。
葵さんを送った後でよかった。もし、見られでもしたら、あの素直さから想像すると、確実に勘違いしてしまう。
俺は葵さんしか勝たん。そう心に誓いながら、現実逃避して自転車を走らせていた。
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