第2話 6

 飛び蹴りは、虹色にきらめく壁――結界に阻まれた。


 あたしは蹴り足の膝を折って、勢いを殺すと、結界の上で跳ねて身をひねる。


 蹴り足を軸に、後ろ回し蹴り。


 結界が、ガラスが砕けるような音を立てて割れ砕けて。


 かかとは熊のアゴを打ち抜いた。


 さらに身をひねりながら、あたしは腰から剣を抜いて、両手で掲げる。


「――ええぇいッ!」


 叫びながら、熊の左腕目がけて振り下ろす。


 ブチンってイヤな音がして、熊の左腕が吹き飛び、熊が甲高い悲鳴をあげた。


 飛んだ左腕が木々を薙ぎ倒す。


「――悪い子にはお仕置きなんだよっ!」


 あたしも前世で、色んなお母さんに悪い子だって言われて、色んなお仕置きされたから知ってる。


 悪い子には、ごめんなさいしても許しちゃダメだし、痛みを与え続けないといけなんだ。


 熊があたしを睨んで吠えた。


 目が真っ赤で、口からは涎を垂らしてる。


「……まだわからないの?」


 前世で、よく言われた言葉。


「じゃあ、わかるまでお仕置きだね!」


 なんだろう?


 すごく楽しくなってきた。


 前世のお父さんやお母さんも、こんな気分だったのかな?


 熊が突っ込んできたから、あたしは左足を軸に右足を退く。


 半歩ズレたすぐ横を、熊が駆け抜けて。


「こうだッ!」


 退いた右脚を振り上げれば、熊の腹に膝が突き刺さる。


 熊が変な声をあげながら、宙を泳いだ。


 顔の高さまで持ち上がった、熊の胴に肘を叩き込む。


 熊の巨体が、木々をへし折りながら飛んで行って、ゴロゴロ転がって止まる。


「ガアァァ――ッ‼︎」


 失くした左腕から、血をたくさん流しながら、熊は残った前足と後ろ足で立ち上がった。


 その周囲に五個の火球が現れて、グルグル回り始める。


「――ギャウ! ぎゃぎゃう!」


 アシスが焦ったように鳴いたけど……大丈夫。


 熱い胸の奥から、ことばが湧き上がる。


「――目覚めてもたらせ。<理力場フォース・フィールド>」


 掲げた両手の平が開いて、青い輝きが目に前に薄膜を張る。


 螺旋を描いて火球が迫って。


 けれど、薄膜に触れた途端、ねじれて消えた。


「ね? 平気だった」


「ぎゃぅ……」


 アシスに語りかけると、何故かアシスは悲しげなお返事。


「――サティッ!」


 と、おかさんの慌てた声がして。


 左手が引かれたと思った直後に、視界がブレて、地面に押し倒される。


 目の前には、血まみれの熊のお腹があって、顔を横に向けると、左腕に噛みつかれているのがわかった。


「まだごめんなさいしないのっ⁉︎」


 右手に握ってた剣は、転んだ拍子にどっかに行っちゃったみたい。


 だから、あたしは拳を握って、熊の顔を殴りつけた。


 それだけで熊は、噛みついてた左腕を離して、ゴロゴロと転がる。


 チラリと見ると、兵騎の左腕は手甲が裂かれて、ベコベコになってた。


 動かそうとしても、ちょっと痛くてうまく動かない。


「……悪い子だね……」


 ムカっと来たから、あたしは転がったまま、仰向けでゼヒゼヒ喘ぐ熊の上にまたがって。


「悪い子ッ!」


 顔面に拳を叩き込む。


「――悪い子悪い子悪い子ッ!」


 何度も何度も殴りつけて。


「あはははははっ!」


 なんだか、すっごく良い気分。


 熊の顔はもうグチャグチャで、目なんか飛び出してベローンってなってる。


「――もうやめろぉッ!」


 叫ばれて、あたし、思わず、ビクってしちゃった。


 振り返ると、おとさんがおかさんに支えられながら、こっちに歩いてきてた。


 ……おとさん、大丈夫だったんだ。よかった……


 熊を見下ろすと、もうピクリとも動かなくて。


 まあ、これだけお仕置きすれば、さすがにこいつも大人しくなるよね?


 あたしは熊から降りると、騎体を跪かせて、合一を解除した。


 固定具から手足を引き抜くと、顔を覆っていた面が消える。


 鞍から降りれば、内壁が割れて入り口が開いた。


 ……むふふ。悪い熊やっつけたし、おとさん達、褒めてくれるよね。


 そんな事を考えながら、あたしはジタバタと短い手足を動かして、兵騎の身体を這い降りる。


 その間に、おとさん達も兵騎の足元までやって来ていて。


「――おとさん、見た見た? あたし、悪い熊やっつけたよ!」


 ぴょんぴょん跳ねながら、おとさんに言ったんだけど。


 ――あれ? なんでおとさん、そんな怖い顔してるの?


 おとさんは拳を握りしめて、唇を血が出るほど噛み締めていて。


 頭からも血が出てるから、すごく怖い。


 そんな顔のおとさんは、あたしの頭の先から爪先までを見下ろして、深いため息を吐いて。


「……無事か……」


 そう呟いて、両手を広げて。


 ――あ、抱っこかな?


 そう思って、あたしも両手を広げたんだけど。


 おとさんはすぐに首を振って、身体を支えてたおかさんを押しやり、あたしの前にしゃがみ込んだ。


「――サティ……」


 おとさんがうっすら笑ったから、あたしも微笑みを浮かべる。


 瞬間、視界がブレて、あたしは地面を転がっていた。


「――ノルドッ!」


 おかさんの悲鳴じみた声。


 ほっぺたがすごく熱くて、あたしはおとさんにぶたれたんだって気づいた。


 ――え? なんで?


