第2章

神の領域へ

 佑梨はまたもやソファーで眠ってしまっていた。目が覚めると窓の外は夕焼け色に染まっていて、テーブルの上には飲みかけのコーヒーが置きっぱなしになっていた。ココアじゃなくてコーヒーだったら目を覚ますことができたのかもしれないのに、というようなことを昨日思った覚えがあるが、関係なかったようだ。


 春香はベッドの上で横になり、スマホをいじっていた。佑梨の寝ぼけた顔を見てくすりと笑う。体を起こし、明るい調子で声をかけてきた。


「おはようございます。もう大丈夫ですか?」


「ああ、ごめん。考え込んでいるうちに寝てたみたいだ」


「ふふ、なんだか子供みたいですね。それで、どうしますか?」


「私の世界がもう終わったなんて、簡単には信じられない。やっぱり神様に会って話をしてみたい」


「分かりました。それじゃあ、晩ご飯食べたら行きましょうか」


「ああ」


 それから二人は張り込みに持って行く荷物を確認し合った。佑梨が寝ている間に春香が買い物に行ってきてくれたようだ。飲食物、懐中電灯、ブランケット、携帯トイレなどを各々のリュックサックやバッグに詰め込む。まるで登山のようで、ちょっとワクワクしてしまう。


 夕食を済ませると、いよいよ神様の山に向かって出発した。辺鄙な田舎町でも夜になればそれなりに風情がある。町中の道をこっそりと抜け、坂の道路をしばらく歩けば、あとは山道だけだ。


 森の入り口に辿り着くと二人は懐中電灯を点けた。前回は暴漢から逃げるために奥の方まで行ったが、今回はそれほど歩く必要はない。森の外側から見つからない程度まで進み、まず死紙の入った封筒を地面に埋めた。死紙を必ず白い封筒に入れるのは、死に装束を着せるようなものなのだろうか。


「配達完了」


 春香は口元に薄らと笑みを浮かべ、何かの決まりごとのように言った。それから二人はその場所を監視し易い位置まで移動し、茂みの陰に腰を下ろした。懐中電灯の光を、神様側から見つからない程度に弱くする。その淡く黄色い灯りは、子供の頃に家族でキャンプに行った日のことを思い出させた。あるいは、花火をするために友達同士で夜に集まったときの非日常感。


 佑梨は、柔らかな光に浮かぶ春香の横顔に向かって言った。


「あとは神様が取りに来るのを、ここで見張るだけだな」


「もうすぐ、神様に会えるかもしれないんですよね。なんだか緊張してきました……」


「なんか恋する乙女みたいだな。そういう期待でもしてるのか?」


「別に。神様なんて、どうせおじさんかお爺さんですよ」


 神様が女性という可能性については、思い付いてすらいないようだ。代理で別の人物が取りに来る可能性もある。でも接触すれば神様の手がかりは得られるだろう。


 交代で死紙の埋まっている方角を監視する。最初は佑梨から見張ることになった。当然街灯はないが、視線を上げれば枝葉の間から満天の星とお月様を垣間見ることができる。誰かが来ても全く見えないということはない。


「星が綺麗だなー」


 見張りをしながら、隣に座ってスマホを見ている春香に言った。春香も頭上を見上げる。彼女はそのまましばらくぼんやりと夜空を眺めていたが、やがて独り言のように口を開いた。


「私、孤児院でいじめられていたんです」


「えっ」


 いきなりの打ち明け話に、思わず隣に顔を向けてしまう。春香の瞳は何も捉えておらず、ただ淡々と話し続けていた。


「痛いことも痛くないこともされました。味方もいなくてひとりぼっちでした。でも十八歳の頃、ある日突然、知らない人からメールが届いたんです。その人は自分のことを神であると書いていました。めちゃくちゃ怪しいけど、私は神様の言うことを聞くことにしました。もうそれしか縋るものがなかったから……」


 虐げられるのには慣れていると言っていたのは、こういうことだったのだ。佑梨はまた死紙の埋まっている方向に目をやり、口は挟まずに耳を傾けた。


「神様は私を孤児院から退所させて、死紙を届ける仕事をやらせようとしました。そして、神様の指示に従っているうちにそれは実現しました。孤児院から出て、アパートを借りることもできたし、収入もあって一応は自立することができました」


「そういうことだったのか。そんな人なら、やっぱり会ってみたいよな」


「星を見ていると、昔のことを思い出します」


「なんで?」


「いじめられていた頃は星をよく見ていましたから。私はいじめられていたけど、星は綺麗でした。星だけじゃなくて、海とか山も。辛い日々だったけど、世界のことは嫌いじゃありませんでした」


「そうか……」


 春香の話はそこで終わった。何て言ってあげようか迷ったが、彼女は下手な同情や慰めを求めてはいないということは分かった。ただ昔のことを思い出したから話したという印象を受けた。


