恋の労働
何と答えればいいのか分からずに黙っていると、春香もバツが悪くなったのか、フォローするように言った。
「でも、あなたがここではない世界から来たというのは本当なんだと思います。そのことだけは信じられます」
「なんで?」
佑梨は不思議に思った。春香にとっては、佑梨が死紙を狙う一味という話の方がよっぽど現実味があるはずなのに。
「それは……」
今度は春香の方が言いづらそうに口を閉ざしてしまった。目を逸らし、焼きそばの方に視線を落としている。佑梨としてもそれほど興味があって訊いたわけではないので、話題を変えることにした。
「とりあえず、さっき言ってた次の仕事とやらのことを詳しく教えてよ」
「ああ……」
春香は安堵したように声を漏らした。
「それがいつもの仕事とはちょっと違う感じなんです。順を追って説明します」
「ああ」
「まず神様からの依頼はメールで来るんですけど、今回の仕事は今朝依頼が来たものです」
神様からのメール。本物の神ではないにしても、メルヘンチックな言葉だ。
「それで、とあるアパートの一室に死紙があるから回収してほしいというのが依頼内容です。今は誰も住んでいなくて、玄関の鍵は開けられています」
「アパートの一室から回収する……?」
「今までは、住居の中から死紙を回収するという仕事はありませんでした。外に落ちているものを拾ってくるというのがほとんどでした」
佑梨は怪訝そうに眉をひそめる。
「要するに、空き巣に入るってことか?」
「そういうことになります」
「……そのアパートってどこにあるの?」
「
「ずい?」
佑梨は中国の王朝であった隋を思い浮かべ、ぽかんとしてしまった。
春香は焼きそばを食べながらスマホの画面を佑梨の顔の前に差し出した。そこには岡静県豆伊市という住所が書かれてあり、佑梨は思い出した。どういう理屈なのか知らないが、この世界では日本の地名が逆さまになっている。つまり、これは静岡県伊豆市に当たる場所だ。ここからそう遠くはない。
その法則を思い出し、住所の続きを読んだ。が、今日で何度目になるか分からない衝撃を受けた。
神様が指定した場所は、地名が逆さまであるという点を除けば佑梨の自宅のアパートと全く同じ住所であった。そこに死紙があって、神様に届けろだって?
またもや心臓が早鐘を打っている。佑梨は春香に顔を近づけ、捲し立てた。
「おい、神様って一体何なんだ? どうして私の住所を知っている?」
春香はたじろぎ、口の中のものをごくりと飲み込む。
「お、落ち着いてください。これって佑梨の住所なんですか?」
「あくまで元の世界での話だけど」
「ふむ……。残念ですが、神様が誰なのかは私も知りません。私がいた孤児院の経営に関わっている人ってことだけしか教えてもらってないです」
つまり孤児院の経営者の一人が、そこの出身者に死紙を集めさせているということになるのだろうか。話が一気にきな臭くなったなと思った。
「会ったり話したりすることはできないのか?」
「できないと思います。メールが一方的に来るだけで、こちらから連絡しても一切返事をしないから」
「そうか……」
そんないい加減な体制で仕事が成り立っている。なんとも奇妙な関係性だ。
「佑梨は元の世界に帰りたいんですよね?
確かに、この世界での自分の家が春香の仕事に関係するというのなら、一緒に行って見てみたい。
「いつ死紙を取りに行くんだ?」
「明日の朝に出ましょうか。住宅なら、平日の方が人も少ないでしょうし」
平日というワードで佑梨は思い出した。本来は明日からまた会社に行かなければならないのだ。このまま戻れなければ解雇されるかもしれない。いや、その前に行方不明ということで大騒ぎになるだろう。元の世界には帰りたいが、帰ったあとのことを考えるのもそれはそれで気が重い。
佑梨は意気消沈しながら残りの焼きそばに箸を運ぶのであった。
昼食を済ませ食器を片付けると、佑梨は腰を下ろすことなく訊いた。
「悪いけど、ベランダで煙草吸ってもいい?」
「いいですよ」
ベランダに出て、立ったまま手すりに体を預ける。海沿いの住宅街を眺めながら煙草に火を点け、煙を吸う。いつもより美味しい。風が頬を撫でていくのも心地が良い。
春香もベランダに来て佑梨の隣に腰を下ろした。本当に小犬みたいだ。佑梨は春香の頭をちらりと見下ろした。
「春香も吸うの?」
「え、吸わないですよ」
「そう?」
まあ、煙草を吸うようなタイプには見えないが。
「あの、今度はあなたの話を聞かせてください。どうやってこの世界に来てしまったのか」
「ああ……」
佑梨はもう一度煙を吸い、吐き出した。白い煙が青の景色の中に優しく溶けていく。それからこれまでの出来事を順番に思い出しながら話をした。昨夜恋人に振られたこと。ショックで眠れず、早朝に海まで来たこと。風変わりな少女と出会い、世界の終わりにまつわる話をしたこと。少女が目の前で自殺し、手紙になってしまったこと。そして、後ろを振り向いたら春香がいたということ――。
一通り話し終えると、春香はどことなく辛そうな声を漏らした。
「そうだったんですね……」
「今思ったんだけど――」
佑梨は話しながら一つ思い出したことがあり、春香に尋ねてみた。
