怒れるアフロディーテの夢


ルナは夢を見た。


白く光る原っぱで、

まだこどもだったルナは、

女神に出逢ったのだ。

美しい、

大人の女性。

最初、

お母さんなのだと、

ルナは思った。


複雑な流れを映す、

美しい、

栗色の髪。

水を湛えたような白さの、

潤いを含んだ柔らかな肌。

お母さん、

なのだと思った。


でも、

違っていた。

お母さんじゃなかった。

女神のようだと思うほどの、

その美しい女性は、

本当に、

本当に女神だったのだ。

母なる存在、

愛と美の女神、

アフロディーテ、——


たくさん、

たくさん話したいことが、

あったのだ。

悲しいこと、

切ないこと、

怖かったこと、

許せなかったこと、

でも必死で、

必死で護ったもののこと、——


いろいろあったはずなのに、

考えるとすぐに霧がかかって、

あたまの中に靄が立ち籠めて、

何も分からなくなってしまう。

何も見えなくなってしまう。


何か大事なことを、

ぼくは忘れている。

差し迫った何かを、

ぼくは今思い出せない。


もどかしさに、

ぼくは泣きそうになる。


でも、

女神さまは、

そんなぼくに歩み寄ると、

少しだけ屈んで、

ぼくに、

視線の高さを合わせてくれる。

まだこどものぼくに、

合わせてくれる。

泣きそうだったぼくは、

今度は何だか恥ずかしくなって、

少しだけ、

少しだけ後退ってしまう。


女神さまの姿は、

自らの美しさに光り輝いて、

その姿をはっきりと見ることは、

できない。


彼女が、

白く光る頬で、

微笑んだような気がした。

ぼくは、

うれしくて、

何だかもったいない気持ちで、

少しだけ、

少しだけ泣いてしまう。


彼女は、

微笑みながら、

ぼくに何かを、渡そうとした。

それを見てぼくは、

ぼくは、……


ぼくは凍りついてしまう。


それは、

彼女の青く光るほどに白い、

その嫋やかな手に握られていたのは、

サーベルだった。


鉄色の、

錆にザラつく質感の、

武骨な刃物、——


彼女は、

刃を下に、

柄を上に向け、

十字に交差した鍔元を、

右手で鉤十字にガッチリと握り、

それを、

そのサーベルを、

ぼくに向かって差し出す。


「やだっ!」


ぼくは火傷したように手を、

咄嗟に引っ込めて、

後退る。


鉈のような形状の、

その分厚い地鉄には、

嫌なものが、

いっぱいに詰まってる。

血をたくさん吸って、

重たく錆びたその鉄製の凶器には、

怖ろしい何かが、

過酷で、残忍な何かが、

ぎゅうぎゅうに、

その重さの分だけ詰まってる。


「やだっ!」


運命が、詰まってる。

過酷で、

非情で、

恐怖に支配された、

耐えがたい運命が詰まってる。


見る間に、

サーベルが赤く錆びてゆく。

血を、

人の血を吸い過ぎたんだ。

しかし刃の部分だけは、

ヤケに生々しく、

光を反射して滑らかに艶めく。


黒く変色した革巻きの柄が、

ぼくの胸許に押し付けられる。


「やめてっ!」


女神の相貌は今は輝きを失い、

ブロンズのように黒く沈み、

そして肌はひび割れ、

廃墟に放置された石像のようだ。


「やだっ、やだやだやだっ!」


祭壇に佇む、

ブロンズの女神像は、

眼から、

血の涙を流していた。


静かに、

真っ黒く、

血を流していた。


真っ黒に、

血を流せば流すほどに、

ぼくの瞳が、

赤く染まってゆく。

血が流れ込んだみたいに、

瞳が、

赤く渦を巻いて、

真っ赤に、真紅に、染まる。


血の、

赤さだ。

血の色だ。

ぼくが、

見たものの色だ。

ぼくは、……


ぼくは何を見た?


「やだぁ、……」


女神像は、

まだ黒い涙を流し続ける。

押し付けられるままに、

ぼくはサーベルを受け取る。

押し付けられるままに、

ぼくは、運命を受け入れる。


重たい、

鉄製のサーベル。

血のにおい、

そして、錆びにザラつく感触。


でもぼくは、

嫌で嫌でたまらないその運命という名の殺人用の凶器を、泣きながら胸に抱き続けるしかないのだ。


「宿命だ」


どこからか、声がする。ひっく、うぐっ、うええぇ、——ぼくは、ただ泣くしかない。


「祖国を、護るのだ」


女神は、もういない。


ぼくは、

片手で刃を上にして、

サーベルを握った。

なぜか、

刃の部分から血が流れて来て、

たくさん流れて来て、

革巻きの柄を握る手を、

べっとりと、黒く汚した。


ぼくはそれをただ、

見ていることしか出来ない。

感情を殺して、

見ていることしか出来ない。


しかしやがて耐え切れなくなって、

喉の奥から、

悲鳴が迫り上がって来る。


**


暗闇で、

目を覚ました。

横になっていた。


手を見る。

夢だった。

血は、付いていない。

ほっとした。

しかし、

それは一瞬のことだった。


だって、

暫定統一歴:一五九七年一月、

今自分は、

酷い悪夢の真っ只中にいる。

目を覚ましたこちら側こそが、

正に、

悪夢の世界なのに違いない。


故郷だったはずの場所で繰り広げられる、血みどろのゲリラ戦。塹壕に走り込み、サーベルを縦横に振るう。或いは未明の基地に忍び込み、逃げ惑う敵兵を斬りまくる。


夢に見た女神の前に立つ自分は、

あれは十三歳の頃の自分だろうか?

まだ、戦うのが怖かった。

そして今は十七歳、

ぼくは、

ぼくは、……


リプロスを護るために、

サーベルを託された、と思いたい。

でも、

神様は、

ぼくのことなんか嫌いだと思う。


だって、ぼくは、……


、——










































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