天国
右京の部屋から去ると、神様に言われた通り入り口へ向かって歩いた。何度か行き来しているうちに、この施設の構造も部分的にではあるが覚えることができた。長い廊下を歩き、階段を上り、地上階に辿り着く。すると、建物の出口で神様が既に待っていた。腕を組んで壁に寄りかかっている。佑梨は近づいて声をかけた。
「待った?」
「ああ」
そう答えたが、表情がないので機嫌を損ねているのかどうかも分からない。佑梨はとりあえず気にしないことにした。
「悪いな、じゃあ行こうか」
神様は頷くこともなく、黙って施設の外に出た。佑梨は微かに笑いながら、それに続いた。
外はすっかり暗くなっていた。星々が雲の狭間で瞬いている。月は隠れて見えない。前回と同様に懐中電灯を点けて足許を照らす。神様はさっさと歩き出し、森の中を迷うことなく進んで行った。
佑梨は後ろを歩きながら話しかけた。
「神様は今日何してたんだ?」
「さあな」
せっかく話ができる機会なのに会話にならない。だが佑梨は諦めずに話題を変えた。
「あんたが神様だと思って言うけどさ。さすがにこの世界、ちょっと滅茶苦茶すぎない?」
「滅茶苦茶とは?」
「右京から聞いたんだけど、紙が発明される前は人間が石板と粘土になってたんだって? さすがに有り得ないでしょ」
「別に一つくらいこういう世界があってもいいだろう。世界は無限に存在するのだからな」
ようやく話に付き合ってくれたと思ったら、予想以上に壮大なスケールの話が飛び出してきた。
「世界が無限に存在する? どうしてそんなことが分かるんだ?」
「それは神だから、の一言で済ませたいところだが、一応お前らの次元で説明することもできる。宮代佳代のことを思い出してみてくれ」
「あの、私が海辺で会った女の子だよな」
「世界が複数存在したとして、そのうちの二つがほとんど瓜二つの世界に発展し、しかも名前も見た目も同じ人物が同じ場所で同時刻に死ぬなんて偶然、あると思うか?」
「まあ、普通は有り得ないよね」
「だがそれは世界の比較対象が少ししかない場合だ。このサンプル数が無限になった場合、そういう偶然が起こり得る」
「比較対象となる世界が無限に存在する場合、
「そうだ」
神様は突然足を止め、後ろを振り向いた。そして、佑梨の一対の瞳を真っ直ぐに見て言った。
「お前の世界では起こりえない不思議な出来事も、それが起こる世界が必ずどこかに実在する」
そう言われた瞬間、佑梨は息が止まり、目を見開いた。意識の中で世界の数が無限大に拡散したような気がした。今自分と神様は夜の闇の中ではなく、宇宙のような広大な空間に浮かんでいるのではないかと錯覚した。
呆然としている佑梨をよそに神様は続ける。
「お前が想像できることも想像できないことも、全てが無限の世界のどこかで起こっている」
「お、おう……」
ようやく声を発する佑梨。でも相槌を打つのが精一杯だ。神様は踵を返し、再び歩き始めた。
「世界間のリンクについては俺もよく分かっていない。俺はこの世界の神だからな。他の世界のことは知らん」
佑梨は黙って神様の話に耳を傾けている。
「神という存在も、他の世界ではシステムが異なる可能性がある。例えば神の力だけが人から人へ憑依しているのかもしれん」
「私の世界の佳代はそうかもしれないってことか」
宮代佳代は佑梨の世界では神であるのに、この世界では普通の人間だったと聞いた。同じ人物であるはずなのになぜ神だったり人間だったりするのか謎であったが、その仮説なら筋は通ると思った。
「私から訊いておいてアレだけど、これはクイズにヒントになっちゃったりしないの? 神様ってこんな世界の秘密みたいなことを他の人にもぺらぺら喋ってるの?」
「クイズに差し支えはない、とだけ言っておこう。それに俺は、基本的にこの世界の人間に未踏の知識を与えることはない。お前はこの世界の人間ではないから特別に教えてやっているだけだ」
基本的に、ということは例外もあるのだろう。例えば必要に応じて右京に何かを教えるときのように。
「私が他の誰かに話しちゃったら、結局は同じことなんじゃない?」
「それは違う。俺が言えば世界の真理であるが、お前が言えばただの妄言、絵空事だ」
