第4章

絶望の果て

 佑梨は夜の山林の中をしばらく彷徨ったが、数時間経った頃にようやく脱出することができた。体はくたくたで足が棒のようになっていた。


 アパートまで辿り着くと、春香が持っていた家の鍵を使って玄関扉を開けた。部屋の中も暗い。春香は待ってくれていない。とりあえず照明を点ける。


「ただいま」


 誰もいない空間に向かって独り寂しく呟いた。


「ちゃんと帰って来てねって春香が言ってくれたのに、私だけ帰って来ちゃったな……」


 春香はもうこの家に帰って来ない。いや、一応帰って来てはいた。佑梨の手の中で、死紙の姿となって。


 何もする気が起きず、靴とコートだけ脱ぎ、そのまま春香のベッドの上に倒れた。一人でゆったりと横になるのは久しぶりのように思えた。春香と一緒に寝るか、狭いソファーで寝るかのどちらかだったから。一人用のベッドなのにとても広く感じた。それから彼女のことをまた思い出し、ぽろぽろと涙を零しながら眠りの中に落ちていった。春香の死紙を胸に抱いたまま。



 翌朝佑梨を目覚めさせたのは空腹であった。昨日の夜は何も食べないまま寝てしまっていた。どんな悲しくても、どんなに絶望的な気分であっても、腹は減るものだ。


 台所にあったバターロールを二つ食べ、牛乳を一杯飲んだ。歯を磨こうと思って洗面所に立つと酷い顔だった。鏡に映る自分は虚ろな目をしている。そういえば昨日はお風呂すら入っていない。歯を磨いたあとシャワーを浴び、部屋着に着替えるとほんの少しだけすっきりとした気持ちになれた。


 だがそのあとは何もせず、ベッドの上で横になっているだけであった。神様のクイズについて考えることもやめた。ゲームの期限は残り三日。でもそんなことはもうどうでも良い。なぜ人が手紙になるかなんて知ったこっちゃない。相談できる相手も誰もいない。


 元の世界も終わったままになるが仕方があるまい。元の世界に帰ったところで幸せになれるわけでもない。恋人には振られたし、仕事だって面白くない。


 昼飯の時間になるとまた起き上がり、シーフード味のカップラーメンを作って食べた。テレビのニュース番組を見てみると、この世界の自分の自殺に関するニュースが流れた。音信不通になったと家族から通報を受けた警察が自宅に入ると、クローゼット内で首を吊った痕跡があった。しかし死紙は発見されず、何者かに持ち去られたとして調査を続けている。


 佳代のニュースが流れたときと比べると驚きは薄かった。むしろニュースになるのが遅かったなと思ったくらいだ。この死紙は親のもとに返してもらうよう神様に頼んでおいたが、まだ返してあげていないみたいだ。


 だがこれでいよいよ本当に人前に出ることができなくなった。買い物ですら控えておいた方がいいだろう。佑梨はとりあえずこの家に水や食糧がどのくらいあるのか確認しておくことにした。冷蔵庫や台所周辺にある食べ物の他に、災害時用の非常食も少し備えられている。数日は人に会うことなく生活ができそうだ。佑梨は春香に感謝した。


 それから何もない日々が始まった。食事以外には、虚ろな目で天井を眺めたり、少し眠ったり、たまに春香のことを思い出して泣いたりするだけであった。彼女は長年の親友ではないし、一番の仲良しだったわけでもない。なのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。テーブルの上に煙草の箱が置いてあるが、煙草を吸いたいとも思わなくなった。あらゆる願望が失せてしまっていた。この不思議な世界で今日も独りぼっちだ。今日だけでなく、明日も明後日も、その先もずっと。


 こんな調子のまま神様のゲームの最終日を迎えた。回答の期限は今日の正午だ。さすがに今後のことを少し考える気にはなった。


 結局、クイズの答えは分からない。森に行けば神様は迎えに来てくれるかもしれないが、差し出せるものは何もない。行ったところで意味はない。ゲームオーバーだ。


 結論としては、佑梨は何もしないことにした。アイディアも気力も残されていなかった。相変わらず春香のベッドに横たわっている。この部屋の中で、後悔に苛まれながらゆっくりと朽ち果てていくのかもしれない。


 佑梨はこの三日間、幾度となく考え続けていた。


 春香は死んだ。私のせいで死んだ。右京も死んだ。というより、私が殺してしまった。

 元の世界に帰る方法は分からない。この世界で生きていくことも難しい。私を必要としている人だって存在しない。

 なんかもう、終わってんな、私――。


 ふとクローゼットが佑梨の視界に入る。クローゼットのハンガーパイプで首を吊って死んだ、この世界の自分のことを思い出した。


 私ももう死のうかな――。


 遊びに出掛けるくらいの軽い気持ちで、佑梨はそんなことを考えてしまった。この世界でずっと生活できるとも思えない。それにこの世界では、死紙の持ち去りは死刑。生きる意志の有無にかかわらず、本来は死ぬべき人間なのだ。首を切られ、その身を医学の発展のために捧げるべき存在なのだ。


