侵入

 翌朝、二人は九時過ぎに出発した。佑梨のリュックサックは春香の家に置かせてもらい、小さめのショルダーバッグだけを持って行った。本日も晴天で、空き巣目的でなければ絶好のお出かけ日和だ。


 目的の場所はこの町よりは栄えた隣の市にある。春香は車を持っていないので、バスと電車を乗り継いで行かなければならない。まずはアパートの近くにあるバス停からバスに乗り込んだ。


 平日だが通勤通学の時間帯は過ぎているので乗客の姿はまばらだ。誰も座っていない一番後ろの列、窓側に佑梨が座り、その隣に春香が座る。バスが出発してからほどなくして、佑梨は窓の外の景色を眺めながらふと思った。


「人が死んだら手紙になるのってさ、どういう原理でそうなるんだ?」


 なぜ今そんなことを思い付いたのか自分でも分からないが、独り言のように疑問を口にしていた。春香は不思議そうに佑梨の横顔を見た。


「原理って……そんなのありませんよ。神様仏様の力ですから」


「えっ、神様?」


 佑梨はようやく春香の方に顔を向ける。


「ああ、いえ。私が死紙を届けてるコードネームの神様じゃなくて、一般的な意味での神です。宗教によって細かい違いはありますが」


「……この世界では、神やら仏やらの不思議な力で人が手紙になっちゃうってことか?」


「まあ、そういうことです」


 要するに、原理についてはまだ解明されていないということだ。だからこの世界の人間でも、神の力であるとしか説明ができない。佑梨は苦笑いを浮かべた。


「はは、まさか本当に神の力が存在する世界だったとはな」


「あなたの世界に神はいないのですか?」


「……いると信じている人もいるし、信じていない人もいる」


 この世界での宗教観が分からないので、言葉を選びながら話をする。


「少なくとも、誰にでも分かる形で現れてはいない。でも、存在しないと確定させることもできない。それは悪魔の証明になるから」


「いえ、そういうことじゃなくて」


 春香は手を横に振った。


「あなた自身は、神が存在していると考えていますか?」


 なんだか宗教の勧誘みたいだなと思った。あなたは今幸せですか?


「それは……」


 春香は悪戯っぽく微笑みながら、佑梨の顔を覗き込む。佑梨は思わず視線を逸らした。


「分からない」


 本当は神の存在など信じてはいなかった。少なくとも一昨日までは。


 やがてバスが小さな駅に到着し、今度は電車に乗り換えた。目的地に近づくにつれて佑梨の慣れ親しんだ駅を目にしていくが、どの駅名も逆さまになっているので奇妙な感覚に襲われた。人が死んだら手紙になることより、地名が逆さまになっていることの方がパラレルワールドにいることを実感させる。地名も元の世界と同じだったら、可能性だってある。


 最寄駅で電車を降りたあとは、徒歩で目的のアパートを目指した。春香の住んでいる町とは違い、駅の周辺には店が建ち並び、人々が行き交っている。


 大通りを歩く途中、病院の前を通りかかった。五階建てくらいのごく一般的な病院だ。佑梨は「この世界にも病院があるのか」と思いながら、白い外壁を見上げる。あって当然、むしろ無かったら困るはずなのだが、人が死んだら手紙になる世界に自分たちの世界と同じような病院があるということに、どことなく違和感を覚えた。


 そのまま十分ほど歩き、人気の少ない住宅街に入ったところで春香が口を開いた。


「着いたら、一人が死紙を回収、もう一人が外を見張る担当に分かれます」


「……それなら、私が死紙を取りに行ってもいいか?」


 春香は歩きながら隣を向き、声を少し抑えて言った。


「そう言うと思ってました。というか私もそうしてもらおうと思ってました。ただ普通に入って回収するだけですし、あなたの家ですからね。私は見張りを担当します」


 ショルダーバッグから小さ目のスマホを取り出し、佑梨に差し出す。


「私、二台持ってるので一台渡しておきます。佑梨が中にいるときに何かあったら電話しますから。あと、外へ出るときは私に電話して通話しながらで」


 スマホのアドレス帳を見せ、どの番号に電話するのかを指示した。


「分かった」


 佑梨はスマホを受け取り、ポケットに仕舞った。一人が家を出入りする間、見つからないようにもう一人がアパートの周囲を見張る。春香が今回の仕事で人手を欲しがっていた理由がようやく理解できた。佑梨のスマホはこの世界では電波が繋がらず、しかも電源を切っていなかったので充電も切れてしまっていた。


