幕間
昔話
その者、人と話すときは成瀬宗介と名乗った。見てくれは高校生くらい、いつも無愛想で、人を寄せ付けない冷たい雰囲気を醸し出している。
とある夏の早朝、宗介は浜辺を歩いていた。必要のない限り、人が少ない時間帯にしか外を出歩かない。すると、砂浜に小学校低学年くらいの女の子が膝を抱えて座っているのを見かけた。夜が明けたばかりの頃に、小さい子が一人でいるのも妙なものだ。近づいてみるが女の子は宗介に目もくれず、水平線の彼方をじっと見つめている。髪はボサボサで長く、白いTシャツにショートパンツというさっぱりとした服装だ。怪我でもしたのだろうか、頬にはガーゼが貼られていた。
「おい、お前」
宗介が声をかけると女の子はようやく顔を上げた。
「何?」
いきなり年上の男に話しかけられても女の子は臆することなく返事をした。宗介の態度はとても優しいものではないというのに。
「こんな時間に一人で何をしている」
「朝陽が昇るのを見ていたの」
「一人でか。親には言ってあるのか?」
「親はいない」
「もう死んだのか?」
宗介が無遠慮に問いかけると、女の子は少し考えてから静かな口調で答えた。
「分からない。けど、私は孤児院で暮らしてる」
「そうか」
「うん」
「ところで、どうして朝陽なんか見ているんだ?」
「どうしてって……綺麗だから」
「そうか。あれは綺麗なのか」
宗介も海の方へ目をやった。夜明けの海から太陽が生まれてくるところであった。二人でそれを眺めていると、女の子がまた口を開いた。
「あんな綺麗なもの、どうやって作ったのって訊いたら、孤児院の人は神様が作ったって言ってた」
「ほう」
「でも、神様がいるなんて嘘だよ」
「……どうしてそう思うんだ?」
「神様が本当にいたら、私はいじめられたりしない。神様がみんなのことを幸せにしている」
「そういうものなのか?」
「うん。本当はそれが神様のお仕事だから」
「それなら、結局あの太陽は誰が作ったんだ?」
「……さあ」
女の子は興味がなさそうに答え、立ち上がった。
「もう行くのか」
「うん。そろそろ孤児院の人たちが起きちゃうから」
「そうか」
「うん」
「お前、名前は何て言うんだ?」
「……春香」
「そうか」
「うん」
女の子はこくりと頷いた。そして宗介がこれ以上何も言わないのを確かめると、町のある方角へ去って行った。
宗介はそれからしばらくの期間、夜が明ける時間帯にその海辺を訪れていたが、春香という女の子と再び会うことはなかった。あの日彼女が来たのはたまたまで、別に習慣ではなかったのかもしれない。あるいは彼女に何かが起こって来られなくなったのかもしれない。真相は分からないが、やがて宗介もその海へは行かなくなった。
十年後、春香が自立できるくらいの歳になった頃、まだ孤児院にいることを知った宗介は彼女をそこから出すことにした。この辺りに孤児院は一つしかないので、どの孤児院なのかは知っていた。死紙の取引に手を染めていた宗介は犯罪組織とも付き合いがあり、違法な手段で春香のメールアドレスを入手した。
春香にコンタクトを取るとき、孤児院の関係者であると嘘を吐き、彼女が否定していた神様というコードネームを使った。死紙の運び屋をしてくれれば孤児院から出して一人で生活できるようにしてやるという旨を伝えたところ、春香はあっさり承諾した。全て宗介の指示に従い、退所の手続きをして、賃貸アパートの部屋を借りた。
春香は死紙を運ぶ仕事もそつなくこなし、宗介は春香が生活できる分の報酬をきちんと支払った。二人の関係性は問題なく続いたが、宗介は春香と再会しようとはしなかった。春香の方からも会いたいとは言わなかった。時折、春香から質問されることもあったが全て無視し、宗介から必要な情報だけを伝えるというコミュニケーションしか取っていなかった。それでもこのコンビが解消されることはなかった。
春香との仕事が軌道に乗った頃、宗介は彼女と出会った浜辺へ久しぶりに行ってみた。すると、早朝なのに一人でゴミ拾いをしている少女がいた。小学校高学年くらい、髪は艶やかで長く、水色のワンピースを着ている。夜が明けたばかりの頃に、子供が一人でゴミ拾いをしているのも妙なものだ。
宗介は少女に近づき、声をかけた。
「おい、お前」
少女は何も言わずに宗介の方を振り向く。
「なぜ一人でゴミ拾いなんかしているんだ?」
「……やらないといじめられるから」
それは既にいじめられているということになる。奇しくも春香と出会ったときと同じような状況だ。
「まさかあそこの孤児院で暮らしているのか?」
宗介は春香が暮らしていた孤児院の名前を言った。すると、少女はその施設で暮らしていると言った。