 ベッドから起き上がり台所まで行く。シンクの下側の扉を開け、扉の裏面の収納から包丁を取り出す。銀色に輝く刃をしばらく眺めてから、手首に当ててみた。ため息が出てしまう。痛そうだから何もせずに包丁は仕舞った。


 その日はテレビを見たりぼんやりと寝転がったりして過ごし、気が付けば夕方になっていた。赤く燃えるような夕陽が海沿いの町の向こう側に沈んでいく。佑梨にはそれが、消えゆく命の灯のように見えた。そして今度は、この世界の自分と同じようにクローゼットで首を吊ってみることにした。


 春香の家の中を探してみると、何に使っていたのか知らないが綿のロープを数メートル分見つけることができた。それを適当な長さに切り、輪の形を作って、クローゼットのハンガーパイプに吊るしてみる。なかなか悪くないと思った。ブランコのように足を前方に伸ばして、体の力を抜けば首を絞めることができる。


 春香の死紙を持ってクローゼットの中に入り、足元に置く。開かれた扉側の方を向き、ロープの輪を首に通す。そのまますぐには首を吊らず、クローゼットの中で立ち尽くした。


 自殺する前に、佑梨は神様のことを思い出した。


 神様はいつものようにあの地下施設の暗い部屋で座り、私が今首を吊ろうとしているのを感知しているのだろうか。あれは世界そのもの。あれに心などない。だから私の死を悲しんだりはしない。春香のことも、きっと――。


 佑梨は下を向き、春香の死紙を見つめた。それは爪先の前に置いてある。自殺したあと、もし死紙になったら、春香の死紙の上に落ちて寄り添うことができるように。


 春香、ごめんな。

 せっかく春香に助けてもらった命だったけど、私も今そっちに行く。

 今度こそ、花畑の見える家でずっと一緒に暮らそう。

 私たちの再会すべき場所が、天国なのか地獄なのかは分からないけれど。

 できることなら、私も死紙になりたい。

 死紙になって、春香に噓偽りのない謝罪の気持ちを真実の言葉として伝えたかった。

 それができたら、春香の心を少しばかりは救うことができたかもしれないのに。


 ああ、そうか。


 こういうことだったのか。

 分かっちゃったかもしれない。

 人はなぜ死んだら手紙になるのか。

 それは、誰かに伝えたい本当の想いがあるから。

 この世界の私も、もう愛がないのだろうと右京に言われた。

 だから自殺して死紙になることで、本当に愛しているということを伝えようとしたのだ。

 死紙になれない私が、死の覚悟と引き替えに至った答え。

 神様の求めていた答えとは違うかもしれないけれど、これが私にとっての真実――。


 だがもう遅い。クイズの回答期限は過ぎてしまっている。佑梨もそれは理解している。


 不思議と悔しさはなかった。佑梨の心は夜明けの湖のように静謐で清々しい。瞼を閉じ、時間をかけて深呼吸をする。


 そしてロープの輪を首に引っ掛けたまま、ゆっくりと体の力を抜こうとした。


 そのときだった。


 鍵を閉めているはずの玄関扉が、大きな音を立てて弾かれるように勢い良く開いた。佑梨はそれこそ心臓が止まりそうなくらいに驚いた。


 玄関に、片足を高く上げている黒シャツの男がいる。佑梨はそれをクローゼットの中から目撃し、目を見開いた。


 神様だ。神様が力任せに扉を蹴飛ばしたのだ。


「神様……あの山からここまで来たのか……?」


「今度は間に合った」


 神様は小さな声で独り言のようにぽつりと呟く。佑梨は軽くパニックになりながらも、必死で何かを言おうとした。


「お、女の部屋なんだから、せめてノックぐらいしろよ」


「うるさい黙れ」


 神様は冷たく言い放ち、土足のまま玄関から上がった。大きな足音を立てながらこちらへ向かって来る。


 やがて佑梨の目の前で立ち止まり、両手で彼女の首に掛かっているロープに触れた。そして、先ほどまでの乱暴な振る舞いがまるで嘘であったかのように、ゆっくりと繊細な動きでロープを上げ、首から外した。


 佑梨は呆然としていた。彼女の知っている神様とは思えないほどの優しさを感じてしまったから。


「やっぱり、見てたんじゃん」


 やっとの想いでそれだけ言うと、腰が抜けて床に座り込んでしまった。神様は何も言わずに佑梨を見下ろしている。


 佑梨は俯きながら神様の脚に軽く頭をぶつけてやり、呟くように言った。


「遅いんだよ、バカ……」


 その瞳には、神様の黒い革靴と春香の死紙が一緒に滲んで映っていた。

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