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「コハルさん、ちょっと話したいことがあるんですけど、いいですか?」


 コハルと呼ばれた二十代前半に見える女性は手に持っていたジョッキを口に近づけながら視線を横に向けた。


「ん、どうかしました?」


 コハルと茶髪女性は居酒屋の席で隣り合わせで座っていた。

 店内は客席が20席ほどの広さで、半分は来客で埋まっている。

 なので様々な客の喋り声が店の各所から聞こえていた。


 店内の照明は決して明るいとは言えず、少し薄暗い状態だ。

 だけど飲食やコミュニケーションをとるには全く問題ない光量で、むしろ人によっては心地よく感じる雰囲気を作り上げていた。


 現に居酒屋で飲食を楽しんでいる来客全員は不満を現した様子は一切ない。


 茶髪の女性は上目遣い気味で尋ねる。


「コハルさんって、よく会社で飲み物を飲んでいますよね?」


 コハルは量が減ったビールが入ったジョッキをテーブルの上にゆっくり置く。

 そして肩をすくめながら苦笑いを浮かべた。


「そりゃあ私だって人間ですからね、飲み物くらい飲みますよ。水分補給なしで生きられる超人的な存在ではなく、みんなと同じなにも特徴がないただの一般人ですよ」


 茶髪女性は目の前のテーブルの上に置いてある五個の茶色い衣をまとった唐揚げが乗った皿に手を伸ばしていく。

 

 それから皿の端に目立つように置かれている小さく切られたレモンをつまみ上げた。


 そしてレモンの皮の両端を指で圧していき、あふれ出る果汁を均等にかかるように唐揚げの上空から降り注いでいく。


 少し濁った雨を浴びた五つの唐揚げは表面を湿らしていった。


 茶髪女性は眉尻を下げながら硬い笑みを浮かべる。


「いえいえ、そんなに謙遜けんそんしないでくださいよ。コハルさんは立派な人ですよ? ワタシだけでなく、他の社員もコハルさんに尊敬のまなざしを向けてます」


 コハルはテーブルの上に置かれていたイグサ箸食べられる箸を手に持ったら、先端を唐揚げに近づけていき、


「うーん、私はそんなに立派な人間ではないと思うんだけど」


 箸で茶色く染まった鶏肉を挟み込み、口の中に放り込んでいった。


 茶髪女性は片手をコハルに向けながら宙を軽く何度も叩いていき、


「まぁまぁ、そんなこと言わずに。で、本題に戻りますれど、コハルさんがデスクを離れてる時なんですけど」


 イグサ箸食べられる箸を持ったら、レモン汁に濡れた唐揚げを挟み込んでいく。


 コハルは白い泡に覆われたビールを持ち上げた。


「えっなになに? 私が離れてる時に?」


「カオルさんがね……」


「え、カオルさん?」


「コハルさんがデスクの上に置きっぱなしにしてたコーヒーに――」


「あらら、勝手に飲まれてしまってたのね。もう、カオルさんったらしょうがないですねぇ」


「いえ、違うんです!」


「えっ、どうしたんですか? そんな神妙な顔して」


「勝手に入れてたんですよっ」


「ん、砂糖とかミルクを代わりに入れてくれてたってですか? カオルさんの方が私なんかより優秀だから、気を遣ってくれたんですね」


「遠くからだったのではっきりした情報じゃないんですけど、なんだか見慣れない包みを取り出してて、中身をコーヒーに投入していました……」


「うーん、でもその見慣れない包みってのがなにか分からない状態じゃ何とも言えないですね」


「そうですけど、怪しすぎます」


「カオルさんが変な事するようには私には思えないけど、それでもわざわざ教えてくれてありがとう」


「気を付けてくださいね?」


「そうですね、今後はデスクの上に放置しないようにしようかな」


「ちなみになんですけど、コーヒーを飲んだ後になにか体調に変化があったりはしませんでしたか?」


「あー、コーヒー飲んだはずなのに、逆に眠くなることが最近よく起こる気がしますね」


「えっ!? それってやっぱり……」


「カフェインに耐性ができたんですよ。あとコーヒーの効果を上回る寝不足の影響か」


「コハルさんやっぱりカオルさんの――」


「もう、同僚のことをすぐに疑っちゃダメですよ?」


「ですけど……」


 コハルは明るい笑顔を作りながら皿の上に乗っかった唐揚げを箸で持ち上げ、口の中に運んでいく。


 茶髪女性も不安そうな表情を浮かべながら唐揚げを口に運搬していった。





 