「あの女の子が死んだとき、春香も同じ場所に来たわけだけど、もしかしてその子の死紙を取りに来ていたの?」
「いえ、あそこを通りかかったのは本当に偶然です。これから誰が死ぬかとか、予知みたいなことは神様にもできません」
「そっか」
この世界のことについては受け止められつつあるが、あの少女に関しては完全に謎だ。この世界に来るきっかけとなった少女が神様と関連していれば良かったのだが、どうやら点と点は繋がらないらしい。
春香は膝を抱えながら、顔を上げた。
「私も一つ訊いていいですか」
「ああ、いいよ」
「佑梨はどうして彼氏に振られたんですか?」
「へ?」
思わず素っ頓狂な声を出し、指に挟んでいる煙草を落としそうになった。これだけ奇想天外奇々怪々な物語を聞いて、最初に出てくる質問がそれなのか。
佑梨は春香を一瞥し、また空を見上げた。飛行機が、佑梨の苦悩など知る由もなく呑気に上空を飛んでいる。
「まあ、忙しかったんじゃないの。その人は同い年なんだけど、医学部の学生なんだ」
「へぇ、凄いですね」
佑梨と恋人との間に、別れのきっかけとなる決定的な出来事やいさかいがあったわけではない。原因がはっきりとせず、佑梨の声を苛立たせた。
「でも腹が立ったのが、付き合うこと自体がサービス業の労働みたいだって言ってたんだよ。酷くないか!?」
「労働?」
「私ってそんなに駄目なのかなぁ。友達との飲み会で知り合って、確かに私みたいなのがインテリと付き合ったのも不思議なんだけど、お互いにないものを持ってて上手くいってると思ってたのにな」
佑梨は海より深いため息を吐く。すると、春香は水面に浮かび上がった泡のようにぽつりと言った。
「佑梨のことはまだよく知らないけど、もしかしたら逆かもしれません」
「逆?」
「多分、相手に好かれるための努力をし続けなきゃいけないのが、しんどくなったんじゃないでしょうか」
「……どういうことだ?」
「もしかしたら佑梨の方が出来すぎたのかもしれません。自分にはもったいないみたいな表現がよくあるけど、そうではなくて。相手がいい人であればあるほどに、それに釣り合う努力を自分がし続けなければならないのがしんどくなるんじゃないでしょうか」
「それが、サービス業の労働の正体?」
「あるいは」
佑梨は春香の言葉を理解するのに少しばかりの時間を要した。友達と恋愛の話をしたことは何度もあったが、こんなことを言われたのは初めてだ。
「いやいや、好きだったらそんなの苦にならないだろ」
「そうでしょうか。あなたには眩しすぎるくらいの何かが秘められている気がします」
「私の良いところなんて、キックボクシングくらいしか知らないじゃん」
「そんなことないですよ。ちょっと男っぽいですけど、優しいし綺麗だし、素敵です」
春香は小さく笑った。彼女の微かな声は、三月の風鈴のように心地よい。それに、こんなに真っ直ぐに褒められたら、佑梨といえども思わず赤面してしまう。
「つーか、男っぽいは余計だ」
照れ隠しに、爪先で春香の太ももをぐりぐりと押した。
「ひぎぃっ」
「ま、未練なんか全くないけどな! いつも笑ってくれるところとか、優しい声とか、知的な話を聞かせてくれるところとか、意外と西部劇に夢中になったりして子供っぽいところとかは好きだったけど、もう全然気にしてないからな!」
「あ、これ面倒くさいやつですね」
春香の微笑みが苦笑いに変わった。
「大丈夫だよ。で、春香は彼氏とかいるのか?」
「いませんよ。私はそういうの興味ないです」
「ふぅん」
興味がないなら、なぜ振られた理由なんか訊いたのだろうか。春香だって大人の女性なのだから、男に興味がないこともないと思うが。この世界が、人が死んだら手紙になること以外は普通の世界なのであれば。
そう思ったが佑梨は言い返さず、会話は途切れた。二人はしばらくの間、空の静けさに耳を澄ませ、雲の動く音を聞き取ろうとする。佑梨は煙草を吸い、春香は何をするでもなくじっと座っていた。
やがて佑梨は煙草を携帯灰皿に仕舞い、「戻るぞ」と声をかけた。春香は頷き、二人は部屋に入った。
その後は部屋から出ることなく一日を過ごした。この家にはパソコンがないので、テレビを見たり、春香と雑談をしたりしながら時間を潰した。死紙に関する話題さえなければ、この世界のテレビ番組も佑梨の世界と大体同じようなものであった。
夕飯は春香が作った甘口のカレーライス。二十四時間前には、恋人に振られる前に最後の晩餐を共にしたというのに、今は今日初めて会った女の手作り料理を食べている。不思議なものだ。人生何が起こるか分からない。
「私はまたソファーで寝てもいいか?」
就寝する前、春香に尋ねた。
「佑梨がそれで平気なら」
春香は了承した。彼女は普段通りに自分のベッドで寝る。
やがて消灯し、室内は静寂に包まれた。おそらく水波佑梨の人生で最も長い一日が、ようやく終わりを迎えようとしている。他人の家のソファーで横になりながら、自宅の部屋の風景を思い出してみた。
明日、この世界での自分の家に行くことになる。そのことがどういう意味合いを持つのかは、まだ分からないけれど。
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