あなたはどこから来たの

 一度頭を休めたいと思い、朝食を買って食べることにした。メロンパンをレジまで持って行く。クレジットカードで支払おうとしたが、エラーが発生して使えなかったので現金で済ませた。


 会計が終わったあと、かなりの勇気を必要としたが念のため店員に尋ねてみた。


「あのー」


「はい」


 中年の女性店員がにこやかに返事をする。往路で寄ったときは、店員はこの人ではなかった。若い男性だった記憶がある。単純にシフトが変わっただけなのだろうか。


「人間って死んだら手紙になるんですかね?」


 何なんだろう、この質問は。頭がおかしくなりそうだ。


「ええ、そうですね……?」


 店員は、なぜそんな当たり前のことを訊くのですかと言わんばかりの困り笑顔を浮かべた。佑梨はいたたまれなくなり、「ですよねー」と微笑みながら去った。店から出る前にATMにキャッシュカードを入れてみたが、これも使えなくなっていた。


 佑梨は店の外の壁に寄りかかり、メロンパンを口にしながら途方に暮れた。異変が一つや二つであったなら別世界だなんて思わなかっただろうが、いかんせん数が多すぎる。距離は遠いが、試しに自宅のある場所まで行ってみるべきだろうか。だがスマホもクレジットカードもキャッシュカードも使えなくなっていて、車も消えてしまったのに、自宅の鍵だけが都合良く鍵穴に合うとは楽観できない。もし本当にここが別の世界であったら別の誰かが住んでいるかもしれない。幸いにも現金は使用できて、たまたま多めに持ってはいたが、今の手持ちがリミットなので無駄遣いはできない。


 理解不能な状況に頭が痛くなる。ふと遠くを見たくなり、海のある方へ目をやった。佑梨の心とは裏腹に、この世界でも空と海は美しい。朝焼けに染まる景色がどこまでも広がっている。しばらくの間考えることはやめて、パノラマ写真のような風景を眺めていた。


 メロンパンを食べたあとは、あてもなく道路を歩き出した。やっぱり動き続けていないとどうしようもなく不安になるからだ。それに、佑梨は体を動かしていた方が頭もより回転する性分だ。


 いつからこんな風になってしまったのだろう。あるいは、おかしいのはこの町だけなのだろうか。摩訶不思議な町に迷い込んでしまった、いかにもそれらしい。

 思い出したが、海に行く前にあのコンビニで煙草を買ったときはクレジットカードを使うことができた。それから浜辺で座っていたとき、私はスマホを見た。電波も入っていたし、地名の表示も逆さまになんてなっていなかった。だから、少なくともその時点までは何も異変は起きていなかった。

 ともすればやはりあの奇妙な女の子が関係しているのか。あの子が現れた時点なのか、あの子が死んだ時点なのかどうかははっきりしないが、そのあたりのタイミングで世界が変貌してしまったと考えれば辻褄が合う――。


 少女の自殺の件を警察に通報する気はもうなくなっていた。この状況下でそういうことに時間を割いている場合じゃない。血が付いたワンピースと包丁が転がっているから、いずれ誰かが気付くだろう。



 山の麓の道路をしばらく歩いていると、見覚えのある後ろ姿を見つけた。黒いふんわりショートヘアーの女性。さっき浜辺で会った女の人だ。服装も同じだから間違いない。こんな辺鄙なところで何をしているのだろうか。森の中へ続く道へと進んでいく。


 佑梨は何となく気になり、彼女の姿を目で追った。すると、彼女が通り過ぎた道端の茂みからガラの悪い男が二人、身を屈めながら現れ、彼女のあとに続いた。


 不穏な気配を感じた。男たちが彼女を尾行しているようにしか見えない。関係ないはずなのに、先ほど浜辺で見た鮮血を思い出してしまう。


 佑梨は無意識のうちに彼らのあとをつけていた。森の中に入ると女の姿は見えなくなったので、男たちの方を見失わないように注意した。


 すると男たちが突然走り出した。佑梨に気付いたのではなく、前にいる者を必死で追いかけているような走り方だ。佑梨も慌てて駆け出す。走りながら、自分の頭がぐるぐるになっていくのを感じた。


 こんなことをしている場合じゃないのに、どうして自分から首を突っ込んでしまうのだろうか。もう訳が分からない。昨日は彼氏に振られ、今日は変な女の子がいきなり自殺して、死体が手紙に変身して、世界がおかしなことになったと思ったら、目の前で女の人が男たちに追い回されている。次から次へと、次から次へと……。私をこれ以上ぐちゃぐちゃにしないでくれ!


 数メートル先で、男たちが立ち止まった。あの女を追い詰めたようだ。


 女は大きな木を背にして身構えている。中肉中背の男が彼女ににじり寄る。もう一人の背の高い痩せた男は格上なのだろうか、後方から彼らの様子を眺めている。


 突然、中肉中背の男が女に向かって殴りかかった。

 その瞬間、男の前に誰かが立ちはだかり、両腕で男の拳をガードする。

 佑梨だ。突然目の前に違う女が現れ、男は目を見開いた。

 男の理解が追いつく前に、佑梨はみぞおちに膝蹴りを食らわせた。


「おらぁぁぁっ!」


「ぐわああっ!」


 叫び声と共に、男は腹を抱え込んで倒れた。女は驚きの表情を浮かべながらへたり込む。


 佑梨は男を仰向けにして馬乗りになり、素早く顔面にパンチを食らわせた。


 どういう経緯で男たちが女を追いかけていたのかは正直分からない。実は女の方が悪いという可能性もある。だが佑梨にはそんなこと関係なかった。昨夜から災難続きで、それでも何とか感情を抑えようとしていたが、ここで一気に爆発した。ついでに、忘れかけていた元恋人への怒りが男という存在への攻撃に変化した。要するに八つ当たりだ。


「このっ! このっ! このっ!」


 目にも留まらぬ速さで男を何発も殴る。すると、背後からもう一人の男が迫り来る気配を感じた。


 佑梨は振り返るのと同時にその男の金的に向かって真っ直ぐに後ろ蹴りを放った。ビリヤード選手が手球にキュー・スティックを当てるときのような精密さで。男は悲痛な呻き声を上げ、股間を押さえてうずくまった。


 佑梨は腰を抜かして呆然としている女に近寄り、手を握った。


「行くぞ!」


「え、はいっ!?」


 女は佑梨に引っ張られて立ち上がり、二人は山道を駆け出した。


「あ、あの、あなたは!?」


 女は走りながら尋ねる。


「ああ、私キックボクシングやってんだ」


 女の質問の意図と合っているか分からないが、そう答えた。


「め、めちゃくちゃに殴ってたけど……」


「キックボクシングは普通にパンチも使っていいんだよ」


「あっ、そうですか……」


 だが女を助けることができたのは不意打ちだったからだ。あの暴漢たちもまさか間に入って来た別の女が格闘技の使い手だとは思わなかっただろう。追いつかれて再戦になったら、男二人相手に勝つことはできない。だから今は逃げるしかない。


 木々に覆われた山道をでたらめに走っていく。佑梨はリュックサックを背負っているから体力の消耗が激しい。息が切れてこれ以上走れなくなったところで、どちらからともなく立ち止まった。


