世界の変貌

 不思議な文章だと思った。一体どういう意味なのだろう。死への恐怖とは無縁の、達観した印象を受ける。人が死んだら手紙になる世界というのが何なのかは分からない。だが、少女は死んで手紙になってしまった。


 もう一度少女が倒れていたところへ目を落とす。そこで佑梨は気が付いた。少女のワンピースの傍らに血の付いた包丁が一本落ちている。それからハッと息を吞んだ。


 トングがなくなっている。少女の体と服を貫いたトングがいつの間にかなくなっていたのだ。少女の体が光に包まれる前は確かに刺さったままだったと思うのだが。ゴミを入れていたビニール袋もない。


 訳が分からない。佑梨は完全にパニックに陥った。


 すると、背後から足音が聞こえた。心臓が更に高鳴り、佑梨は後ろを振り向いた。


 またしても見知らぬ女が立っていた。でも子供ではなく、おそらく佑梨と同じ年頃の大人の女性だ。細身で背丈は佑梨より低い。ボリュームのあるふんわりとした黒髪のショートヘアーで、タートルネックの黒いセーターにジーンズ、スニーカー。どこか浮世離れした少女とは違い、ごく普通の出で立ちだ。


 彼女も佑梨と同じように、驚いて目を少し見開いていた。無理もない。目の前で少女が死んで手紙になってしまったのだから。


 だが佑梨は別の可能性も思いつき、体を強張らせた。もしかしたら自分が少女を殺したと勘違いされているのではないかと。離れた位置から見たら、そういう風に見えたかもしれない。


「あのっ」


 弁明しようと思ったが、上手く言葉が出てこなかった。今起こったことをどう説明すればいいのだろうか。見た通りに話せばいいのか。少女ではなく自分が頭のおかしい人だと思われないだろうか。


 ところが佑梨に負けず劣らず、見知らぬ女が怯えるような顔付きで口を開いた。


「そ、その子、自殺したんですか?」


 女は佑梨が持っている手紙の方を見ている。その手紙が少女自身であるかのように。超常的な現象のせいで忘れかけていたが、小学生くらいの女の子が自殺をしてしまったのもまた重大な事件だ。


「ええと、そうだと思う。いきなり自分のことを刺して、そしたら光って手紙になって……」


 自分でも支離滅裂なことを言っていると思い、いたたまれなくなる。しかし、女は佑梨の話に対して怪しんだり驚いたりもせず、普通に言葉を返した。


「何て書いてあるんですか?」


「人が死んだら手紙になる世界が、私のものになりますようにだって」


「……不思議な文ですね」


 彼女も佑梨と同じ感想を抱いたようだ。初めてこの異常事態を自分以外の誰かと共有することができて、ほんの少しだけ安心できた。女は佑梨の心情を知ってか知らずか、話し続ける。


「まるで……が、どこかに存在するみたい」


「え?」


 せっかく落ち着きかけた佑梨の鼓動が再び跳ねた。


「だって、人が死んだら手紙になるなんて、当たり前のことじゃないですか? 付け足さなくても、『世界が私のものになりますように』っていうだけで言葉としては成り立つのに」


 佑梨は青ざめた。


 ああ、駄目だ。まともな人に見えたのに、この人もの方だった。


 だが同時に佑梨は不思議にも思った。


 この人も最初は驚いていた。でも人が死んだら手紙になることを当たり前だと思っているなら、あのときは何に驚いていたのだろう? 女の子が自殺したことに対してなのだろうか。


 佑梨が何も言えずにいると、女はおずおずと右手を差し出した。


「よ、よろしければ、私が警察に届けて説明しておきましょうか?」


 彼女の少し小さな手をじっと見る。これは、この手紙をよこせという意味なのか。


 佑梨は迷った。ここに来てから夢の世界のような不可解なことばかり起きて今もどうしたらいいのか分からないけれど、この手紙は手放してはいけない気がする。根拠は全くないが、なぜかそのことだけは確信が持てた。


「いや、いい。自分でするよ」


 そう言い放つと、女はどこか残念そうな顔をした。


「そ、そうですか……。じゃあ、私はこれで……」


 女はあっさりと話を終わらせ、足早に去って行った。


 佑梨は一人で浜辺に立ち尽くした。また何かおかしなことが起こるのではないかと身構えていたが、これ以上は何も起こらなかった。気持ちを落ち着け、状況を整理しようと思った。


 まず夜明け前、車でこの海岸まで来て一人で煙草を吸っていた。風変わりな少女が現れ、少し話をした。ここまではいい。よくある話ではないが、現実に起こり得ることだ。問題はここからだ。少女はゴミ拾い用のトングで自分の胸を突き刺し、倒れた。彼女の体が光に包まれて消滅し、手紙らしきものが現れた。ついでにトングもいつの間にか消えていて、代わりに包丁があった。それからまた別の女が現れ、人が死んだら手紙になるのは当たり前だという話をしてどこかに行ってしまった。


