人が死んだら手紙になる世界で

広瀬翔之介

第1章

テレビの画面を消すように

 隣には、誰もいない。


 水波みずなみ佑梨ゆうりは砂浜の上で胡坐をかいて頬杖をつきながら、その意味を嚙み締めていた。眼前には夜明け前の暗い海が広がっている。肩まで伸びたブラウンの髪が、春の潮風に吹かれて揺れる。


 佑梨は昨日、恋人に振られた。

 解放感に胸が躍る土曜日の夜、レストランで食事を終えるタイミングで突然別れを切り出された。理由はいまいち要領を得なかったが要約すると、交際をすること自体がサービス業の労働のように感じられてしまう、ということであった。彼の話は佑梨を深く失望させた。労働とは何だ、労働とは。自分ではそれほど手のかかる女ではないと思っていたのだが。


 逃げ出すように彼のもとから去り、日付も変わらぬうちに最低な気分のまま自宅で眠った。しかし、夜中の三時にしっかりと目が覚めてしまい、ほとんど衝動的に二泊三日分ほどの荷物をリュックサックに詰め込み、愛用の赤い軽自動車を発進させた。気分が乗ったら週明けの会社は休もうと思っている。人気のない深夜の道路を一時間ほど飛ばし、海辺の近くの駐車場に車を停め、冷たい砂浜の上に腰を下ろしたというわけだ。


 途中のコンビニで買った煙草にライターで火を点ける。指の間に挟む感覚も随分と久しぶりだ。女だからという理由で彼に煙草を止められていたから。


 一年ぶりに吸う煙草の味は格別であった。彼と別れなければ享受できないことでもあったので、失恋の痛みが少しばかりは和らいだ。


 佑梨にとって恋愛とは、この煙草のようなものだ。火を点けると密やかに燃えていき、依存性のある成分が含まれ、いつかは必ず終わりを迎える。佑梨の二十三年という短い人生経験においてはごく自然なことではあるが、これまでに恋が終わらなかったことはないし、最新の恋愛もつい昨晩破局した。煙草を一本吸い終わったのだ。再び愛の煙を吸いたければ、次の煙草を手に入れなければならない。


 だが都合の良い出会いなどすぐに訪れるわけがない。ほどなくして一本目の煙草をえんじ色の携帯灰皿に入れ、二本目に火を点けた。次の恋の代替品として。これを吸い終わったら、また強い女として生きていかなきゃならないとぼんやり思った。


 冷たい風に吹かれ、思わず身が縮こまる。すると空き缶が転がってきて、佑梨の目の前で止まった。まるで、ここに佑梨がいることを空き缶自身が理解しているかのように。偶然だと分かってはいるが、その空き缶に目を奪われてしまう。ただの青いパッケージの炭酸飲料だというのに。


 ふと右後方に人の気配を感じた。首を横に捻ると、誰かが後から通り過ぎて佑梨の前に立った。佑梨は息を吞んだ。


 小さな女の子だ。見た目は小学校高学年くらいで、黒のストレートロングヘアー。寒空の下にもかかわらず、水色のワンピースと白いサンダルだけを身に纏っている。右手にはゴミ拾い用の金属製トング、左手には白いビニール袋を持っていて、清楚な装いとはいささか不釣り合いだ。


