おとぎ話みたい

 神様に手紙を届ける仕事。そのフレーズを聞いて、佑梨はまたもや混沌の沼の中に突き落とされることになった。人が死んだら手紙になるだけでなく、この世界には神様までいるというのか。


 何と言っていいのか分からずにいると、女がまた口を開いた。


「私のことは春香って呼んでください。あなたのお名前は何ですか?」


「私は、水波佑梨……」


「いい名前ですね」


「そりゃあ、どうも」


 佑梨は目を逸らし、頬を指で掻く。なぜか名字を教えてくれないが、今日会ったばかりの人を下の名前で呼ぶのはなかなか抵抗がある。


「それじゃあ、行きましょう」


 春香は踵を返し、森の奥へ向かって歩き出した。佑梨も慌ててついて行く。


「行くってどこに?」


「神様に手紙を届けるんです。見ていれば分かります」


 春香は山林の中を黙々と進み続ける。だがはっきり言って、でたらめに歩いているようにしか見えない。目印を辿っているわけでもなく、方位磁石を確認しているわけでもない。


 佑梨は不安になり、春香に尋ねた。


「ねぇ、どこに向かってんの?」


「どこにも向かってないですよ」


「え?」


「この森の中では、どこかを目指してはいけないから」


 これが神様に手紙を届ける仕事なのか? そもそも神様とは一体何なのか。一般的な意味での神だとしたら、ここは神様の住まう森ということになるのか。そう意識すると、ただの森だと思って歩いていた場所が神秘的で静謐な空間のようにも思えてくる。枝葉の間から降り注ぐ日差しが聖なる光のようにも見えてくる。


 やがて、春香は何の変哲もないところで静かに立ち止まった。


「今回はこの辺りにします」


 春香はジーンズのポケットから白い封筒を取り出し、目を細めて点検するかのように凝視した。何かの確認が済むとその場にしゃがみ込み、地面に小さな穴を掘り、封筒を埋める。立ち上がって、佑梨の方に向き直った。


「これで良し。配達完了です」


 口元を僅かに緩ませる。佑梨にはさっきから何が行われているのか、まるで理解できない。


「これで終わり? 神様っていうのは?」


「歩きながら教えます。とりあえずここから離れます」


 春香は再び歩き始め、佑梨もあとに続いた。少しの間黙っていたが、やがて春香の方から話し始めた。


「さっき埋めた封筒、何か分かりますか?」


 佑梨は薄らと感付いていた。封筒に入れるものの中で代表的なのは手紙だ。そして、手紙と聞いて今連想できるものは一つしかない。


「人が死んで、手紙になったやつ……?」


「はい、死紙です。あなたは本当に知らないんですね」


 春香は淡々とした口調で答える。当然佑梨は、そんな言葉は今日初めて知った。


「それをどうして埋めていたんだ? 手紙を届ける仕事って何なの?」


「私は神様に頼まれて、死紙の運び屋をしています。どこかしらで死紙を入手し、この山のどこかに埋める……あとは神様が勝手に回収してくれます」


「運び屋? じゃあ、さっきの封筒もどこかで手に入れたものをここまで運んで来たってこと?」


「そうです」


 全体像は何となく見えてきたが、それでもまだ疑問点は山ほどある。


「神様って? この世界には存在するの?」


「神様ってのは、コードネームみたいなもの。もちろん本物の神様じゃなくて、ただの人間です。会ったことはないですけど……」


「ふぅん」


 さすがに本物の神様に会えるほど幻想的な世界ではないようだ。佑梨は安堵したのと同時に少し残念にも思った。ここまで来たのなら行けるところまで行ってほしかったという気持ちもあった。


