第一章 きみと出逢って

紫陽花の咲く頃に

 改札を通り、出口の方へと歩いていく。エスカレーターを降りて、最後の階段を上がっていくと、目を細めたくなるくらいの光が入り込んでくる。半分ほど登ると、前のめりになる気持ちが足早にさせる。外へ出ると、三日振りの晴れ間に手を伸ばし、思いっ切り背伸びをした。学校を出たときも同じことをしたけれど、何度もやりたくなってしまう。今日は歯医者に行くため、部活を休んだ。まだ昼過ぎのように日が高い、この季節は嫌いではない。

 ゆっくりと自転車を進めながら、コンビニを通り越して花陽公園まできた。歩道で自転車を降りて押しながら歩いた。入り口の花壇にはふっくらとした紫陽花が咲いている。手で触れてみると、花びらのひとひらひとひらが、風に揺られながらキラキラと光を反射し、その度に蝶になり飛んでいってしまいそうに思えた。その奥のコートでは子どもたちが声を上げながらサッカーをしている。小さな頃、俺もよくこの公園でサッカーをしたなと、小学生の自分と重ねながら、その光景を横目で追った。すぐ後ろで、ワァ~と小さな子が楽しそうに走っている声と足音が聞こえる。振り返ると、二、三才くらいだろうか、いかにもやんちゃ盛りの男の子が、弾けんばかりの笑顔で、歩道まで飛び出してくる。水溜りで何度もジャンプをしたせいで、足元がびしょ濡れになっていた。

 突然だった。目眩がして、頭がグワンと何かに揺さぶられたような感覚がした。足がもつれてよろめき、膝に手をついてなんとか立ち止まった。ふ~っとため息を吐く、ゆっくり体を起こして目を開けると、一台のトラックが前の車道を通り過ぎていった。気づくと右手に温かい何かが触れていた。

「大丈夫だよ」

 えっ? と声のした右側を向くと、ニコッと笑顔の優しい、同じ年くらいの女の子が俺の手を握り、立っていた。

 可愛い。

 パッチリ二重で吸い込まれそうなくらいまん丸な目と、子どものように小さめに尖ったな鼻、アヒル口と言えばいいのか、甘えた表情を見せる口元。

 ドストライク!

 一瞬そんなことを思ってしまったけれど、そういう問題ではない。いきなり何? いつの間にそこにいた? 下心を取り払うように頭をブルブルと左右に振り、ふと向かいに目を向けると花陽公園が見えた。頭を傾ける、なんだっけ? ……慌てて彼女を見た。いない、消えた。今いたよね……? 可愛い……あの子。

 目眩のせいで、幻覚でも見ていたのかと思えてしまう。でも、それにしても鮮明で、手の温もりがまだ残っているように感じた。右手を胸の前に上げて、軽く握ってみた。感触を覚えている。肉球のように柔く、スラっと伸びた細い指。やっぱり……ここにいた! 心臓が飛び跳ねるくらい胸が高鳴った。



 目が覚めて、重たい空気に目を擦る。カーテンを開けて外を見た。予報通りかと、ため息混じりに背伸びをする。

 六月も半ばを過ぎれば、梅雨も本領発揮というところか、ここ最近は毎日のように雨が降っている。初めの頃は本当に梅雨なの? と空を見上げ、催促するような顔を向けていたことが嘘のようだ。来月になればテストが始まるというのに、余計に気分が落ちてしまう。

 おはようとリビングに行けば、母親からは、今日パートが早出になったから、チャチャっと食べちゃってと、朝食を急かされた。トースト、ベーコンエッグ、バナナを口に頬張り、牛乳で流し込んだ。こんがりとしたきつね色の香ばしさに、バターが染みていく絶妙な絡み合い、塩胡椒とソースで食べる、ベーコンのジューシーな肉汁と、まったりとした黄身と白身のベストマッチ、そんな些細な贅沢さえも感じることが出来なかった。

