変装、潜入

 国宝展の直前である。夜であるにも関わらず、美術館では展示品の搬入で多くのスタッフが右往左往している。怪盗レイナにとっては、そんな場所に潜入することなど造作もなかった。

 適当に作業をしているフリをして、場に溶け込む。誰もこちらを注視してこないタイミングを見計らって抜け出す。幾つか新しい監視カメラが増えていたが、別に大きな問題ではない。前と同じように館長室のドアの前に辿り着く。部屋の中からは、二人の男が会話しているのが聞こえる。

「……今からでも遅くないんですよ。」

「何を馬鹿なことを言ってるんだ。もう展示品は搬入されている。国宝展は延期も中止もできない。」

 会話している声は、美術館長の斎藤宗一と事務員の加藤健太。どうやら健太が宗一に国宝展の延期か中止を求めているらしい。

「あの予告状は見たでしょう?!大事を取って延期すべきなんですよ。追加の警備費用も馬鹿にならないし。」

「そうなんだがな……。だから、仕方ないことだと言っているんだ。何度も言っていることだが、これはあの予告状程度でやめられるプロジェクトじゃない。」

「だから、先日のピンクダイヤ盗難の件もあったと言ってるんです!」

「あれは……警察がなんとかすると言ってるから……。」

「あんな頼りにならなさそうな女刑事、信頼できるんですか?」

 ”頼りにならなさそうな女刑事”というのは楓のことか?楓のことを何も知らないくせに好き放題言いやがって。ムカつく。


 会話が終わり、足音が近づいてきた。部屋を出るようだ。すぐに近くの物陰に隠れる。

 激しく音を立ててドアが開いて、出てきたのは加藤健太。こんな気弱そうな好青年があんな激昂した口調で捲し立てていたのか。人は多面性のある生き物だなあ。

 健太は一人で夜の事務所に向かった。他の事務員は帰ってしまったのだろう。事務所の灯りは落ちていて、健太一人しか居ない。これは良いタイミングだ。玲奈は……いや、怪盗レイナは、あることを確認するため健太に接触することにした。


 健太は大きなため息を吐いて、帰宅の準備を始めたところだった。

 机の上のペンケースを鞄に突っ込んだときだった。背後で衣擦れの音がした。思わず振り返る。”それ”を確認した瞬間、健太は腰を抜かして崩れ落ちた。あまりにも驚いたのか、声も出せていない。

 それは……黒いマントを纏った女は静かに口を開いた。

「私は、レイナ。怪盗レイナと言えば分かってもらえるかな?」

 健太は無言のまま。呼吸は浅くて速い。

「私の予告状を最初に見つけたのは君かな?」

 そう尋ねても、健太はずっと無言のままだった。でも、ヴェネチアンマスク越しの目線に耐えきれなくなったのか、しばらく待ったらようやく口を開いた。

「……はい」

「そう。本当に君には感謝してるよ。怪盗なんて言ってもただの悪戯だと思われるかもしれなかったからね。」

 少しずつ健太の表情が変わってきた。怯えているような表情から、困惑の表情へと。

「実はね、ここには以前も予告状を送ったことがあったんだけどね。それはまともに受け取ってもらえなかったみたいで、警備がガバガバだったんだよ。おかげで簡単に盗むことができてしまった。さて、あの予告状を無視したのは誰なんだろうね。」

 レイナと目が合った健太は、すぐに目を逸らした。

「君……なんだね?」

 健太は暫く黙っていたが、消え入るような声で答えた。

「……はい」

 レイナは満足気に頷く。

「じゃあ、そんな君に大事な情報を一つだけ教えてあげよう。……私が山水図を盗むのは、国宝展初日の22時。このことは他の人間に教えても、もちろん自分一人の秘密にするのも君の自由。これは、予告状を無視したのと、二回目は真面目に予告状を受け取ってくれたので貸し借りなし。でも、これで私の貸し一つ。あとで借りは返してもらうよ。」

 困惑したままの健太が、小さく「22時……」と呟く。それを見届けて、レイナは窓の外に乗り出す。帰るのだ。

「ああ、忘れてたよ。今日は君に感謝だけしに来たんだ。今度は予告状を捨てないでくれてありがとうってね。」

 それを聞いて、健太はさらに困惑しているようである。そんな健太の顔を横目に、レイナは窓から飛び出した。黒いマントを靡かせて闇夜に消えていく様を、健太は呆然と眺めていた。

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