世界のはじめかた

 佑梨は神様に靴を脱げと注意し、ソファーに座らせ、洗面所に行った。鏡を見てみると酷い顔をしていた。目の下はくぼみ、髪の毛はボサボサだ。とりあえず顔を洗い、櫛で髪を梳かすと少しはマシになったような気がした。気がしただけだが。服は部屋着のままだが、そこはもう気にしないことにした。


 リビングに戻ると神様は、腕を組み、足を組み、偉そうな格好でソファーに鎮座していた。佑梨は突っ立ったまま声をかける。


「どうして私の自殺を止めに来たんだ?」


「死紙にならないお前の死体が、この世界の人間に発見されるのはまずい。世界の理に反することだからな」


 やはり佑梨がこの世界で死んでも死紙にはなれないようだ。


「運営的な理由でしたか……」


「当たり前だ。なぜだと思っていたんだ」


「うーん……私の美貌に惚れて思わず助けに来ちゃった、とか?」


「ふむ。お前風に言わせてもらえば……『マジないわ』と言ったところか」


 そこまで言わなくてもいいじゃないかと思ったが、神様は追い打ちをかける。


「客が来たというのに、茶の一つも出さんのか」


 横柄すぎて思わず苦笑いしてしまう。それに、普通に人間の飲み物を口にすることも意外だと思った。世界が人の形となって現れている存在がそんなことをする必要があるのだろうか。


 佑梨はコーヒーを淹れ、神様の前にマグカップをお供えした。それから自分も隣に座った。神様はコーヒーを一口飲み、また話し出した。


「そういえば、この世界のお前の死紙は親のところへ返しておいたぞ」


「……どうやって?」


「封筒に入れて、普通郵便としてポストに投函しただけだが」


「え? 死紙を普通に郵送したのか?」


「そもそも手紙というのは送るためにあるものだろう」


 その発言を聞いて、佑梨は数秒固まってしまった。


「は? まさか今のがクイズの答えなの?」


 人はどうして死んだら手紙になるのか。


「んなわけあるか」


 ほっと胸を撫で下ろした。ともかく、このことはまたニュースになってしまうだろう。どうやって親の住所を調べたのか気になるところではあるが、今はそんなことよりも話さなければならないことが沢山ある。


「知っていると思うけど、春香はもう死んだ。私が右京に撃たれそうになったときに私を庇って」


 佑梨は春香の死紙を神様のマグカップの隣に置いた。神様は死紙に手を触れず、文面だけを目で追った。


「これはどういう意味だ?」


「私、春香のことを疑っちゃったんだ。宮代佳代がもし自殺じゃなかったら、春香にしか殺せなかったって」


「なるほど。確かにお前から見ればそういう風にも見えたかもしれんな」


 神様はそれ以上何も言わず、会話が途切れた。黙って何かを考えているようにも見える。コーヒーを飲んだり考えごとをしたりするなんて、まるでただの人間のようだ。


 他のことを話そうかと思ったところで、神様が再び口を開いた。


「お前が危険な目に遭い、春香が死ぬことになった責任は俺にもある。悪かった」


 神様が素直に謝るのを初めて見た気がした。


「右京は……何者だったんだ?」


「基本的には酔狂な学者だ。しかし、あとから分かったことだが、ヤクザとの関わりがあったようだ。あの地下施設の権利を手に入れたのにも違法な手段を使ったのかもしれん。お前らが撃ち合ったあの日は、お前と会う直前に拳銃を調達していた」


 それで佑梨を殺し、死紙にならない脳を調べようとしていたわけだ。佑梨がどんな人物であっても確実に殺せる武器を用意したということだろう。


「少なくとも俺と知り合ってからは、右京が人に危害を加えたことはなかった。俺の傍に置くだけなら問題なかったが、お前らと関わらせるべきではなかったな」


「分かった……もういいよ」


 神様のことを責める気はない。いや、責める資格などないのだ。春香が死んだのは、どれだけ言い訳を並べても結局自分の責任なのだから。


「詫びと言っては難だが、特別にクイズの第二回戦をやってやる。お前にこんなところで野垂死なれると困るからな」


「第二回戦?」


「前回のクイズの方は制限時間を過ぎて失格だ」


「ああ」


 正直なところ、もう忘れかけていた。元の世界に帰るための大事なことなのに。


「今度は選択問題にしてやる。それなら簡単だろう」


「まあ、助かるけど……」


 至れり尽くせりだ。この神様にしては親切すぎて逆に不安になってくる。


「一応訊いてやるが、一問目の答えは分かったのか?」


 佑梨は思わず顔を背けた。首を吊る前に考えていたことを今神様に打ち明けるのは気恥ずかしい。死紙になって想いを伝えたいだなんて。それに、佑梨は死紙にならないともう明らかにされてしまっている。