 ほどなくして目的地に到着した。二人はアパートから少し離れたところで一旦立ち止まる。周辺には誰もいない。死紙がある部屋は一階で、部屋番号も元の世界での佑梨の自宅と同じだ。神様からの指令によると今は誰も住んでいないという。なぜそんなところに死紙があるのか分からないが、神様を信じるしかない。


 佑梨は指紋を残さないようにするために手袋を付け、呟くように言った。


「いよいよだな……」


「佑梨、死紙を見つけたら試しに端の方を破いてみてください」


「え、破いていいのか?」


「はい。というより、死紙はどんなに力を入れても絶対に破くことができませんから」


「破くことができない……?」


 佑梨は困惑し、オウム返しすることしかできない。


「そう、それが死紙であることを確かめる方法です。死紙は燃やすこともできないし、朽ち果てることもありません。


「ど、どうして……?」


「それも神様仏様の力だから、です」


 人が死ぬ度に死紙になって残り続けたら、死紙だけがどんどん増えていってしまうのではないか。そんな疑問が浮かんだが、深く考えても無駄な気がしたので頭を振って消し去った。


「分かったよ。とりあえず行ってくる」


「気を付けてください」


 佑梨は頷き、後ろを振り返らないようにしてアパートへ向かった。建物の外観も全く同じなので、元の世界にある自宅に帰って来たような錯覚に陥った。家に帰りたいという気持ちと緊張感が混ぜこぜになり、胸がはち切れそうになる。自宅へ空き巣に入るなんて普通は有り得ないことだ。


 アパートの敷地内に入ると、真っ直ぐに目的の部屋まで歩いた。神様の指令によると玄関の鍵は開いているらしい。何が待ち受けているのか知らないが、躊躇なく扉を開けて中に入らなければならない。我が家に帰って来た住民のように。


 玄関扉が近づくにつれて、心臓の音が大きくなっていく。神様の情報が嘘もしくは間違いで、中に誰かがいたときは一体どうすればいいんだ。


 すぐに扉の前に着いてしまった。だが佑梨は覚悟を決め、ドアノブに手を触れる。そして、ゆっくりと扉を開いた。


 開けた瞬間、心臓が止まりそうになった。玄関から奥の部屋までは短い通路になっており、右手側にバスルームやトイレらしき扉、左手側には洗濯機、台所、冷蔵庫が並んでいる。空き部屋ではなく誰かが住んでいるのだ。しかも奥の部屋は照明が点けられており、ドアに施されたガラスから光が漏れている。神様の話と違うではないか。


 だが外へ逃げるのではなく、中へ体を滑り込ませて素早く玄関扉を閉めた。根拠は全くないが、神様の言うことを信じ抜くことにした。息を殺して耳を澄ませる。奥の部屋から物音は聞こえない。玄関扉の音に気付いた住人がこっちに来ることもない。空き部屋ではないが、今は留守なのだろうか。洗濯機も冷蔵庫も、佑梨の自宅にあるものと同じ機種のように思える。自宅にしか見えないのに全く未知の場所にいるという異様な感覚に襲われた。


 ふと、本来は会社に行って仕事をしている時間なのだということを思い出す。だが今はこれが自分の仕事だ。死紙を運び、神様へ届けるということ。


 オーケー、やってやろうじゃねえか――。


 意を決し、土足のまま部屋に向かって歩き出す。足音を立てぬようにゆっくりと。


 佑梨は自覚した。ただならぬ出来事が起こると感情が昂り大胆な行動をとってしまう。恋人に振られた日の夜中に海まで行った。春香を襲った男たちと戦った。そして今、不法侵入を犯し、誰がいるのかも分からない部屋のドアを開けようとしている。

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