「立て、サティ……」


 うめくような、おとさんの声。


 ……あたし知ってる。


 こういう時、すぐに立たないと、もっと叩かれるんだ。


 ……おとさんは違うと思ってたのに……おとさんも、やっぱり前世のお父さんやお母さん達と――


 ――一緒なんだ。


 そう思いながら、あたしは身体を起こして、俯いたまま立ち上がる。


「……なんでぶたれたかわかるか?」


 ……そんなのわかんないよ。


 あたしは黙って首を横に振る。


「――なんでおまえ、ここに来た?

 ユリシア――お母さんが来いって言ったか?」


 もう一度、あたしは首を横に振る。


「おうちにいなさいって言ってた……」


「そうだろう? なのに、おまえは来てしまった……」


「――でもそれはっ!

 おとさん達が危ないって思って!

 兵騎があれば、おとさん達助かるって思ってぇ……」


 涙が出そうになるけど、あたしはお腹に力を入れて堪えた。


 こういう時に泣くと、もっと痛い事されるのは、前世で何度もあったから知ってる。


 おとさんはため息を吐いたようだった。


「……おまえが俺達に危ない目に遭って欲しくないと思ったように……いや、それ以上に、俺達はおまえに危ない目に遭って欲しくないんだ。

 その為なら、俺もユリシアも危険なんてなんでもない。

 ……これはわかってくれ」


 視界に映るおとさんの足が一歩踏み出して、あたしの肩に手が置かれた。


 また叩かれると思って、あたしは思わず身を固くする。


 けれど、そんな事はなくて。


 おとさんはあたしの前に跪いて、言葉を続ける。


「……なぁ、サティ。

 俺に叩かれて、どう思った?」


 ……そんなの……


「痛かったし、なんでって思った。

 あたし、良い事したはずなのにって……」


「ああ、危ない事をしたのを除けば、おまえがした事は、悪い事じゃない」


 おとさんは言葉を切って、もう一度、吐息。


「でも、おまえ……楽しんでいただろう?」


 硬く、苦しげなおとさんの指摘に……あたしは思わず顔を上げた。


 そこには……今にも泣き出しそうなおとさんの顔があって……


 ……え?


 なんでおとさん、そんな顔してるの?


 前世のお父さんもお母さん達も、あたしを叱る時は……痛い事する時は、もっと楽しそうだったよ?


 ニヤニヤしてて、あたしはあの顔が、いつもすごく怖かった。


 なのに……おとさんは今、目を真っ赤にして、涙を堪えながら、あたしの目を見つめてくる。


「サティ、悪い子にはお仕置きって言ってたな?

 だから、お父さんはおまえにも、同じようにお仕置きしたよ……

 でもな、俺はおまえみたいに、楽しい気分にはなれない……」


 ……おとさんは……楽しくないの?


「……なあ、サティ。

 おまえはふたつ、悪い事をしたんだ。

 ひとつは言いつけを守らず、危ない事をした。

 もうひとつは……おまえにはまだ難しいかもしれないが、よく考えてみてくれ」


 そう言って、おとさんは倒れたままの熊を指差す。


「おまえは、あいつを殺したんだ。

 それも楽しみながら……」


「――でも、魔獣は悪い奴なんでしょ?」


 言い訳じみたあたしの問いかけに、おとさんは首を横に振る。


「あいつだって、生きていく為に必死なだけで、悪い奴なんかじゃない。

 ただ、俺達とは相容れないだけで、暮らす場所が違っていたら、無理に殺す必要なんてないんだ……」


 ……わかんない。わかんないよ……


「……ねえ、サティ」


 黙りこくったあたしの前に、おかさんも跪いて顔を覗き込んできた。


「……例えば、ね?

 お母さんやお父さんを、誰かが笑いながら殺したりしたら、サティはどんな気持ちになる?」


「――そんな奴、絶対に赦さないッ!」


 あたしは吠えるように叫んだ。


 想像しただけで、目の前が真っ赤になる。


「そうでしょう?

 誰かを……それが獣であっても、殺すっていう事は、楽しんじゃいけないの。

 真剣にそれに向き合って……

 それでも生きていく為には、確かにわたし達は獣を狩って食べなきゃいけないけど、だからこそ、頂く命を大切にして……決して軽んじてはいけないのよ……」


 おかさんの手が、あたしの肩に置かれて。


「サティは賢いから、もうわかるわよね?」


 ……熊と戦ってる時。


 あたしは確かに楽しんでいた。


 前世のお父さんやお母さん達がしていたように、あたしも「やる側」になれたんだって、ウキウキしてたんだ。


 ……「やられる側」だった時は、あんなにイヤだったのに。


 ピクリともしなくなった熊を見る。


 あたしが「殺して」しまった熊を。


 ……ああ。


「……ごめんなさいぃ……」


 アレは前世のあたしだ。


 お父さんやお母さん達が、面白半分に「お仕置き」して。


 今ならわかる。


 あたしは運良く死ななかっただけで、いつあの熊のように死んでいてもおかしくなかったんだ。


 思わず駆け寄って、何度も何度も謝る。


 涙が止まらない。


「……わかってくれて、良かった……」


 おとさんがあたしの後ろに立って、頭を撫でてくれる。


「……この命を無駄にしない為にも、しっかりと食べてあげましょう」


 おかさんもあたしの背中をさすってくれて、あたしの涙はますます止まらなくなった。


 あたしは、そのまま泣き疲れて眠ってしまうまで、殺してしまった熊を悼んで泣き続けた。


 そして、おとさんとおかさんは、そんなあたしを後ろから見守り続けてくれてたんだ。

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