I love you.

 ドアノブを掴み、静かにドアを開ける。数センチほど開いたところで動きを止め、室内を覗き込む。1Kの一人暮らし用物件といったところだ。やはり中には誰もいない。もう少し開けて隙間から顔を覗かせ、室内を見回したところでようやく安堵の息を吐く。留守であることが確認できたので部屋の中へ足を踏み入れた。


 ここから死紙を見つけ出さなければならない。それが神様のミッション。ざっと見たところ、ローテーブルやベッドの上にはない。


 室内のインテリアは佑梨の自宅と全く同じというわけではなかった。タンスの上に目をやる。写真立てがいくつか飾られていた。この世界の佑梨と元カレがどこかへデートに行って撮ったもののようだ。このパラレルワールドでも同じ相手と付き合っているらしい。名は西山右京という。ロマンチックなことだ、別れてさえいなければ。存在しないはずの記憶を写真にされたみたいで、奇妙な感覚だと思った。そこに写っている元カレの笑顔は佑梨を苛立たせた。


 ふん。私はこんな男、もうどうでもいいんだ――。


 気を取り直して死紙探しを続ける。部屋の隅々まで調べないといけないとしたら少々厄介だ。


 ふと後ろを振り返ると、佑梨の視界に異様なものが現れた。


 クローゼットの中のハンガーパイプに掛けられた様々な服が両端に寄せられ、隙間が空いた中央に荷造り紐がぶら下がっている。ちょうど人の首を引っ掛けられるような輪の形となって――。


 息を吞み、視線を下にずらす。紐の真下に脱ぎ散らかしたような服があり、その上には小さな紙が落ちていた。神様に回収を頼まれた死紙なのかもしれない。


 まさか、この世界の私が首を吊って自殺したのだろうか……。


 簡単に予想できたはずのことであった。死紙があるということは、そこで誰かが死んだ可能性が高い。普通に考えればその部屋の住人で、自宅で死ぬケースのほとんどは自殺だろう。神様のメールに書かれていた「今は誰も住んでいない」というのは、住人だった者がもう死んでいるという意味だったのだ。床に足が付いても首吊りをすることはできるとどこかで聞いたことがある。


 恐る恐る死紙に近づいた。死紙の表が伏せられている状態となっており、何が書かれているのかは分からない。震える手で死紙を拾い上げる。当たり前だが裏面には何も書かれておらず真っ白だ。このまま内容を見ずに神様に引き渡すという手もある。というより、見ない方がいいという予感さえある。


 だが確かめずにはいられない。別世界の自分の死紙に遺された一番強い想いは何なのかということを。


 ゆっくりと死紙をひっくり返し、記された文章を読んだ――。


『私は右京のことが好き。別れたくない』


 その言葉を見た瞬間、全身に鳥肌が立った。筆跡も自分のものと全く同じである。今まで架空の存在のように思えたもう一人の自分が、と実感させられた。ただのアパートの一室に、死の匂いが一気に充満したような気がした。


 この世界の私も、あいつに振られたのか――。


 それが理由で自殺してしまったのだろうか。佑梨は少なからず動揺したが、気を強く持ち、ミッションを遂行することにした。


 春香の指示通り、手紙の端の方を破こうとする。すると、確かに強く引っ張っても破くことができなかった。重さも硬さも手触りも紙そのものなのに、不思議なものだ。


 とにかく、死紙であるということは確認できた。佑梨はそれをバッグに仕舞う。


 そのときだった。

 玄関の方から、バタン、と扉が閉まる音が聞こえた。


 またもや佑梨の鼓動が高鳴る。誰か入って来たのだろうか。それならなぜ春香から連絡が来ないんだ。


 パニックになりながらも、とりあえず隠れなければと考える。この部屋の中で隠れられそうなのはクローゼットかベランダだが、目の前にあるクローゼットしか選択肢はない。なにせ、誰かが部屋のドアのすぐ向こうに来ているかもしれないのだ。


 クローゼットの中に素早く入り、レール式の扉を閉める。内側には取っ手が付いていないので、内部から完全に閉めることはできない。膝を抱えて小さくなり、見つかりませんようにと祈るよりほかない。クローゼットの扉の隙間から、今にも何者かの姿が見えるのではないかという恐怖に襲われた。