 あくびをしながら家を出て、いつもより少し慎重に自転車を走らせ、サウナのような満員電車に乗る。ステンレスの手摺を握ると、本来なら冷たいはずなのに、こんな状況では生ぬるい。電車を降り、改札を抜けると蒸し風呂の中に入るようだった。通学路は、落とし穴かよとツッコミたくなるほど水溜りがあり、靴は水浸し。やっとの思いで学校に着けば、身体に張り付くシャツを目一杯はためかせ、ダルい気分で教室のドアを開ける。

 中へ入ると、いつもとは違う賑やかさがあった。んっ、何だ? と思いつつ席に座る。ふ~っと落ち着く間も無く、坂戸輝紀が机の右側を両手でドンッと叩いた。軽い地震を思わせるほどの勢いだったせいか、しまってあった教科書が床に崩れ落ちた。何だよと思い見上げたら、大声で喋りかけてきた。耳元で出すだろう声量を遥かに超えていた。

「ボサッとしてんじゃねーよ!」

 じゃねーよじゃねーよ! サッカーの練習中じゃねーんだよ! と喚きたくなった気持ちを抑え、一度深呼吸をした。ケンカ腰に話すのも面倒そうなので、とりあえず少し嫌な顔をして返事をする。

「何? 朝から」

「いいのかよ? そんな嫌な顔して」

 何かを企んでいるのか、ニヤリと笑みを含ませ上から目線で言ってきた。抑えたはずの気持ちが、破裂しないように再び深呼吸をして抑える。何か面白いことがありそうな雰囲気もしたので、そのまま話を聞くことにした。

「はっ? だったら何?」

「周りの話聞いてわかんねーか?」

「周りって」

「いいよ、俺が教えてやる。今日……」

「ねぇ、絽薫。今日転校生来るんだって」

「えっ?」

「えっ?」

「そうなの?」

 坂戸が何か言おうとしたとき、ちょうど重なるように三咲凛花が話してきた。

「そう‼︎ そうなんだよ!」

「なに? 今あたしが話してる」

「はっ? その前に俺が喋ってんだけど」

「はっ? それが?」

 三咲は怪訝そうな顔でそっぽを向いた。

「朝イチでケンカって」

「ケンカじゃねーし。こいつがうざいんだし」

「あっそ、うざいならどこか行けば?」

「はっ? だから俺が先に喋ってんだろ? 何で俺が退かなきゃいけねーんだよ」

「男のくせにめんどくさ」

「はあぁっ‼︎」

 お互いの顔と顔を約三センチ程の至近距離まで近づけて、ビリビリと稲妻が走っているのが見えてくるようだった。面倒臭いのはこっちだよと思いながらも、噴火しそうな坂戸を落ち着かせなくてはならない。

「坂戸」

 坂戸を呼び、持っていたスマホの画面を見せる。画面には、坂戸の好きなアイドルのいい具合の状態で写っているグラビア写真を載せておいた。

「笹井、お前ってやつは。どこにあった? いや、お前がこの写メ送ってくれたらいいから」

 舐め回すように画面を見ながら、何事もなかったかのように前の席に座った。

「ちょっと、あんたの席じゃないでしょ?」

「はっ? べ、別にいいだろ? いろいろ事情があるんだよ」

「はっ? マジで最悪」

 そういうと三咲は自分の席にそそくさと戻ってしまった。

「まさかこんなんで勃ったの?」

 周りには聞こえないように小声で聞いた。

「仕方ねーだろ? 朝、寝坊してする暇なかったからさ」

「するって……えっ? 毎日してんの?」

「まーな」

「まーなじゃないよ」

 軽く頭をコントのツッコミのように叩いた。

「仕方ねーだろ? 相手がいねーんだから。ひとりでするしかねーんだよ」

「いや、そーゆーことじゃなくて」

 たわいもない朝の会話をしていたら、突然、マンモスの襲来だ! と言いたくなるくらいの地響きが教室内に伝わってきた。廊下からこちらへと着実に近づいてくる。担任の矢村先生だ。踏み出す一歩に自分の全体重をかけ、ゆっくりと歩いている。