「前は別の子がいじめられていたらしいんだけど、今年私が来る前に出て行っちゃったから、今は私がいじめられているの」
ということは、宗介が春香を孤児院から出したせいで今この子がいじめられているとも言える。まるで悪意そのものが意志を持っていて、孤児院に住み着き獲物を狙っているかのようだ。
「そうだったのか。俺が何とかしてみよう」
「どうにもならないよ」
「職員には相談したのか?」
「うん。でも何も変わらない」
「そうか」
「私を救ってくれるのは……きっと神様だけ」
「神様?」
「うん。早く私のところへ来てくれるように、毎日祈ってる」
春香と違って、どうやら信心深い子供のようだ。
「他の誰にも言わないでほしいのだが、実は俺がその神様なんだ」
「あなたが?」
「ああ」
「嘘よ」
「本当だ」
「私を助けに来てくれたの?」
「悪いが偶然ここに来ただけだ。お前を助けに来たわけではない」
「そうなんだ……」
「過程はどうであれ、お前が祈り続けた結果、俺はお前の前に現れた。まずはそれが重要なんだ」
「あなたは私に何かしてくれるの?」
「お前には特別にこの世界の秘密を教えてやる」
「世界の秘密?」
「どうやってこの世界が生まれたのか、だ。お前はこの世界でただ一人、真実を知る特別な人間となる」
「私が、特別な人間……?」
「ああ。ただの特別な人間ではない。世界で唯一の特別な人間だ」
「本当なら凄いね」
「そうだろう。しかし、一度に全てを話しても理解ができないかもしれない」
「そうなの?」
「世界とは複雑な概念なんだ。少しずつ教えてやるから、お前は毎日ここに来い」
「分かった」
少女は微かに笑った。彼女が最初に見せた笑顔だった。
それから宗介は数日かけて彼女に、人類の知らない世界の秘密や成り立ちにまつわる話を聞かせた。少女からも沢山のことを訊かれた。宗介はあることもないことも瞬時に頭の中で組み立て、即興で話を考える術に長けている。だからどんな質問にも即答することができた。自分はこの世界そのものであるという話や、この世界の物体やその動きを全て感知しているという話もした。
二人が会うのは日の出から海辺に人が現れるまでの僅かな時間であったが、宗介と会う度に彼女は少しずつ自然な笑顔を取り戻していった。宗介はずっと無表情のままだが、それでも彼女は楽しそうだった。
ある日、いつものように二人で浜辺に座っていると、出し抜けに少女が言った。
「世界は無限に存在するの」
「そうなのか」
「信じられる?」
「肯定することも否定することもできない」
「それでね、今まで隠してたけど、私も他の世界から来た神の一人なの」
「それはありえない」
「どうして?」
「この世界を創って以来、この世界の外側から何かが来たという動きは一度も感知していない」
「例えば私が他の世界の神で、精神だけワープしてきてこの体に憑依したのだとしたら? そういう力を持っているのだとしたら? 神様はそれを感知することができる?」
「それはできない。感知できるのは物体の動きだけだ」
「一方で今の話は、変わり者の女の子によるただの言葉遊びかもしれない。噓っぱちなのかもね。つまりあなたは、私が他の世界の神なのかただの人間なのか、それすらも判別することができないんだよ」
「そういうことになるな」
「所詮神様なんて、その程度の存在なの。私はあなたが本物の神様である証拠をまだ見ていない。私たちは私たちの会話の、
「そうだな。あるいはそうなのかもしれない」
二人は少しの間黙った。空と海は静かに煌めき、風と波が二人の代わりに言葉を交わしていた。
やがて少女が口を開いた。
「私……もういじめられなくなったよ。神様、今までありがとう」
「俺ももう全てを話し終えた。お前は世界の真実を知った特別な人間だ。これからは俺がいなくてもやっていけるだろう」
少女が本当にいじめられなくなったのかは分からない。これ以上心配をかけないように嘘を吐いているだけなのかもしれない。
少女は立ち上がった。踵を返そうとしたが、もう一度宗介の方に向き直った。
「ねぇ」
「何だ」
少女は少し気恥ずかしそうに言った。
「もしまた会うことがあったら、次は私と友達になってくれる?」
「……分かった。約束しよう」
少女はにっこりと笑う。そして、今度こそ浜辺から立ち去っていった。
宗介は翌日以降もしばらく浜辺に通ったが、少女と会うことはなかった。誰も来ない海で独り佇み、かつて春香が綺麗だと言っていた朝陽をじっと眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます