ずっとこうしていたかった、あの夏のキスのように。

帆希和華

序章

もうひとつの

「ただいまー」

 テニス部の練習を終えて帰ってきた笹井磨都ささいまとは、靴を揃えて脱ぎ、上がり框までの多少の距離を、思いっ切り脚を伸ばして越えていく。揃えた靴が少しズレたくらい、何も気にしない。身長が低いから仕方がない。いつもそう言い聞かせている。

 母親のパートが遅番のため、家には誰もいない。手洗いうがいをして、祖父母の仏壇にただいまと手を合わせる。お供物の饅頭を手に取り、誰もいないとわかっていても、左右を見てひとりということを確認する。悪巧みをするかのように、右の口角が上がりニヤける。ビニールを破り、一口で頬張る。運動後のあんこは格別だ。疲れた体に一気に糖分が駆け回り、一瞬にして疲れが吹き飛んでしまう。減りすぎた腹も、これで夕飯まではなんとか持つはずだ。

 満タンになっている除湿器の水を捨て、カーテンを閉める。

 一時間、二時間は経っただろうか、誰も帰ってこない、兄も母親も、父親まで。おかしいなとは思いつつも、なすすべはないと、とりあえず風呂を洗ったり、飲み干した麦茶を作り直したり、磨都は自分なりにできることをしてみた。バラエティを見ようと、ソファーに座ろうとしたとき、スマホが鳴った。見ると母親からの電話だった。

「えっ? 嘘だよね?」

 聞きたくもないことを言われた。数秒、何も考えられなくなるくらい、頭が真っ白になった。

「聞いてる? わかった? わかるよね?」

「……わかった。すぐ行く」


 一日、二日が過ぎ、平日だから当たり前の中学生をしなくてはならない。こんな心情で何ができるのか、教えてほしいくらいだ。授業を聞いている振り、見ている振り、お待ちかねだった給食も、味なんて感じられない。テニス部も休んで、一目散に家に帰る。

 玄関は開けっぱなし、靴は脱ぎ捨て、手洗いうがいなんてものは、病院でやればいい。一秒でも早く、兄のそばにいたいから。

 家を出ると、雨が降り出していた。今日は一日晴れるでしょうと、朝の天気予報を思い出す。クソ天気! と空を睨みつける。

 駅は中学校とは方向が違う、それに駅までの道を通るのも気後れする。


「あっ、こんにちは」

「こんにちは、私はそろそろ帰るね。また来ます」

 そういうと、兄と同じ高校の制服を着た女子高生が、座っていた椅子をどうぞと差し出してくれた。

「どうも」

 病室のドアを開けて出て行こうとするとき、声をかけた。

「あの、兄ちゃんの彼女ですか?」

「うん、そーだね。……また来ます」

 優しく微笑んで、ドアを閉めた。

 とても綺麗で、ハーフなのかと思える顔立ち、兄にこんな彼女がいるだなんて知らなかったと、磨都は少し、ムカついた。何でも話してくれると思っていたから。

 ベッドに横になる兄を見る。ただ、眠っているようにしか見えない。今にでもムクッと起き上がりそうなのに。




 何日経ったのだろうか、数えるのも嫌になる。とりあえず、部活を休んでばかりはいられないため、出席だけはしている。

「まーと」

「みーこ」

 下校中、通学路で同級生に話しかけられた。

「大丈夫?」

 顔を覗き込むように、聞いてきた。顔ちかっ! と、いつもなら生唾を飲み込んで、ニヤけてしまいそうなところ、今の磨都はそんな気分ではなさそうだ。けれど、もちろん、嫌なわけがない。どちらかというと、いやむしろ、確実に最&高だ。

 素直に嬉しい! と表情に出したいのに、そうできない事情がある。

「うん、俺はね。でも、兄ちゃんがまだ起きなくて……」

「帰りにごめん、こんな話」

「えっ? なんで? みーこは、みーこにはありがとうだよ、いっつも」

「そんなことないよ。うちなんて」

 最近は、元気のない磨都を、みーこが励ましてくれたり、そばにいてくれたり、心配してくれる。その気持ちに感謝とほんのり恋の香りを漂わせる。逃げたくなる日々に、少しの癒しになっている。




「おはよー、磨都先行くぞー」

「うん、兄ちゃんいってらー」

「磨都ものんびりしてないでさっさと食べな」

「へいへい、母上様」

 玄関のドア越しに兄のいってきまーすが聞こえる。いつもと何も変わらない日常が流れていく。

 

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