知る限りで最悪の死に方

 二人は再び街中を歩き、電車とバスを乗り継ぎ、春香の家を目指す。道中、周囲に人がいる中で死紙の話はできないので口数は少なかった。


 無事に帰宅すると二人はコーヒーを淹れ、ソファーに座った。佑梨はバッグから死紙を取り出してテーブルに置き、回収したときの状況を説明した。


「部屋の中には誰もいなかった。クローゼットの中に首吊り自殺したような紐が掛けられていて、その下に死紙が落ちていたんだ」


「やっぱり、この世界の佑梨が自殺したんですね」


 春香は何でもないことのように言った。予想がついていたなら予め教えてほしかったと思った。そうしたら心の準備をすることができたというのに。


 佑梨の気持ちを知ってか知らずか、春香は日常会話のような様子で続けた。


「佑梨はもう外を出歩かない方がいいかもしれません。世間ではこれから死んだことになりますから」


「それは、結構辛いな。仕方ないことかもしれないけど……」


「それが嫌なら、この世界の自分に成りきって生きてみるとかですかね? 案外、自殺したこと以外はあなたと全く同じなのかもしれません」


 その提案について、この世界の自分の立場に立って考えてみた。


 自殺をしたあと、パラレルワールドからやって来た別の自分が成り済まして、なかったはずの人生の続きを歩み出す。それなりの幸せを享受することもあるだろう。一方で自分は、自殺をしたということさえ誰にも気付いてもらえない。死の痕跡は一切残らず、闇の中へ隠されてしまう。なぜならこの世界では、死体というものは手のひらサイズの紙に変身してしまうから。


 自殺をする人は、自分の死を誰かに悲しんでもらえるということを少しは期待するものなのだろうか。佑梨には分からない。自殺をしようと思ったことはないから。でも、自分が苦悩して死んだことさえ誰にも知られずに終わるというのは、知る限りで最悪の死に方なのではないかと思った。家族や友人は悲しませずに済むかもしれない。だが、そういう問題でもあるまい。


 佑梨はひとしきり考えた末、ようやく口を開いた。


「成りきって生きるなんて無理だ。それに、自殺したこと以外全く同じだなんて有り得ない」


 春香は死紙が破けないか確認したり、文面を眺めたりしていたが、それをまた置いて言った。


「そうですか。だけど、この世界でも彼氏に振られたことは共通しているみたいです」


 死紙には、『私は右京のことが好き。別れたくない』とだけ書かれている。彼女の断末魔が白い壁にこびりつき、いつまでも遺っているかのようだ。


 佑梨は表情を曇らせた。


「それ、なんか嫌だな。まるで、と言われているみたいで……」


「あなたは彼氏に振られたあと、海を見に行きました。でも、この世界の佑梨は部屋に閉じこもってしまった。たったそれだけの行動の違いが、生死を分けたのかもしれません」


 そんな馬鹿な。私が恋人に振られたくらいで自殺なんかするわけないし、もう未練だってない。これはあくまでもこの世界の私がやったことだ。私ではない別人だ。彼女の死紙が、私の気持ちを勝手に代弁しているかのように見えるだけだ。


 佑梨はもう一度、死紙に書かれた言葉を見つめた。


 もしかして私は、あいつと別れたくないとのだろうか。もしこの私が死んだら、同じ言葉が綴られてしまうのだろうか――。


 そんなはずはない、そんなことはないと信じたい。佑梨は頭を振って気の迷いを追い出した。それから、もう一つ大事な話題があったことを思い出した。


「そういえば、私があの部屋にいるときに聞いた音は何だったんだろ。ほら、電話して話したやつ」


 佑梨が部屋に侵入している間、玄関の方から扉が閉まる音が聞こえた。春香は「ああ」と思い出したように相槌を打った。佑梨とは違い、本当に意に介していなかったようだ。


「……あなたが来たから、この世界の佑梨の魂が霊的な扉を開けて出て行ったとか?」


「えぇ……」


 冗談なのか本気なのか、いまいち読み取ることができない。そこまでの仲になっているわけではない。


「音が何だったのかは分からないけど、この世界で自殺をしたあと幽霊になって彷徨っているのがあなたの正体だったりするかもしれませんね」


 スピリチュアルな仮説が次々に出てくる。たださえ訳の分からない世界なのに、自分の立ち位置がぐらぐらと揺れて今にも崩れてしまいそうだ。


 佑梨が言葉を失っていると、春香は少し言いづらそうな様子で口を開いた。


「実は私、一つ黙っていたことがあるんです……」


「え、何だよ」


「浜辺で佑梨と最初に会ったとき、あなたは何もない空間から突然姿が現れました」


「私が突然……現れた……?」


「はい。あの女の子が倒れたあと、佑梨がその隣にいきなり現れました。それが、あなたがこの世界に来た瞬間だったんだと思います」


 今度は冗談や思いつきを言っているようには見えなかった。


 何が真実なのかは分からない。しかし、佑梨には一つ思うところがある。


 私はずっと、この世界に来てしまったのは何かの偶然だと思っていた。超常的なワープ現象が起こって、私はたまたまそれに巻き込まれてしまったのだと。でも今はこう思っている。これは偶発的な出来事ではなく、私だからこそ起こったのかもしれない。


 佑梨は元の世界に戻る手がかりを得るため、ある決意を固めた。


「春香、神様に会いに行こう」


「えっ!?」


 春香は驚いて佑梨の顔を見た。


「これから山の中に死紙を届けに行くんだろ? 私は神様に話を聞かなきゃいけない」


 この世界の自分が自殺し、神様がその死紙を回収するように命じた。これがただの偶然とは思えない。


「でも、会うことなんてできるんですか?」


「だって死紙を埋めたあと、神様が掘り起こしに来るまで、近くの草陰で張り込んでいればいいだけだろ。一人じゃきついけど、二人なら何とかなるかもしれない」


「それはまあ、そうですが……」


「春香は神様に会いたくないのか?」


 問いかけると、春香は少しの間黙り込んだ。それから、遠くを見るような目をして自分に言い聞かせるように言った。


「……会ってみたいです。会って、お世話になっている感謝の気持ちを伝えたいです」


「それじゃあ、決まりだな」


「出発は今夜でいいですか? 私たちはあまり人目につかない方がいいですし」


「ああ。ところで、神様はどうやって春香が死紙を埋めた場所を見つけているんだ?」


「それは、分かりません」


「分からない?」


「はい。しかも、埋めたという報告すら必要ありません。ただ埋めるだけで二日後までには報酬が振り込まれます」


 佑梨は思わず首を傾げた。不可解ではあるが、二日以内に来てくれるのなら大いに助かる。長期戦にはならずに済みそうだ。


「それって本当に回収されてるのか?」


「回収されているのは間違いありません。昔、私も同じ疑問を持って確認したことがありますが、私が埋めた場所から確かに死紙は無くなっていました。辺りを手当たり次第に掘り起こした形跡もありませんでした」


 春香のスマホをGPSで追跡している? いや、それだけじゃ絶対無理だ。まるで、それこそ本当の神の力みたいだ。


「まあ、何にせよやるしかないな。神様が、私と私の世界に関することを何か知っているかもしれない」


「えっ」


 春香は意外そうな表情を浮かべた。


「どうかした?」


「その……気の毒だとは思うんですが。あなたが別の世界から来たっていう話が本当なら……」


 今度は一体何だと言うのだろうか。とてつもなく嫌な予感がする。というのも、春香が本当に気の毒そうな顔をしているからだ。


 春香は口をつぐんでいたが、佑梨が何も言わずに続きを待っていると、おずおずと話し始めた。


「あなたの世界って、のでは?」


「は……?」


 佑梨は言葉を失った。春香が何を言っているのか理解できない。しかし、すぐさま我に返り、春香に詰め寄った。


「もう終わっているって、どういうことだ!?」


「だって、浜辺で会った子が言ってたんですよね? この世界はもうすぐ終わるって。そして、佑梨はそのあとすぐこっちの世界に来ました」


 浜辺で自殺した女の子との会話についても、昨日ベランダで春香に話した。でも、その内容を真に受けているとは思わなかった。


「終わったって言われても……一体どうやって終わったんだよ!?」


「だから、それもその子が言ってたじゃないですか。テレビのスイッチを消したときみたいに突然終わるって」


 確かに言っていた。テレビの電源ボタンを押したときみたいにプツンと、一瞬で全てが終わると。だが普通はそんなこと信じない。この世界の人々には易々と受け入れられてしまうことなのだろうか。昨日から佑梨にとって普通じゃない出来事が起こり続けているのも事実だ。有り得ないことなんて何もないのだ。


 まさかあの荒唐無稽な話はだったのか……?


 佑梨は呆然としてしまった。もし元の世界が既に消滅してしまっているのだとしたら、そこへ帰ろうとする努力など全くの無駄となる。それに、この先どうやって生きていけばいいというのだろうか。春香とずっと二人で暮らす? まるで現実的でない。いや、そもそも現実とは一体何なのだろうか。


 家族、友達、元カレ、会社、生まれ故郷、日本、地球、そこに暮らす数十億人と数多の生命、そして宇宙。その全てがもう終わりを迎えて消滅した? テレビの画面を消すみたいに? 生き残ったのは、こちらの世界に来た私だけ? は?


 佑梨は俯き、混沌の渦に呑み込まれる。春香は申し訳なさそうに目を伏せた。


「すみません、やっぱり受け入れられていなかったんですね……」


 そう言って空になった自分のマグカップを持ち、立ち上がる。


「佑梨は夜まで休んでてください。張り込みの準備は私がしておきますから」


 佑梨は返事をせず、ソファーの上で膝を抱えてしまった。台所の方から洗い物をする音が聞こえたような気がしたが、すぐに遠ざかっていった。


 首吊りの輪、終わってしまった世界、この世界で自殺した自分とこの世界に取り残された自分の入れ替わり、霊的な扉の音、そして死紙。死と終末を司るあらゆる要素が渦の中心に向かってくるくると回り続けていくのを、ただ眺めていることしかできない。

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