「それで、私は何を協力すればいいの? 話を聞く限りでは春香さん一人で充分な気もするけど」


「次の仕事では、もう一人人手が欲しいです。それに、さっきみたいに死紙を横取りする人がまた現れるかもしれません」


「横取り、ね……。あいつらは一体何なの?」


「よく分かりません。もしかしたらヤクザでしょうか」


「ヤクザ!?」


 佑梨の血の気が引いた。彼らを殴ったり蹴ったりしてしまったから。もし本当にヤクザだったら落とし前をつけさせられる。


「ああいうのは初めてでしたが、それしか思いつかないです。死紙を売買する人もいるらしいので」


 元の世界で言うと、ヤクザが運び屋から薬物でも奪い取ろうとした感じなのだろうか。春香の仕事は碌なものではなかったようだ。佑梨は少し威圧するように声のトーンを下げた。


「ところで、死紙の違法な持ち去り? は死刑だって言ってたよな」


「はい」


「ぶっちゃけ春香さんの仕事って、犯罪行為なの?」


 死紙を運ぶのが犯罪なら、やっぱり薬物運び屋と大差はない。


 二人の間の空気が一瞬張り詰めたが、春香は弱々しい調子で答えた。


「そ、そうです」


 佑梨は「やっぱりね」という言葉の代わりにため息を漏らす。すると春香が後ろを振り向いて言った。


「はは、ドン引きですよね……。で、でももう遅いですよ。私はあなたの罪を知っているんですからもう協力するしか」


「別にいいよ。それより危険な仕事なんだろ?」


「へっ!? あ、はい。まあ、絶対安全とは言えないですが。や、やっぱり嫌ですか?」


「私が守ってやるよ。春香さんと一緒にいる間はな」


「え……」


 佑梨はニッと笑ってやった。春香は口を半開きにして驚いていたが、何とかして言葉を紡いだ。


「初めてです。あなたのような人と出会ったのは」


「だろ? 私は強い女だからさ」


 実際、春香の仕事に加担することに対してはそれほど抵抗がなかった。この世界が、自分の世界とかけ離れた現実感に乏しい場所だからなのかもしれない。テレビゲームの中で悪事を働いても罪悪感があまり湧かないのと似ている。それに死紙を一枚持ち歩いていて、どうせバレたら死刑なのだから、これ以上罪が増えたって同じだ。


 春香は佑梨の笑顔に照れたようにそっぽを向き、踵を返した。


「と、とにかく、詳しいことはうちに着いたら話します。すぐ近くだから」


「家には家族の人もいるの?」


「私に家族はいません。前は孤児院で暮らしてました」


「そっか、ごめんな」


「いいです」


 ちょっと気まずい空気が二人の会話に終止符を打った。それから佑梨と春香は黙って森の中を歩き続けた。春香は、どう見ても同じようにしか見えない木々の間を迷うことなく進み、時折獣道を曲がる。佑梨はそれを不思議に思いながら春香の背中を見ていた。


 すると春香はその視線に答えるように言った。


「この山は子供の頃、一人でよく遊んでたから庭みたいなものなんです」


 一人で? 孤児院の他の子はどうしていたのだろう。


 佑梨は何と言えばいいのか分からず、「そうなんだ」と適当に相槌を打った。


 やがて公道まで出て、そこからまた少し歩くと、海沿いにある小さな町に着いた。観光地ではなく静かな住宅街で、人の姿もまばらだ。


 春香の家は白い外壁のアパートの二階で、広めの1Kタイプの部屋であった。白い布団が掛けられたベッドがあり、木製のローテーブルと箪笥があり、グレーのソファーがあり、テレビ台の上には当然テレビがある。壁に掛かった時計は午前八時半を指している。


「て、適当に座ってください」


 春香はそう言って台所に立った。佑梨はお言葉に甘え、ソファーに腰掛ける。深く身を沈めながら、自分は一体何をやっているんだろうと思った。昨夜からの出来事を一つずつ思い返してみる。すると、頭の中の暗闇から眠気が近づいて来るのを感じた。リュックサックを背負ったまま歩き回ったから、体もクタクタだ。


