第6話 4
「――そんなにお父さんのおヒゲがイヤなの?」
「うん! だって、ジョリジョリしてて、痛いんだもん!」
女湯から聞こえて来た、ユリシアとサティの声に、湯船に浸かっていた俺は、身体から力が抜けて顔の半ばまでを湯に沈めた。
……そんな、ウソだろう?
いつもケラケラ笑ってたじゃないか……
てっきり喜んでるんだと思っていたのに……
「あー、ノルドよう。おめえ、レグシオ殿にも散々、注意されてたろ?
なぁんでヒゲ剃らねえんだよ?」
ドレン爺様が苦笑しながら、俺の肩を叩く。
俺は顔を湯から出して、無精ヒゲまみれの頬を撫でた。
「そりゃあ、サティが喜んでると思ってたし……
俺、自身、親父にされて嬉しかった記憶があるから、子供にはそうするもんだって思い込んでたんだよ」
――前世の記憶が戻る前……
本当にまだ幼い頃――当時の顔はもう記憶が曖昧なんだが、大人の男だから父上だと思う――、俺の頭を撫でながら、頬ずりしてくれたのを覚えている。
あれは初めて剣を振るえたからだったか?
たいそう喜んだその人は、俺を抱えあげて喜び、グリグリと頬ずりしたんだ。
父上が褒めてくれたのは、後にも先にもその時だけだ。
だからこそ、あの時の頬に当たる伸びかけのヒゲの感触を、俺はいまでも大切に覚えている。
まあ、父上は結局、似合わないと思ったのかその後、ヒゲを伸ばす事はなかったんだけどな。
「バカだなぁ。ガサツなガキだったにちげえねえおめえと、女の子のサティちゃんを一緒に扱ってどうするよぅ?」
「おい、ジジイ。まるで俺のガキの頃を知ってるように言うがな。
俺はこれでも、伯爵家の三男として育てられてたんだぞ?」
おおっぴらにする事でもないから、俺が伯爵家の出だというのは、開拓村だった頃からいる連中でも知る者は少ない。
ユリシアが侯爵家の出だというのはそれなりに広まっているんだが、どうやら俺が叙爵された時の褒賞のように思われているようだ。
「――ハッ! おめえが伯爵サマなら、おらぁ王様だわな!」
ドレン爺様もまた、俺は冒険者からの成り上がりとしか知らない一人で、俺の主張を鼻を鳴らして笑った。
「言ってやがれ、クソジジイ」
まあ、変に広められて畏まられてもイヤだから、俺はそう軽口を返して、顔に付いた水滴を両手で拭う。
――ジョリジョリしてて、痛いんだもん!
サティの言葉が脳内に反響する。
「そっかぁ……」
サティ、お父さんは決めたぞ。
「毎朝、ちゃんとヒゲを剃ろう」
そう決意を口にすれば。
「おう、剃れ剃れ。そもそもおめえは伸ばすでもねえ、かといってキッチリ剃るでもねえ。中途半端で良くねえと思ってたのよ」
ドレン爺様は目を細めて笑う。
「ジジイは、それ、ちゃんと整えてんのか?」
他の百姓の爺様達がそうであるように、ドレン爺様も短く刈り込まれたアゴヒゲを生やしている。
「おう、時々かかあがハサミでやってくれんのよ」
と、ドレン爺様は自慢げに湯気に湿ったアゴヒゲを撫でて見せた。
「ふむ……そうか。人にやってもらうという手があったか……」
「……ノルド、おめえひょっとして……」
ふと気づいたように、ドレン爺様は俺にジト目で見据えてくる。
「カミソリが怖えとか言わねえよな?」
「――バッ!? 俺が!? んなワケっ!」
慌てて否定しようとするが、それが逆にドレン爺様に確信を抱かせたようだ。
にんまり笑ったクソジジイは、両手を口に当てて、男湯と女湯を隔てる壁の向こうに声を張り上げる。
前世の銭湯を参考に造った内装だから、当然、壁の上部は開けている。
「おお~い! ユリシア嬢ちゃん、ノルドの奴、ヒゲ剃り用のカミソリが怖えんだとよ!
嬢ちゃんが毎朝、当ててやったらどうだい?」
「だから、ちが――」
「あら、構わないわよ? ノルド、やってあげましょうか?」
と、女湯から返ってきたユリシアの声は、思いの外楽しげだ。
あいつの返事に、女湯で女衆がわっと沸く。
「魔獣さえぶっ飛ばすノルドさんなのに、意外だわぁ」
「領主様ってば、可愛いところもあるのね」
――などなど……
これまで培ってきた領主としての、なけなしの威厳が音を立てて崩れていくようだ。
一方、男湯はというと。
「――や、わかりやすよ。寝起きのぼーっとした頭でカミソリ握るのって、怖えっすよね?」
などと、俺の意見に同意してくれる若い衆もいれば。
「大の男がヒゲ剃りが怖いなんざ、恥ずかしくないんかい」
と、ドレン爺様と一緒になって、俺を笑う爺様もいる。
俺は居たたまれなくなって、再び顔を湯船に沈めたわけだが。
「――お父さん! あたし、ジョリジョリでも我慢するよっ! 怖いことさせようとしてごめんね!」
という、サティの声がトドメだった。
「――ぐぅ……」
湯の中でうめきをひとつ、俺は立ち上がる。
「――サ、サティ! そんな事ないぞ! お父さん、ちゃんとヒゲを剃るからな!?
明日からはツルツルだ!」
必死に壁の向こうに声を張り上げると、男湯女湯両方が爆笑の渦に包まれた。
そんな時だ。
「――ノルドさん、大変だ! すぐに来てくれ!」
いまやルキウシアの狩人頭となったマイルズが飛び込んできて、そう声を張り上げた。
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