第3話 加速/ハイウェイ・スター

「シキさんは、読み書きできるの?」


 出てすぐ、ルエが言った。なんとも場違いな話題だ、とシキは感じたが、「少しだけなら」と、正直に答えた。


「やっぱり、東京の人は、みんなできるのね」


「皆かどうかは知らない」


「私も、読み書きできるようになりたいの。シキさん、今度教えてくれない?」


「僕よりもっといい人がいるだろう。あの村医者とか」


「あの人、少し苦手なんだ。なんか、ちょっと怖い」


 シキは黙りこくった。それは話は終わりだ、という合図のつもりだったが、沈黙は、次の話題で、すぐに破られてしまった。


「あ、ねぇねぇ、やっぱり、バケモノって見たことある?」


「見たことはある」


「こわい?」


「怖い」


「見た目が?」


「見た目も気持ち悪いが、なによりあいつらはクマより強い」


「ごめんなさい」と、ルエが頭を下げた。


 シキは足を止めない。


「なにが?」


「だって、クマより強いのを一人でなんとかしようとしているんだもの。外に応援を求めるっていうのは、アタシのお父ちゃんが決めたことだから」


 ルエが呟くように言う。


「気にするな。仕事だ」


「前にもこんなことが?」


「たまに」


「大丈夫だったの?」


 シキが答えずにいると、ルエは少しだけ膨れた顔をして、歩調を早めた。

 シキには、その理由がわからない。シキの知り合いにいる女性に、ここまで若い人はいなかった。否、女性に限らず、シキの知り合いは、胡散臭いエムくらいしかいない。


「ルエは、どう思っている?」


「何が?」


「バケモノがいるかどうかだ」


「わからない」


「そうか」


「あなたは、どう?」


「半々、といったところだ」


 シキが答えるのと同時に、彼女が足を止めた。一際古い家の前だ。表札は掠れていて読めない。ルエが振り返った。


「ここか」


「そう。あの人、呼ぶとすぐ出てくるのよ」


 ルエはため息をついた。そして、門の前に立ち、「ごめんください」と、大きな声で言った。返事はない。彼女は顎に手を当てる。


「おかしいわ。あの人、もうお仕事ができる体じゃないから、お供え以外では、いつも家にいるのに」


 シキは、口を開こうとして、やめた。シキの中に湧いた疑問は、一瞬で遠い彼方へ追いやられてしまった。それ以上に、とてつもなく嫌な予感がしたのだ。


「様子を見に中に入る。ルエは、宿に戻っていてくれ」


 少女は、一瞬だけ面食らった顔をしたが、すぐに真剣な面持ちになり、何も言わずに頷く。


「日も沈んでだいぶ経つから、気をつけて」と、シキ。


「シキさんも」


 ルエは、素早く踵を返すと、今来た道を走って戻っていく。しばらく見送ったが、問題はなさそうだった。

 松岡の家に向き直り、その敷地に入って、玄関を開ける。


「ごめんください」


 明かりはついていない。

 シキは、縁側を歩きながら、杖を握った手に思わず力を込めた。

 いるかもしれない。

 面している襖は綺麗だ。

 襖に手をかけて、深呼吸。

 そして、勢いよく開く。

 誰もいなかった。

 いや、より正確に言えば、ここには松岡さんがいたのだろう。

 血まみれの何かなら、ある。

 シキは顔を顰めた。


「遅かったか……」


 老人に歩み寄る。

 息はもう、していない。

 胸元に、傷があるように見える。

 血まみれでまだ確定できないが、どうやら切り傷のようだ。確かめる必要がある。

 シキはじっとそれを睨みつけ、おそるおそる、老人の衣服に手を伸ばす。

 シキの手が衣服に触れようとしたまさにその時、奥から、がたん、と大きな物音がした。


「誰だ!」


 シキが叫んだ。

 返事はない。

 建物の向こう側から、誰かが走り去る音が聞こえるのみだ。

 シキには、それが獣のものか、妖異のものか、判別がつかない。確かめるには、後を追うしかなさそうだった。

 シキは縁側から庭に出て、そのまま裏手に回る。

 勝手口が開きっぱなしになっている。

 そこから逃げ出したようだ。

 血まみれの足跡が山の方へ続いている。


「厄介だな……」


 シキは独りごちた。相手は人よりも強いだけに、知能が鼠程度でもあったら極めて厄介になる。そういう妖異は、生き残ればもっと旨い汁が吸えることを理解しているからだ。だから、逃げる判断は早いし、逃げるのも上手い。つまりは、本能のまま襲ってくるほうが、随分とわかりやすい。

 シキは、足跡を追って山へ分け入る。鬱蒼としており、視界は狭い。すぐに見失いそうな上、自分が追っていることを気づかれたくはないから、慎重に跡を追う。

 そのうち、痕跡は小さな山道にぶつかり、山道は頂上に向かってのびていた。けもの道、というよりは、人の道だ。

 痕跡は山道を登っていた。知能はあまり高くなく、注意深くは無さそうだ、というのがシキの見立てだった。

 あるいは……。

 がさがさと茂みが揺れ、シキはその方向を向く。

 足音。


「待て!」


 シキは叫んで、音のした方向へ走り出す。人影が見えた気がした。

 気のせいではない。

 足に力をこめて、全力疾走の先まで加速した。シキの奥の手だった。しかし、それでも相手の方が数段速く、みるみるうちに引き離されてしまう。

 やがて、足音は遠くへ消え去っていった。

 シキは苦虫を噛み潰したような顔をする。相手の意図に気づいたからだった。


「……まずいな」


 シキは言った。

 わざと音を立てて逃げ、わざと痕跡を追わせ、わざと見つかった。

 追ってこなければ無視で良い。痕跡を見失えば不慣れな奴。追いつけなければ力不足。つまりは、そういうことだ。

 相手は、自分の能力に自信があるのだ。

 今回の妖異は、人と同程度の知能があるだろう。しかも、自信に見合った能力がある。シキの奥の手を使ってさえ追いつけなかったのだから。

 そうなれば、やるべきことは、二つに一つ。

 村に警告を発するか、退治してしまうか。

 決まっていた。依頼の内容は、妖異の退治だった。

 シキが少しだけ音の消え去った方へ進み、地面を調べてみると、案の定、足跡を見つけることができた。

 かなり小さな足跡だ。十一、二歳程度の子どもくらいだろう。

 しかし、その先に足跡は続いていない。

 シキは舌打ちして、周囲半径数メートルの地面を探してみたが、やはり手がかりは何も得られなかった。

 上手い、というのがシキの素直な感想だった。どう移動したのかは知らないが、こちらを試すついでに、自分の行き先すら曖昧にさせている。

 シキはため息をついた。

 一旦仕切り直すしか無い。

 そうして、

 シキが振り向いたその時、

 視界の端に何か映った。


「誰だ」


 シキは、両手で杖を持ち直して、言った。


「あなたは、誰ですか?」


 木々のざわめきの中に、透き通った声。

 上からだ。

 まるで……。

 シキは、声のほうに顔を向けた。

 そして、目が離せなくなった。

 声の主は、

 粗末な服を着た、

 銀の髪と、

 鮮血のような赤い眼を持った、

 この世ならざる美しさの、

 少女だった。

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