「マジか、来たな。俺の言いたかったことわかると思うよ」

 そう言うと自分の席に戻っていった。

 ざわついていた教室が一気に静まり返った。体格が良くて強面な顔を前に、誰もが無意識に背筋が伸びる。と言っても、内面は顔に似合わず温厚で、そう滅多なことがないかぎり怒号が響くことはない。

「はい、それではホームルームの前に転校生を紹介したいと思います。中へ入って」

 ドアの方を見て呼びかけた。

 はい。と可愛い声返事をして、ゆっくりとドアを開けて入ってきた。ホイップのようにきめ細やかでマシュマロのような肌。すらりと伸びた脚。緊張しているのか頬が少しピンク色に染まっている。

 

 ブルブルとスマホが振動した。見ると坂戸からメッセージが届いていた。

{最&高

 坂戸はこちらに視線を向け、目で何やら合図をしてきた。さっき言いたかったのは、この子のことだよ、とでも言っているかのようだった。

{最&高

 俺も同じようにメッセージを送った。すっげー可愛い! めちゃくちゃタイプ! あれっ? どこかで会ったことあるような……でも忘れるはずがない。そんな風に少し考えていても思い出せない。

「それじゃ、自己紹介をしてもらおうかな?」

「はい。あおい百彩もあと言います。よろしくお願いします」

「はーい、質問です。葵百彩さんは好きな人はいますか?」

 話題を盛るのが好きな道脇修斗が、初対面にも関わらず、失礼な質問をした。周りのフツフツとお湯が沸騰するのを待っているかのような、そんな熱気をどうしても爆発させたいみたいだ。こんな質問に答える奴なんていないよと思い、葵百彩を見ていると、目が合った。そして、笑顔を向けられ、そのまま見つめた状態で彼女は言った。

「はい、います」

 彼女の視線を追って興味のない数名を残して、クラス全員の視線が俺に向けられた。悪巧みをしていそうな顔の奴、俺何か悪いことでもした? と思いたくなるくらい睨んでくる奴、様々な表情が俺を見ている。ブーイングらやら、あらぬ憶測がとびかった。なんだか恥ずかしいやら、嬉しいやら、複雑な気持ちで下を向いたまま顔をあげられない。

 矢村先生のゴラッ! の一声で静かになったけれど、やれやれとため息を吐いた。

 葵百彩は、俺の左斜め前の窓際の席になった。少しずつ近づいてくる。なぜだかいても立ってもいられない、ハラハラした感情で落ち着いていられない。呼吸を整えようと深呼吸をした。すると、机に置きっぱなしにしていた消しゴムが、転がり落ちてしまった。

 バッドタイミング! 

 俺ってこういうドジするんだよなと、情けなさが込み上げてきた。しかし、それが逆に幸運をもたらした。葵百彩が拾ってくれた。

 グッドタイミング!

 俺の方へ向かってくる。ゆっくりと手を伸ばし、消しゴムを手渡してくれた。

「はい」

「ありがと」

「どういたしまして」

 葵さんはそう言うと、微笑みながら右耳に髪をかけた。

 可愛い、ドストライク! 心臓に恋のキューピットの矢が刺さったように、急上昇に胸が高鳴った。と思っていると、思い出せない何かが、コーラがビンから溢れるかのように、頭の中に湧き上がってきた。