 腰の下には、この世界の自分が死ぬ直前まで着ていた服がある。首を吊って息絶えた瞬間、体は死紙になり、服だけが床に落ちたのだろう。その上に座っている。頭上には、彼女を死に至らしめた紐が輪っかの状態のままぶら下がっている。そんな場所で息を潜めてじっとしていなければならない状況に、気が狂いそうになる。


 今ここで死んで手紙になれれば、やり過ごすことができるかもな……。


 極限状態のあまり、支離滅裂な思考が頭をよぎる。だがしかし、何かが起こるのを一分ほど待ち続けたところでようやく気が付いた。


 玄関扉の開閉音らしき音が一度聞こえたあとは、何の音も気配も感じられないのだ。部屋のドアも開けられていないと思う。このままここにいても埒が明かない。誰かがいたら気付かれるリスクはあるが、思い切って春香に電話をかけることにした。


 スマホを取り出し、教えられた番号をコールする。春香はすぐに出てくれた。


「どうしました?」


 佑梨はできるだけ声を潜めて説明した。


「部屋の中を見てたら、玄関が開く音がしたんだ。誰かが入って来たのかも。急いでクローゼットに入って、今隠れてる」


「ただの聞き間違いだと思います」


 春香は即答した。


「どうして言い切れる?」


「だって佑梨が入ったあとは、誰も玄関を出入りしていません。ちゃんと見てますから」


 どういうことだろう。確かに音が聞こえたと思ったのだが。誰もいないのに物音がしたというのも、それはそれで別の意味で怖い。


「でも……」


「恐怖心より、私を信じてください」


 春香は静かな口調で、だけれども力強く言い放つ。その言葉は不安の海に溺れる佑梨にとって命綱のように思えた。


「分かった、今から出るよ……」


「すぐに来てください。今なら誰もいないから」


 この部屋に入ったときの威勢をもう一度取り戻さなければならない。通話は切らないまま、春香の声に掴まり立ち上がった。


 この部屋に侵入したときと同じように、クローゼットの扉を慎重に開ける。人の姿がないことを確認し、クローゼットから脱出した。玄関の方にも誰もいないようだ。


 最後にもう一度、クローゼットの中でぶら下がっている首吊りの輪っかに目をやる。顔をしかめて小さく息を漏らしてから、主を喪失した哀れな家を立ち去った。


 玄関の外へ出ると、スマホの向こう側から春香が言った。


「電話を切って、アパートの敷地を出たら左に行って真っ直ぐ歩き続けてください。見つけて合流します」


「分かった」


「平然とした顔で歩いてくださいね。コンビニにちょっと買い物へ行くときみたいに」


 そう言って通話を切った。佑梨の心中を察していたのだろうか。佑梨は気を強く持とうとした。平然とした顔でコンビニに行くことがこれほど難しいと思ったことは、今までの人生で一度もなかった。


 春香の言う通りアパートから出て左に真っ直ぐ行くとT字路があり、曲がり角の陰から彼女が現れた。


「死紙は回収できましたか?」


 春香は開口一番に訊いた。


「ああ」


「ありがとうございます」


 そう言うと、春香はいきなり佑梨に抱きついた。身長差のある佑梨の胸に頭を預け、優しく囁く。


「怖かったですよね。でも、もう大丈夫ですから」


「え、あ、私……」


 いつの間にか自分の手が震えていることに気付く。 


 佑梨は今になって思い知らされた。いきなりわけの分からない世界に迷い込んだり、暴漢に立ち向かったり、空き巣に入ったりして、その度に強い人間として振る舞おうとしていたけれど、かなり無理をしていたのだ。いくら気が強くても、所詮はただの一般人だ。本当は、ずっと怖くて怖くて仕方がなかったのだ。今にも泣き出してしまいそうなくらいに。


「うん。怖かったと、思う……」


 春香の髪の香りや体の温もりを感じているうちに、不安や恐怖が少しずつ和らいでいった。佑梨は返事の代わりに、手を回して春香の背中にそっと触れた。

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