神の力

 どうして死紙にならないのか、疲れ切った頭で考えようとした。すると、また足音が聞こえてきた。敵が着実に近づいてきている。


 佑梨は混乱しながらも隣の部屋へ移動する。懐中電灯で室内を照らしてみると、棚や木箱が並んでいるのが見えた。棚には薬品の瓶らしきものや、理科の授業で見た覚えがある実験器具が仕舞われている。どうやら物置部屋のような場所らしい。他にドアはなく袋小路の状態だ。この部屋に入って来られたら追い詰められる。


 部屋の中で隠れてやり過ごすか? 否。これまでの行動から考えて、そんな小細工が通用する相手ではないだろう。


 もう戦わなければならないときだと、覚悟を決めた。この部屋に入ってきた瞬間に蹴り飛ばす。ただ不意打ちを決めて逃げるだけじゃない。この状況を打破するためには、敵を打ち倒し、締め上げ、色々なこと聞き出さなければならない。正体不明の人間を相手に、そんなことができるだろうか。佑梨は手足が微かに震えるのを感じた。


 懐中電灯を、ドアを照らせる位置に置く。こちらから見るためだけではなく、入って来た敵の目眩ましにもなる。自身は少し離れた位置に立ち、深呼吸をした。


 すると、敵が隣の部屋に入って来た音が聞こえた。気配や物音を感じ取られたのか、真っ直ぐにここまで来たようだ。


 すぐにこの部屋にも来る。佑梨はそう予感し、構えた。


 来るなら来い、叩きのめしてやる!


 やがて目の前のドアが開かれた。その瞬間、佑梨は恐怖に抗う叫び声と共に助走をつけ、飛び蹴りを放った。


「うおりゃあああっ!」


 その蹴りは正確に相手の胴体に向かって打ち込まれた。が、佑梨は目を見開いた。


 敵はいともたやすく佑梨の足を片手で受け止めていた。左手でドアを開け、右手で佑梨の靴を握り込んでいる。


 素早く蹴りを受け止めたとか、そんなスピードではない。敵はおそらくドアを開ける前に、右手で防御をする構えをしていた。ドアの隙間からそういう風に見えた。こちらの狙いが読まれていたのか。


 足を掴んだ手が素早く上げられ、佑梨の体が逆立ち状態で敵にぶつかる。佑梨は掴まれた足を折り曲げて靴を脱がし、敵の手から脱出する。体勢を立て直して距離を取り、敵の方を振り向いた。


 敵の姿が懐中電灯の光に晒されている。見た目は二十代後半くらいの男。細身で、黒い長袖の襟付きシャツに黒のチノパンツ。黒髪を下ろしており、瞳は大きく、射抜くように鋭い。


 佑梨は荒く呼吸をしながら後ずさる。すると、男は壁にあるスイッチに手を伸ばし、部屋の照明を点けた。地上階では点けられなかったが、地下では電気が使えるらしい。


 男の姿がはっきりと見えるようになった。佑梨は彼に向かって言った。


「あんたが、春香の言っていた神様って奴なのか!?」


「……そうだ」


 男は静かな、しかし重みのある声で答えた。やはりこの男が神様だったのだ。長い追いかけっこだったが、遂に会うことができた。


「もう一人はあんたの仲間か? 春香はどうしたんだ!?」


「春香に危害は加えていない。俺の大切な手足だからな。知り合いに頼んでお前らを分断してもらっただけだ」


 神様は何でもないことのように言ってのけた。


「分断だと? なぜそんなことを……」


「用があるのはお前の方だ」


「わ、私?」


「お前、何者だ? なぜいきなり浜辺から姿が現れたんだ?」


「えっ」


 一瞬、頭が真っ白になった。話が予想していなかった方向へ進もうとしている。


「なんでそのことを知っている? 春香から聞いたのか?」


「違う。俺はこの世に存在する物体や、その動きを全て感知しているからだ」


「なっ……」


 何を言っているんだ、わけが分からない、そんな馬鹿な話があるか、と言い返そうとした。


 が、喉から出る前にその言葉を呑み込んだ。心当たりがあるからだ。春香が死紙をただ埋めるだけで位置を特定できたのも、暗闇の中で灯りもなく走り続けたり、後ろを見ずにこちらとの距離を一定に保ったりできたのも、その力で全て説明がつく。人が手紙に変わってしまうような世界なんだから、そんな超能力者がいたとしても受け入れることはできる。というより、死紙の存在よりはマシだとすら思える。


 しかし、佑梨は念のために確かめることにした。


「どうして、そんなことができるんだ……?」


「それは」


 神様はさっき掴み取った佑梨の靴を彼女に向かって投げた。大きな木箱の上に座って足を組み、尊大な態度で佑梨を見る。


「俺が実際に、この世界の神だからだ」


 とんでもない世迷言をあまりにも堂々と言われたので、佑梨は目が点になった。冗談で言っているのか本気で言っているのか分からない。


「どう見てもただの日本人だけど?」


「神というのは、お前ら人間が最もイメージしやすい表現だから使っている。より正確に言えば、が人の姿となって現れている存在だ。姿は自由に変えることができる」


「ん? 世界そのものが、人の姿でその世界の中を歩き回ってるってこと?」


「お前らの感覚で例えると、小人の分身となって自分の体内を歩いているようなイメージだ」


「馬鹿馬鹿しい。そんな話信じるわけねーだろ」


「なら先ほど言った力を証明してやろう。ポケットの中に手を入れて、好きな形にしてみろ」


 好きな形? グーとかチョキとかそういうことか?