 佑梨は肩で息をしながら声をかけた。


「ここまで来れば……大丈夫だろ……」


 女も息を整え、佑梨に向き直る。


「あの、ありがとうございます。助けてくれて」


「いいって。でもどうしたの? あいつらに尾行されてたみたいだけど」


「別に。大丈夫ですよ、虐げられるのは慣れてますから……」


「虐げられるって……」


 一体どんな生活を送っているんだと、佑梨は女のことが心配になった。すると彼女は目を逸らし、露骨に話題を変えた。


「それよりあなたは、さっき浜辺で会った人ですよね? 死紙は警察に渡せましたか?」


「死紙ってあの手紙のことだよな。まだ持ってるよ」


「ええぇっ!? どうして!?」


 女はなぜかギョッとして目を見開いた。


「ああ、スマホが使えなくなったから通報できなかったんだ」


「そ、そうですか。じゃあ早く交番に行ってください」


「行かないと何かあるのか?」


「もちろん、死紙の違法な持ち去りは死刑ですよ」


「はあっ!? 死刑!? 持ってるだけで!?」


 今度は佑梨が驚愕した。


「えぇ……。あなた、何なんですかぁ……」


 それはこっちのセリフだと佑梨は思った。ホントに何なんだ、この世界は。


「じゃ、じゃあ、私は行きますので。助けてくれてありがとうございました……」


 女はそう言って踵を返そうとした。


「ちょっと待って!」


 こんな、どこかも分からぬ山道に置き去りにしないでほしい。佑梨にはこの女に頼みたいこともあった。


「な、何ですか?」


「実は私、帰れなくなっちゃって……。一日でもいいから泊めてもらえないかな……」


 うやうやしく頭を下げる。宿泊施設を使っていたら現金なんてすぐになくなってしまう。それに、佑梨には今の状況に対して必要な情報が少なすぎる。年齢の近そうな同性の人物と運良く出会えたことを利用しない手はない。


「帰れなくなったって……あなたはどこから来たんですか?」


 女の問いに対し、佑梨はどこか自虐的な微笑みを浮かべた。


「人が死んでも手紙にならない世界……って言ったら、どう思う?」


「えっ……」


 女は言葉を失った。二人の周りの時間が止まったようだ。朝の木漏れ日が射し込み、優しい風が髪を揺らす。


「信じられるわけがない……でも……」


 女は俯き、口元に手を当て思案している。佑梨は話を戻すことにした。


「それに、あんたはさっきも危ない目に遭ってたし、か弱いし、気になることも言ってたし、なんか放っておけないんだ。私にできることがあれば力を貸すからさ」


 女は先ほど、虐げられるのは慣れていると言っていた。日常会話ではまず出てこない言い回しだ。


 それに彼女は大人だろうけど小動物のように頼りなく、どこか庇護欲を掻き立てられるところがある。佑梨は子供の頃にも、怪我をしていた野良猫を助けて家まで連れ帰ったことがあったのを思い出した。今は自分が拾ってもらおうとしているのだが。


「あなたは私を虐げないのですね……」


 女はそう言って顔を上げた。瞳にはまだ微かに怯えの光が宿っている。


「そんなこと、するわけないだろ」


 安心させるような声色で言ってやると、女もようやく決心したように佑梨の目を見た。


「それなら、私の仕事にちょっと協力してもらえないでしょうか? そしたら一泊と言わず、何日か私の家に泊めてあげます」


「いいよ、何の仕事?」


「待ってください」


 女は短くはっきりとした声を上げ、何かを制止するように手のひらを突き出し、話を続けた。


「こ、この話は他言無用でお願いします。もし誰かに言ったりバックレたりしたら、あなたを死紙持ち去りの件で警察に通報します」


 女の声は震えていたが、その言葉には固い芯が通っているようにも思えた。彼女にとっては譲れない重要なことであるらしい。


「分かった、それでいいよ」


 佑梨は決断した。死紙を手放すつもりはないので、この女に弱みを握られているという状況に変わりはない。それなら一緒に行動していた方がいい。


「本当にいいんですか?」


「こっちはもう何が何だか、訳が分からない状況なんだ。蜘蛛の糸であっても、とりあえずは掴んでみる」


「そうですか……」


「それで、その仕事ってのは何なの?」


 佑梨が尋ねると、女は後ろに手を組み、首を少し傾け、意味深な笑みを浮かべて言った。彼女が笑ったのを初めて見た。


「神様に手紙を届ける仕事」

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