 彼女は佑梨には目もくれず、トングで空き缶を拾い、ビニール袋の中に入れた。どうやら、陽も昇らぬ内から海辺でゴミ拾いをしているようだ。


 善行であることは間違いないが、小学生がこんな時間に一人でゴミ拾いをしているなんて普通じゃないと思った。なんだか心配になり、声をかけてみることにした。


「おーい」


 少女がこちらに顔を向ける。


「一人でゴミ拾いしてんの?」


「うん」


「良い子だねぇ。でもまだ暗いから、もっと明るい時間になってからすれば」


「でもここは、終末の海となる場所だから、今のうちに綺麗にしておきたいの」


「へ?」


 すぐには意味が分からなかったが、週末の観光客が来る前に掃除をしておきたいということなのだろうと思った。


 少女は佑梨の返事を待たずに続けた。


「せっかくの煙草を楽しんでいるところ悪いんだけど、この世界はもうすぐ終わっちゃうんだ」


「は? ああ……」


 佑梨は一瞬目が点になったが、納得した。春になると変な人が現れるというのはよく耳にする話だが、それは子供の場合でも同じなのかもしれないと。


 でも、だからこそ佑梨は彼女と少し話してみたいと思った。できるだけ馬鹿馬鹿しい会話をして、失恋の痛みを紛らせたい。


「世界ってどういう風に終わんの? やっぱ巨大隕石とか?」


 少女はくすりと笑った。


「巨大隕石で終わらせられるのは地球だけだよ。それじゃあ世界の隅々まで終わらせることはできない」


「宇宙が丸ごと消えるってことか?」


「宇宙の中だけじゃない。宇宙の外側まで、全てが終わっちゃう。世界が終わるというのはそういうこと」


 宇宙の外側というのは一体何のことだろう。佑梨は宇宙物理学の知識を持ち合わせていないから皆目見当もつかない。


「……それは、どうやって?」


「分かりやすく言うと、テレビの電源ボタンを押したときみたいに、プツンって。一瞬で全部が終わる」


「一瞬で終わる? 終わったあとには何が残んの?」


「何も残らないよ。正確に言えば、消えるとか残るとか、そういう概念すら無くなってしまうから」


「悪いけど、私にはよく分からん」


「それはまあ、分かるよ」


 分かるはずがない。やはり子供の妄想だなと佑梨は思った。そんなことが起こったら私自身もいなくなって、世界が終わったということを認識することはできないじゃないか。死んだ人間が自分の死を自覚できないのと同じように。


 だが佑梨はそれを口には出さず、大人の対応をすることにした。子供相手に本気で反論するためにわざわざ海辺まで来たわけではない。


「……とにかく、テレビを消すみたいに世界が終わってしまうというのが、これから起こるんだな?」


「うん。あの水平線から朝陽が見えたときに」


 少女は海の彼方を指差した。


「じゃあ、このまま待ってみる」


「本当にごめんね」


 少女はなぜか謝った。まるで世界が終わってしまうのが彼女の責任であるかのように。


 朝陽が昇ったあとも世界が終わっていなかったら、この少女はどんな言い訳をするのだろう。嘘吐きめと苛めるつもりは毛頭ないが、彼女が何を語るのかということには興味がある。


 二人はしばらくの間、黙って海を眺めた。本当に世界が滅びてしまったかのような静けさで、聞こえるのは波の音だけだ。佑梨は静寂をゆっくりと吸い込み、煙を吐いた。


 昨夜恋人に捨てられたときはまさにこの世の終わりのような気持ちであった。だが世界の終わりというものがこれほどまでに穏やかで美しい時間であったなら、人類が滅亡するのも悪くはないとも思った。


 やがて空と海の隙間から、白い光が溢れ出した。朝陽が昇り始めたのだ。


 佑梨はポケットから携帯灰皿を取り出し、煙草を仕舞った。少女は立ち尽くしたまま、朝の光をじっと見つめている。佑梨が何か声をかけようとすると、先に彼女が振り返った。


「ありがとう。最後にお話をしてくれて」


 そう言って薄く笑った。

 トングを逆手に持ち直し、おもちゃの剣を見せつけるように構える。

 その手を頭上に持ち上げる。

 勢いよく振り下ろす。


 そして、トングを自分の胸の中心に刺した。


 佑梨は目を見開き、絶句する。何の躊躇もない流れるような動作であったので、止める間もなかった。トングはさも当然であるかのように少女の体を貫通し、鮮血を滲ませた。


 佑梨の心臓が急速に高鳴る。今目の前で起こっていることがとても現実のものとは思えない。ただのゴミ拾い用のトングが衣服や体を貫くなんて、子供の力では……いや、大人でも到底無理だ。肋骨は一体何をしているというのだ。


 トングを握っていた手の力が抜け、腕がぶらりと下がった。金属製のトングの二本の先端部分が少女の背中から生え、少し開いている。その二枚の羽根と彼女の纏うワンピースが真っ赤な血に染まっていく。しかし、そんな状態であるにもかかわらず彼女は微かな笑みを浮かべていた。夜明けの海辺で佇むその姿は、朽ちた機械仕掛けの天使のようだ。宗教画のような神聖さすら覚えてしまう。


 あまりにも異様な光景に佑梨は呆然とした。が、すぐに我に返り立ち上がる。すると今度は少女が横向きに倒れた。


 佑梨の眼下で、少女が瞼を開いたまま血溜まりに横たわっている。あまりの痛ましさに佑梨は一瞬目を閉じてしまう。


 だが気をしっかり持ち、少女を助けようと思った瞬間、またしても不思議なことが起こった。


 彼女の体や髪の表面が淡く光り出したのだ。まるで、彼女の内部にランプのような光源が存在するかのように。


 光は徐々に強くなる。やがて彼女を丸ごと包み込み、体の形が見えなくなった。そして彼女の頭部の位置に収束していき、小さな四角形に変化した。衣服は残って抜け殻となっている。


 光が弱まっていき、白い紙らしきものが現れた。手紙くらいの大きさだ。


 佑梨はどうすればいいのか分からなくなった。この一連の現象は一体何なのか。夢でないと有り得ない出来事だが、自分が今感じている五感の全てが現実のものとしか思えない。浜辺の景色も、波の音も、潮の匂いも、全部が本物だ。


 足許には謎の紙と、血塗れのワンピースと、白いサンダルが並んでいる。それが何となく人の形に見えるのが不気味だ。


 酷く混乱したが、とりあえず紙らしきものを見てみようと思い、屈んでそれを拾い上げた。見た目も手触りも紙そのものだ。そこには手紙のように横書きで、こう書かれていた。


『人が死んだら手紙になる世界が、私のものになりますように』

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