「あっ!」

 んっ? と葵さんが首を傾げる。いちいち仕草がキュンとさせる。

「いや、何でもないよ」

「はーい、ここで売春やめてくださーい」

 道脇がまた、変なことを言い出した。

「いや、何でそーなるんだよ」

「否定するなら証拠くださーい」

 俺のことを言われるのはいいけれど、初登校の葵さんにそんなことを言って、傷ついてしまったらどーするんだよと、怒りが込み上げてくる。

「道脇、そういう言い方したら葵さんが……」

 そうだよ、かわいそうだよなど、クラスのほとんどが道脇に対して、文句を口にしていた。そこに、咳払いが教室に響いた。

「道脇くん、あとで職員室……来たい?」

 温和な言い方の中に、鋭く尖った棘のようなものを感じた。自分に言われていたら、意識が一瞬、夢の世界に飛んでいってしまいそうだ。

「みなさま、どうもすいやせんでした!」

「まあ、よろしい。それと、学級委員は時間があるときにでも校内を案内してあげてください」

しばらくしてチャイムが鳴り、ホームルームが終了すると授業が始まった。


 昼の休憩時間、ごはんを食べ終わったころ、葵百彩を中心に十数名が輪になり話をしていた。その中に坂戸と三咲もいた。俺は遠目にその光景を眺めていた。別に立ってるわけじゃないし、隠れてるわけでもないから立ち聞きしているとは言わないはず。近いから、ただ会話が勝手に耳に入ってくるだけだ。

「髪の色薄いよね? 染めてるの? 目もなんだか青っぽいし。カラコン?」

「違うの。もともと色素が薄くて。髪は少しグレーになっちゃうし、目も外国の人みたいに青っぽくなっちゃうんだって」

「そーゆー人いるよね? いいなぁ、羨ましい」

 へぇー、そうなんだ。自然体でそれなんだ、尚更惚れる。本当に勝手に会話が聞こえてしまう。聴こうなんてこれっぽちも思っていないのに……

「ねぇねぇ、みんな聴きたがってるから聞いていい? ホントに絽薫のことが好きなの? 初めて会うんだよね?」

「えっ? わたしそんなこと言った?」

「えっ? 言ってない。けど、絽薫の方見てたよね? 好きな人いますって」

「そう? たまたまかな?」

 なんだよ? 何もしていないのに、まだ、出会ったばかりでこれから関係を気づいていこうと思っているのに、その前に振られるって、オワタ。聞かなきゃよかった、こんな会話。現実って残酷だ。ただ椅子に座り、葵さんの会話を聞いているだけだというのに、心は季節外れの台風でも発生したかのように乱れまくっている。外のシトシトと降る雨は、まるでかわいい子どもの悪戯のように思えてしまう。

「そっか、そっか。なぁ笹井、お前の勘違いだったみたいだな」

 坂戸はわざと大きな声で俺に喋りかけてきた。俺は顔を机にペタリとくっつけて寝たふりをした。ゆっくりと軽やかなステップのように、少しずつこちらへと足音が近づいきた。どうせ、坂戸が冷やかしに来たのだろうと思い、その前に何か言ってやろうと椅子を倒し、勢いよく立ち上がった。

「俺は別に……」

近づけた顔の真ん前は坂戸ではなく、葵さんだった。一瞬、時が止まったかのように思えた。顔が熱くなり、心臓の音がバクバクと教室の中に響き渡っているように感じた。室内放送用のスピーカーから、大音量で漏れ出している感覚だ。

 どうしようと何もできずにいると、葵さんが、その小さな掌を俺の額に当てた。

「大丈夫? 熱っぽいよ」

 俺が噴火しそうだ! もはや、顔だけじゃなく全身が熱くなった。周りも見えなくて、葵百彩しか目に入らなかった。俺は何を思ったのか彼女の手を両手で握り、言った。

「俺は、まだこれからだと思ってるから。もっと俺のこと知ってもらってから、好きか嫌いか判断してよ」

「……そうだね」

 困った様子も見せず、笑顔で答えてくれた。

 全身の力が抜けた、と同時に周りの声が聞こえてきた。

「公開告白! よっ! さすが元サッカー部! からの演劇部のエース!」

 こんな台詞を吐くのはこいつしかいない。俺を演劇部に誘った、福居昇流。

「福居、いつの間に笹井がエースになったんだよ。大根役者って言ってたろ?」

「いや、これだけの、いやいや、これだけの名台詞吐けるのならば! 大根なんてとんでもございません! ベベン」

「ベベンって口で言うのかよ」

 クラス全体が沸いた。

 たぶん、歌舞伎をイメージしたのだろう、大袈裟な立ち振る舞いと言い回し、俺をディスっているのは間違いない。でも、こんなバカなことされても、今言ったことが本当なのか、夢だったのか自分でもよくわからないくらい混乱している。