「ねぇ」


 佑梨はもう一度春香の横顔を見て声をかける。


「何ですか?」


「星よりも、春香の方が綺麗だよ」


 春香は驚いたような目をして佑梨の方を向く。


「はは、何言ってんですか。別に嬉しくないですよ」


 そう言って、嬉しそうに微笑んだ。


 春香と出会えたことはやはり幸運なことであった。この言い知れぬ怖さに満ちた奇妙な世界で、彼女の存在だけが佑梨の心の拠り所となりつつある。それを口にするのは照れくさいので、本人に伝えることはしないけれど。


 その代わり、佑梨はラジオのように一人で喋り始めた。


「今日はもう月曜なんだよねー。結局休日が終わるまでに帰れなかったな。元の世界に戻ったらどう言い訳すればいいのやら。会社もクビかなー」


 こんな世界に来なければ今日会社でやるべきだった仕事のことを思い出した。春香も、元の世界はもう終わっているなんて野暮なことは言わなかった。


 そんな調子で取り留めのない会話を続ける。見張りは三十分毎に交代した。


 神様が夜に来るかどうかは分からない。普通に考えれば来ないのかもしれない。だが相手が普通ではないということは明白だ。どんなトリックを使っているのか知らないが、死紙を埋めればあとは勝手に取りに来るような人物なのだから。


 日付が変わりそうになる頃、休んでいる春香が大きなあくびをした。神様はまだ来ないし、これといってやることもない。


「春香はもう寝ててもいいぞ。私は昼寝したから、まだしばらくは大丈夫。もし神様が来たら起こしてやるから」


「ありがとうございます。そうさせてもらいます」


 春香が仮眠の準備をする物音が聞こえる。佑梨はじっと動かずに監視を続ける。暗闇の森の中で目を凝らしていると、人ならざるものの存在まで見えてしまいそうな気がする。この世界の自宅のアパートでも奇妙な現象を体験した。春香が眠って話し相手がいなくなったら怖いかもしれない。一人ではないがひとりぼっちになったような気分になる。


 そんなことを考えていると、不変であった視界に何かが入り込んでいることに気付いた。山奥の方角から黒い影が近づいて来る。佑梨は目を見開いた。まさか幽霊? とんでもない。あれは人だ。誰かが歩いてくる。薄暗いのでどんな人物なのかまでは見えない。その人は迷っている様子もなく、死紙が埋まっている位置まで真っ直ぐに来た。


「春香、誰か来た」


「えっ」


 春香も慌てて振り向き、謎の人物を見つけようとする。


「どこですか? 見えませんが」


「今しゃがんでいる。死紙を掘っているのかもしれない」


 数十秒後、その人は立ち上がった。その瞬間、佑梨はその人を懐中電灯で照らした。


 一瞬、黒い服を着た男性らしき人物の姿を捉えることができた。手には死紙を持っている。間違いない。この人が神様か、あるいは神の使いだ。


 しかし彼は見つかった瞬間、もと来た方角へ駆け出した。佑梨と春香も急いで後を追う。


「待て!」


 佑梨の声が届いているのかいないのか、彼は後ろを振り返ることなく走り続ける。二人は荷物を放置し、懐中電灯だけを手に持っている。暗い山道を照らしながら、転んだり木にぶつかったりしないように走り続けるのは想像以上に負担が大きい。


 しかし佑梨は奇妙なことに気が付いた。数メートル先を走る彼は、灯りとなるものを何も持ってはいないのだ。なのに障害物をちゃんと避けながら夜の森を走り続けている。ノーヒントで死紙を掘り出せることといい、一体どうなっているのだ。


 しばらくの間、追いかけっこが続いた。男にはなかなか追いつけない。が、距離が離れていくこともなかった。男性と女性では体力にも差がある。その気になれば二人の目の届かないところまで逃げ切ることもできそうなのに。まるで、一定の間隔が保たれるように男が調整しているかのようだ。


 もしかしたらおびき寄せられているのだろうか。佑梨はそう思い始めた。仲間が大勢いる場所まで誘い込まれて襲われたら、今度こそ終わりかもしれない。足場の悪いところを走り続けて体力も消耗している。しかし、これがおびき寄せられているなんて本来は有り得ないことだ。だって、男は走り始めてから一度も後ろを振り向いていない。ついて来ているかどうか見もせずにおびき寄せるなんて、できるはずがない。


 佑梨の考えとは裏腹に、男は付かず離れずの距離を保ちながら走り続けている。追跡をやめるべきか。もう長い距離を走っていて、今どこにいるのかもよく分からない。これ以上続けたら、春香がいても帰れなくなって遭難するかもしれない。


 二人は底のない暗い穴の下へどこまでも落ちていく恐怖に陥りながらも、足を止めることができずにいる。その先にあるのは奈落の底か、はたまた神の領域か。

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