 以上がここで起こった一連の出来事だ。これをどう見るか。人が死んだら手紙になる? 馬鹿馬鹿しいにも程がある。でも、あの少女が死んで手紙になったのは事実だ。


 状況を再確認した瞬間、佑梨は妙な感覚に襲われた。さっきまでと同じ場所なのにどこか違う風景を見ているような、自分が今まで認識していた世界と実際の世界の波長が少しずれているような、そんな錯覚に陥った。


 何とか気を取り直し、これからどうするべきかについて考えることにする。先ほど会った女は警察に届けると言い、佑梨は自分でやるからいいと答えた。だが警察に何と説明すればいいのか。あの女に話したときと同じように見たまんまを説明すればいいのか。案外、すんなりと受け入れられるかもしれない。でも……。


 この状況を警察に話して不可解だと思われず受け入れられるなんて、絶対にあってはならない――。


 佑梨は怖くなった。絶対にあってはならないのに、多分そうなるだろうという予感があったからだ。しかし通報はしなければならない。砂浜に置いてあるリュックサックからスマホを取り出し、画面を見る。すると、またもや異変に気が付いてしまった。


 スマホの電波マークが、いつの間にか圏外だと表示されている。地下でも山奥でもないのに。これまでの異常事態と比べたら大したことはないが、謎がもう一つ増えてしまった。


 とりあえず今は通報することはできない。スマホと手紙を仕舞い、いい加減にここから去ることにした。


 足許にもう一度目をやる。浜辺に少女のワンピースとサンダルと包丁がまだ残されている。どうしようかと迷ったが、放っておくことにした。現場保存という意味もあるが、不気味だから触れたくないというのが本音だ。


 海岸から出て、とりあえず自分の車を停めてある駐車場を目指した。まだ早朝なので自分以外の人間は見かけない。


 二車線の道路の端を数分ほど歩くと駐車場に着いた。二十台しか停められない駐車場で、今停められている車の数も少ない。だからすぐに気が付いた。愛用の赤い軽自動車がなくなっていると。


 佑梨は立て続けに発生する異変に対して、もうそれほど驚かなくなっていた。起こるはずのないことが起こっているのだから、あるはずのものがなくなっていてもおかしくはない。ただの盗難だとも思っていない。


 自分の車以外には二台の車があったので何となく眺めてみる。すると、違和感を覚えた。


 黒いワンボックスカーのナンバープレートの地名が「岡静」になっている。静岡ではないのか。表記ミス? いや、こんなミスは絶対に有り得ない。


 だが有り得ないことが起こり続けているのが現状だ。もう一台の白いセダンの方も確認してみることにする。こちらはナンバープレートの地名が「豆伊」と表記されている。伊豆ではない。なぜ地名が逆さまになっているのだろうか。


 佑梨は深いため息を吐いた。そして、ある仮説が頭の中に浮かんだ。それこそ頭が痛くなるようなことだけれど、その仮説で一連の不可解な現象に全て説明がつく。


 あの海岸に着く直前にコンビニに寄ったことを思い出し、そこへ行くことにした。コンビニなら人や情報が集まっている。全てが明らかになる。


 自販機で現金を使ってお茶を買い、また道路を数分ほど歩くとコンビニに着いた。往路で煙草とライターと携帯灰皿を買った店だ。深夜であろうと早朝であろうと営業しているので助かる。


 緊張した面持ちで店内に入る。中の様子は佑梨の知っている普通のコンビニと何ら変わりない。


 書籍の陳列棚へ行き、観光ガイド本を見てみた。予想通り、駐車場で見たナンバープレートと同じように地名が全て逆さまになっている。「縄沖」、「都京」、「屋古名」などなど。地名以外の言葉は変わっていない。


 他の本を眺めていると、棚の一番下の段の端に冠婚葬祭のハンドブックがあった。もしやと思い、手に取ってページを捲る。そこには佑梨の知りたかったことが書かれていた。


 人は死んだら、肉体が死紙しがみと呼ばれる手紙に変わってしまう。死紙には、故人の最も強い想いが綴られているらしい。


 それが故人の最も強い想いであるかどうかなんて、一体誰かどうやって確かめたと言うんだ。と、肩をすくめる。


 だが普通はこんなに頭のイカれた本が平然と出版されているわけない。佑梨はようやく諦め、認めたくなった自らの仮説について本気で検討することにした。


 今いる場所は自分の知っている世界ではなくて、どこか別の世界……いや、人が死んだら手紙になる世界なのだということを。

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