「もう、手、離していいんじゃないの?」

 三咲が呆れたように言った。この状況に託けて、手を握り締めたままでいたことがわかっていたのか、少し気まづかった。

「ごめん」

「ううん」

 やっぱり、笑顔が可愛い。

 今、聞いていいものか、人がいないところで聞くべきなのか、少し迷ったけれど、どうしても葵さんを前にすると、気になる気持ちが抑えられなくなり、自然と耳元で声を出していた。

「この前の、花陽公園のとこにいたのって葵さんだよね?」

「うん、内緒」

 同じように耳元でささやかれた。

「えっ?」



「では、今から六人ずつのグループになって、この竹取物語を現代語訳してもらいます。さー、向かい合うように机をつけてー」

 苦手なんだよなーと思いつつ、机を六人で合わせる。いつものように何も考えず、机を動かした。

 ……眩しい、右斜め前がいつも見る景色とはまるで違っていた。

「きょ、きょうかしょどうぞ」

 真面まおもて甚太しんたが、隣にきた葵さんに教科書を広げて見せていた。

「ありがとう」

 何気ない笑顔も可愛すぎる。羨ましい、俺が隣ならもっと笑顔を返せていたのに。

 二〇分ほど過ぎて、このグループは真面と葵さんのおかげで、現代語訳がほとんどできた。

「心ただしれにしれて、まもりあへり。僕も調べないとわかりにくいところを、葵さんは頭もいいんだね」

「そーかな? ありがと」

「そーだよ。僕なら、まもりあへりは(顔を見合わせていた)くらいにしか訳せないのに、(人々は天人を見つめていた)この訳はストーリーをちゃんと理解していないとできないと思う」

「ありがと、褒めてくれて。ふふふっ、嬉しい」

 少しはにかんだ笑顔を真面に向けている。なんか、楽しそうでつまんない。やっぱり、たまたまだったんだ……手なんか握ってとんだ勘違い野郎じゃん。

 今は授業中だとわかっていても、タイプの女子が他の男子と、しかも、女子の影なんてないような男子に楽しくされていたら、面白くない。

 背中を突かれた。後ろを振り向くと福居が椅子をこちらへ近づけてニヤけていた。

「どーしたんだよ?」

 先生にわからないように小声で話した。

「焦んなって、やきもちが背中からダダ漏れだぞ」

「やきもち……」

 福居に冗談言うなよと言いたかったけれど、先生が来てしまったから言えなかった。

 クラスのみんなが古文の現代語訳に悪戦苦闘している中に、俺は恋に悪戦苦闘していた。

 やきもちってこういうことなのか? と初めての感情に気づいて、なんだか笑えてきてしまった。周りにこの可笑しさを気づかれないようにと、笑いを堪えようと必死だった。

「どーしたの? 苦しそうだよ」

 葵さんに顔を覗くように見つめられた。そんな可愛い顔で見られたら、堪えようとしていた糸が切れてしまうに決まっている。

 嬉しさで顔がニヤけると共に、笑いが止まらなくなった。

「笹井くん、どーしたの?」

 さすがに先生も、いきなり笑い出した俺に対して声をかけないわけにはいかない。

「あっ、すいません。ちょっと面白かったんで……、福居のういろう売りが」

 咄嗟に思いついた嘘だった。

「福居くん?」

 先生が福居に尋ねると、福居は演劇部の滑舌などの練習でやっているういろう売りという台詞を喋り始めた。

「拙者親方と申すは、お立ち会いのうちに……」

 福居の真顔に、クラスみんなが大笑いしていた。先生も福居の顔面芸に笑うしかなかった。

 もちろん、授業終了後、先生に怒られた。

 福居には謝った。誤魔化そうとして着いた嘘のせいで、ふたりとも先生に怒られてしまった。けれど、福居はけろりとしていた。演劇部の練習の成果を出せたじゃないかと、誰よりも目立ってたじゃないかと。ポジティブでよかったと胸を撫で下ろした。

 

 ダルい梅雨の時期、新しい風が心を抜けていく。キラキラとした毎日に期待を膨らませ、夏を待つばかりだ。

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