 佑梨は訝しげな顔をしながらも、コートのポケットに手を突っ込んだ。それから、恐る恐るチョキの形を作ってみた。


「チョキ」


 神様は即座に言った。佑梨の鼓動が強く脈打つ。続けて別の形に変えた。


「これは何だ? 何のサインか知らんが、親指と人差し指と小指を立てているな」


 正解だった。佑梨は見えない手に心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを覚えた。わけが分からぬまま、抗うように再び手の形を変える。


「今度は中指を立てたな。下品な女だ」


 これも正解。自分の体と頭の中を隅々まで見られているような恐怖を感じた。


「嘘だ……何かトリックが……」


「トリックなものか。これが神の力の一つだ。この世界のどこであっても、俺は感じ取ることができる。今ちょうど、京東にある病院で赤ん坊が生まれたぞ。アメリカのマイアミビーチでカップルがキスをしている。ほら、エジプトの砂漠で倒れている老人の心臓が止まった」


 世界中の物体の動きを常に感知し続けているとでも言うのだろうか。それは、どれだけ膨大な情報処理能力になるのだろうか。


「そ、そんなのでたらめだ!」


 思わず声が震えた。対して、神様は終始表情を変えずに淡々としている。


「この話はもういいだろう。それよりお前の話を聞かせろ。一体どこからやって来たんだ?」


 地球の裏側で起こったことさえ分かってしまう神様でも、佑梨という存在については分からないらしい。とりあえずこちらを襲う意思はないようなので、佑梨はさっき神様が放り投げた靴を履き直し、息を整えた。


「私は多分、こことは別の世界から来たんだと思う。人が死んでも手紙にならない世界だ」


 佑梨は気持ちを落ち着けて話し始めた。元はと言えば、そのためにわざわざ神様を追跡してここまで来たのだ。元の世界に戻る手がかりを得なければならない。


 神様は口を挟まずにじっと耳を傾けている。


「昨日の早朝、元の世界で海に来た私は女の子と出会った。でも少し話をしたあと、女の子はその場で自殺し、死紙になった。その直後、春香と出会い、色々あって行動を共にすることになったんだ」


「その少女は何者なんだ?」


「知らない子だよ。ちょっと変わってる子だったな」


「死ぬ前に、どんな話をしたんだ?」


「この世界はもうすぐ終わるって言ってた。どうやって終わるのか訊いたら、テレビ画面が消えるみたいにぷつんと終わるって言われた」


「なるほどな。その話をしたあと少女が死に、お前から見たら世界が別物に変わっていたというわけだ」


「世界がいつの間にか切り替わっていたことに、気付かなかった。私にはが見えなかった」


 神様は少しの間黙り込み、佑梨の話について考えているようであった。佑梨も何も言わずに待っていると、やがて神様が先に口を開いた。


「結論を述べよう。まずその少女の名前は宮代みやしろ佳代かよだ」


 佑梨はハッと息を吞む。ついに新しい情報を手に入れることができた。


「あの子のこと知ってるのか!?」


「あくまでこちらの世界の佳代のことはな。この世界とお前の世界は時間的、空間的に近似する世界なのだろう」


 今度は首を傾げる。今までに聞いたことのない表現だと思った。


「近似する世界? やっぱりパラレルワールドってこと?」


「そういう理解で構わない。そして二つの世界の佳代が、それぞれ同じ時刻に同じ場所で死亡した。その場に偶然お前が居合わせた」


「それで二人の佳代が死んだ瞬間に、私はこっちの世界に来たってことか……」


 どういう原理でワープしたのか知らないが、一応筋は通ると思った。元の世界の佳代はゴミ拾い用のトングで自殺したはずなのに、それが無くなり、いつの間にか包丁が落ちていた。こちらの世界の佳代は包丁で自殺したということなのだろう。元の世界の佳代が死ぬのと同じ瞬間に。


「どうして、二人の佳代が死ぬことによって私がこちらの世界に来てしまったんだ?」


「おそらくだが、二人の佳代は基本的に同じ存在だが決定的に違う点が一つある」


「え、何?」


「お前の世界の佳代は、この世界における俺と同じ。つまり神的存在だということだ」


「あの子が私の世界の神様だって? なんで分かるんだ?」


 そう言いながら、佳代が人間離れしていた点について思い出した。彼女はゴミ拾い用のトングを自分の胸に突き刺し、貫通させた。そんなこと普通の人間にはまず不可能だ。


「お前の持っている佳代の死紙だ」


「あ……」


 佑梨は無意識にズボンのポケットに手を触れた。佳代の死紙だけはバッグに入れずに、肌身離さずポケットに仕舞っている。


「信じがたいが、その死紙の中にもう一つ別の世界が存在しているのが分かる」


 そろそろ神様の発言についていけなくなりそうな予感がした。信じがたいどころの話ではない。


「死紙の中に? ああ、さっき言ってた物体や動きを感知する力ってやつか」


「この世界の佳代が死紙になった瞬間に、お前の世界がそのまま死紙の中に封じ込められたのだろう」


 佑梨は眉をひそめる。


「……あんまりイメージ湧かないんだけど、私の世界の人々はその死紙の中で今まで通りに暮らしてるってこと?」


「いや、お前の世界は完全に停止している。人間や生き物も全て」

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