 春香が二人分のマグカップをテーブルに置き、佑梨の隣に座った。


「どうぞ」


「ありがとう……」


 マグカップの中身はココアだ。一口飲むと、甘くて温かい優しさのようなものが体の奥へ沁み込んでいった。今日は早朝から異変ばかりが起こり緊張しっぱなしだったが、安全が確保された場所で一息ついたせいか、眠気が抗えぬほどのものになった。ココアじゃなくてブラックコーヒーだったら目を覚ますことができたかもしれないのに。


「ごめん、少し眠らせてもらってもいいかな。昨日の夜は全然寝てないんだ……」


 佑梨は前をぼんやりと眺めたまま言った。


「いいです。目が覚めたら、またあなたの話も聞かせてください」


 まどろみの中で春香の声を聞いた。


 そうだな、今日は色々あった。色々なことがあった。夜明け前に見る濃密な夢のように。春香さんのこともまだよく知らないけど、きっと沢山の話ができると思う……。


 佑梨は瞼を閉じて、ソファーに座ったまま眠りに落ちた。



 少し遅めの昼食は焼きそばであった。目覚めたときには、具材を炒める美味しそうな音が台所から聞こえていた。よく知らない人物の家でいきなり寝てしまうなんて不用心だったかもしれない。ココアに睡眠薬を入れられて殺される、なんてことはなかったようで幸運だった。


 春香は佑梨の起床に気付いて振り向いた。


「おはようございます」


 佑梨はすぐに言葉を返さず、寝ぼけまなこで部屋を見回してから気だるい声を発した。


「……おはよう」


「お昼は焼きそばでいいでしょうか?」


 いきなりだなと思った。寝起きなのでもっと軽いものが食べたいし、嫌だと言ったらどうなるのか気になるところではあるが、贅沢を言える立場でもない。


「私は何でも」


 簡潔に答えて大人しく待っていると、テーブルの上に焼きそばが二皿並んだ。佑梨は遠慮がちに箸を運び、春香は興味深そうに佑梨の横顔を見た。


「お、お口に合いますでしょうか?」


「え? ああ、美味いよ。料理上手なんだな」


「ありがとうございます、嬉しいです。自分の料理を人に食べてもらったのは初めてなので……」


 春香は小さな花のように笑った。

 

 美味しいというのはお世辞ではなく本心だ。ほど良く焦げ目がついていてシャキシャキのレタスも加えられているので、味だけでなく食感も楽しむことができる。こんなに美味しい料理なら毎日でも食べたくなるかもしれない。


「そうなのか、美味しいのに勿体ない」


「ねぇ、佑梨は何歳なんですか?」


 出し抜けに尋ねられる。初めて名前を呼ばれたが、いきなり下の名前で、しかも呼び捨てにされるとは思わなかった。不思議な距離感を持っている人だ。


「二十三……。春香さんは?」


「私は二十二。なんだ、年上なら私のことも呼び捨てでいいですよ」


「分かったよ」


 佑梨は気を取り直し、話を始める。


「自分で言うのも変だけど、私のことを信用して家に入れちゃっても良かったのか? 実は、私はさっき春香を襲った奴らの仲間で、一芝居打っているだけなのかもしれないだろ」


「そうだとしたら、わざわざ家に泊めてほしいなんて言うでしょうか。後で死紙を回収するだけでいいのに。自ら監視してくれって言ってるようなものです」


「それでも春香の住所は特定できるぞ」


「そうですね。でもあなたが言ってた、人が死んでも手紙にならない世界なんて、まるでおとぎ話みたいじゃないですか。仮に私が騙す立場だったら、もうちょっとマシな嘘を吐きますよ」


 春香はそう言って微かに顔を綻ばせた。


 佑梨にとっては、どう考えたってこの世界の方がおとぎ話なのだが、こうもきっぱり言われると分からなくなる。自分のいた世界と、人が死んだら手紙になるこの世界。本当におとぎ話なのはどちらの方なのか。

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