「答えは……分からなかった」


「ふむ。まあいい。二問目を出題するには、まず一問目の答えを知ってもらわなければならない」


「正解を教えてくれるの?」


 ようやく人が死紙になる理由が分かるのか。佑梨は身構えた。


「ああ。だがそれを理解してもらうために、少し昔話に付き合ってくれないか」


「昔話?」


「俺がこの世界を創ったときの話だ。それをお前に聞いてほしい」


 いつもは淡々と喋る神様の口調が、一瞬だけ柔らかくなったような気がした。まるで親が子供に大切な思い出話を聞かせてあげようとしているかのように。


 世界を創ったときの話って一体何だろう。佑梨は未知への好奇心に胸を高鳴らせ、こくこくと頷いた。絵本を読んでもらうときの幼子みたいだ。


「うん、聞くよ」


 神様は何も言わずに頷いた。そして、静かに語り始めた。


「この世界は元々、言葉しか存在しない世界だった。言葉以外には何もないが、言葉だけは無数にあった」


 神様の話の導入は、本当におとぎ話のようであった。だが佑梨は驚くこともなく、その不思議な世界の様子を思い浮かべようとした。


「言葉のみによって成り立つ世界……?」


「ああ。だが一つだけ例外が存在した。それが俺だ。俺だけが意思と力を持つ存在だった。俺には言葉を実在化させる力があった。海という言葉から海を創り、空という言葉から空を創り、土という言葉から土を創った」


 普通は、少なくとも佑梨の世界では逆だ。まず海が先に存在していて、人類がそれに海という呼び名を付けた。海という言葉だけが先に存在し、そこから海が創られるなんて有り得ない。


「そうやって自然界を構築していくうちに、今度は言葉の方が失われようとしていた。そこで俺は、言葉を恒久的に残す手段を創ることにした。それが人間だ」


 人類が知りえない真実が淡々と語られていく。佑梨はただじっと耳を傾けていた。


「その頃には創造の力をほとんど使い果たしており、これ以上何かを創ることができないのは分かっていた。そういう事情もあり、俺は人間に特殊な機能を付けた」


「それが、死んだら手紙になるということ?」


「ああ。それが今から五千年前のことだ。最初から言語という概念を持つ生物として人間を創り、最初は手紙ではなかったが、言葉が刻まれる物体としてそいつがイメージするものに変化するようにした」


 佑梨の世界ではもっと古い時代に類人猿やら何やらから進化したのが人間だと聞いていたが、その点は大きく異なるようだ。


「そして死紙は朽ち果てないようにもなっていて、神様は失われそうになっていた言葉の方も永久に残すことに成功した、ということ?」


「概ねその通りだが、それだけがクイズの答えではない」


「と、言うと?」


「お前にも分かるように話してやろう。例えば鶏と卵、本来の姿はどちらだと思う?」


 いきなり何の話だろう。佑梨は首を傾げた。


「本来の姿? 鶏が先か卵が先かっていう話?」


「どちらが先なのかは重要じゃない。どちらが本質的な状態なのかってことだ」


「よく分からないけど、それは鶏なんじゃないの」


「ほう。その根拠は?」


「……だって、生き物としての名前が与えられているのは鶏の方だし、図鑑にも鶏の姿で載っている。卵はただ鶏によって産み落とされるだけのもの」


「言いたいことは分かるが、図鑑とは人間が勝手に作ったものだ。お前の言っていることは人間目線の話でしかない」


 神様の話を聞いているうちに、佑梨はますます混乱していく。


「何が言いたいのか、さっぱり分からないんだけど」


「つまりこういうことだ。鶏ではなく、卵の方が本来の姿だとしたら」


「卵の方が? 本来の姿?」


「それならどうなると思う?」


「その場合、鶏が卵を産んでいるのではなく、卵が鶏を産んでいるということになる……」


「そうだ。より正確に言えば、鶏は、卵が増えるための増殖装置ということになる」


「まあ、そうなるのかもしれないけれど、その話は死紙と何の関係が?」


「あとは簡単だ。今の話を、鶏と卵ではなく人間と死紙に置き換えればいい」


 関係を置き換える。鶏は卵を産む。この世界では、人間は死んだら死紙になる。鶏は、卵が増えるための増殖装置。つまり――。


「まさか……」


「そのまさかだ。人間ではなく死紙の方が本質的な姿なんだ。人間が死紙になるのではない。この世界の人間は、死紙が増えるための増殖装置だということだ」


 佑梨は息を吞んだ。神様は佑梨がついて来られるように一呼吸置いてから話を続けた。


「形あるものはいつか滅びる。地球も、太陽も、宇宙すらも。しかし、死紙だけは永遠に朽ち果てずに残り続ける。俺がそういう世界にした。この世界は言葉から始まり、終わるときも死紙に遺された言葉のみで終わる。俺はそれを観測し続ける。それがこの世界の終わり方だ」


 佑梨は、何も存在しない無限の空間に無数の死紙だけが舞い散っている光景を想像してみた。それは恐ろしくも奇妙で、神秘的であると思った。意思を持つ存在は神様だけ。ひたすら死紙を読み耽り、その言葉の背景や人生に想いを馳せる。死紙は生き物にして神様の読み物。まさに神の遊戯。


「死紙は……いや、言葉はなぜ残り続けなくてはならないんだ?」


「それはお前の世界で言うと、なぜ生物は生き続けなくてはならないのかという問いと同じことだ。この世界には元々言葉しかなかったのだからな」


 佑梨は何も言い返せない。生物は、あるいは人間はなぜ生きなければならないのか。その問いの明確な答えなど分からないからだ。

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