「……内容が同じでも、誰が言ったかによって真実かどうかが変わってしまうということ?」
「そうだ。だから俺はお前だけに話した。この世界の人間ではないから」
「ふぅん……。それは光栄ですわ、我が主よ」
佑梨は冗談交じりに言ったが、神様は何も答えなかった。
やがて森の向こう側に町の灯りが見えてきた。神様は立ち止まり、人間の営みを観察するように景色を眺める。その後ろ姿は、ショーウインドウの中の煌びやかなおもちゃの前に立ち尽くす少年のようにも見えた。
神様と別れる前に他に話しておくべきことがないか思い出そうとする。
「あっ、そうだ」
「まだ何かあるのか」
「この世界の私の死紙だけど……」
佑梨は僅かに表情を曇らせる。
「ああ」
「何のために死紙を集めているのか知らないけど、用が済んだら親のところへ返してあげてほしい」
「前向きに検討しよう」
相手が人間だったら全く信用できない言葉だが、神様なら信じてもいいのだろうか。いずれにせよ信じることしかできないのだが。
「それじゃあ、ありがとう。次はゲームの決着のときに」
佑梨は小さく手を振った。去り際に、神様も小さく頷いたような気がした。
春香のアパートに着いたのは午後八時頃となった。
「ただいまー」
「おかえり」
春香は台所で晩ご飯を作っているところだ。鍋の中のシチューを混ぜている。お腹の虫がオーケストラを結成しそうになっていたので助かった。
春香は佑梨を一瞥して言った。
「どうだったの? 元カレとの逢瀬は?」
「なんか、普通に楽しんでしまった……」
「そう。何か分かった?」
「まあ、色々。あとでゆっくり話すよ」
そう言って洗面所に向かう。手洗いや洗顔を丁寧にしてからリビングに戻ると、春香がテーブルに料理を並べていた。佑梨がソファーに座ったあと春香も隣に座り、二人の夕食が始まった。
佑梨は今日右京と話したことをそのまま春香に伝えた。春香は大したリアクションもせず静かに話を聞いていた。
「結局、手がかりになりそうな情報はなかったんだね」
右京から聞いた話は、やはり春香も既に知っていることだったようだ。
「ああ。あとスマホのアドレスだけ、右京に教えちゃった」
「えっ。まあ、捨てアドだからいいけど……また会うの?」
「本当は、この世界の私のことも話したかったんだ。でも今日は時間がなかったからやめといた」
「あの死紙の人ね」
春香と二人で彼女の自宅まで行き、死紙を回収した。まだ数日前の出来事だが、随分と昔のことのように思えた。
「どうして自殺しちゃったのかは分からない。天国にいる彼女が少しは救われているといいんだけど」
佑梨の語気が弱くなる。すると、春香はなぜか不思議そうな顔をした。
「てんごくって何?」
「え、知らないのか?」
「うん」
もしかしたら、死んでも死紙としてこの世に留まるから、死後の世界という概念がないのだろうか。
「えーと、人間が死んだあとに行くところで、不安や苦しみのない安らかな場所……らしいよ」
「ふーん、そんなのがあるんだ。じゃあ人が死んでも大して問題ないんだね」
「いや、別にそういうわけではないけども」
「どうして? 安らかな場所に行けるんでしょ?」
「うーん、でもやっぱり会えなくなったら寂しいじゃん」
「人は遅かれ早かれいつか死ぬんだから、最終的にはみんな天国で落ち合えるんじゃないの?」
天国と対となる地獄という概念もあるのだが、話が長引きそうな気がしたので伏せておくことにする。
「まあ……そういう可能性もあるな」
「自殺を防ぐ必要もないじゃない。人間をどんどん天国に送り込んだらいいよ。日本人がハワイに行くみたいに」
そう言われると、自殺を止めることと天国の存在を口にすることはなんだか矛盾しているような気がしてきた。
「ごめん、春香。やっぱり天国はない方がいいのかも」
「何なのそれ? あるの? ないの?」
「よく分からない」
春香の考えは、天国というものを知らないが故の純粋な疑問なのだろうか。だが佑梨は、その純粋さを少しだけ薄気味悪く思ってしまった。
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