 居酒屋の前でコハルと茶髪女性が別れのあいさつを交わしていた。


 茶髪女性が顔を少し紅潮させながらつぶやく。


「それじゃあ、あたしはここで失礼しますね」


「はい、また明日よろしくお願いしまーす」


 コハルは片腕を軽く上げて、ヒラヒラと横に振っていった。


 茶髪女性は軽く頭を下げたあと、体をひるがえして街灯や建物の窓から漏れた光で照らされた町の中に姿を消していく。


 コハルは素早く腕を下ろし、遠ざかっていく茶髪女性の背中を見送っていった。


(さて、私も帰ろう)


 きびすを返し、歩道を明るく照らしている建物の横を通っていく。


(うぅっ、飲みすぎたかしら? 少し体がふらつくような。でも今日は二杯しか飲んでないのに。体の調子が悪いのかな? うぅ、早く家に帰ろう)


 コハルは額を押さえながら神妙な面持おももちで路上を見つめる。


 そして、自身の両頬を強く叩いたら、少しおぼつかない足取りで町中を歩いていった。


 町は仕事帰りの人が行き交っていて、車道にも色々な乗り物がライトで前方を照らしながら横切っていく。


 




 コハルは大通りを曲がり、住宅街の路上を歩いていた。


 周囲の住宅は所々に窓を光らせていて、住人の様子を伝えている。


 また、住宅街は静けさに包まれていて、コハルの足音を阻害する要素が少ないため、鮮明に周囲に響き渡っていく。


 暗闇に包まれた道路を街灯が一応照らしてはいるけれど、それだけでは闇を払いのけるのには不十分で、薄暗闇が広がっている。


 そして、コハルが暗い住宅街の帰路を歩いていると、目の前で黒い猫が横切っていった。


 猫は素早い動きで移動していき、住宅の敷地に足を踏み入れていく。


【ミャーオ(追いかけてこないでね)】


 コハルは黒い体毛で包まれた猫を目で追っていった。


 黒い瞳が左から右へを移動していく。


(あら、猫ちゃん。元気だねぇ)


 一方、コハルの十数メートル後ろには、黒い衣装を身に纏った男性が彼女と同じ進行方向に向かって歩いていた。


(標的はあの女にしよう)


 黒い男は表情を消して、歩く速度を僅かにあげていく。


 コハルは眉尻を下げ、怯えた表情で遠方の夜道を見つめ続ける。


(さっきから私以外の足音が聞こえるけど、誰かいるのかな? まさか幽霊じゃないよね? お願い、普通の人であって!)


 そして、歩きながら後ろに視線を向ける。


(ほっ……誰か後ろにいるけど、幽霊じゃなさそう。失礼だけど不気味な雰囲気は感じるけど、人間だね。よかったぁ)


(見られたな。このまま警戒されるか?)


 安堵の息をつきながら、少し緩んだ顔を正面に向けなおすコハル。


 それから先ほどと同じ歩行速度で帰宅を続けていった。


 黒い男は目に力を入れながらコハルの後頭部を眺める。


(ただ確認しただけか?)


 そして少しずつ歩く速度を上げていき、徐々にコハルとの距離を詰めていく。


 それから衣服のポケットから布でくるまれた棒状の物を取り出した。


 右手で握りしめた棒状の物を包んでいた布を左手ではぎ取ると、中から銀色の刃が姿を現す。


 刃渡り五センチメートルほどのナイフの刀身は街灯と月から放たれたわずかな光を受けて存在感を放っている。


 黒い男はコハルに鋭いまなざしを向け、更に歩く速度を速めていく。


 それからコハルのすぐ後ろまで追いついたら、持っていた刃物を前方に突き出す。


(お姉さん、さようなら! そして俺の人生もさようなら!)


 ナイフはコハルの背中右側を静かに、そして瞬時に貫いていく。


 コハルは顔をしかめながら背面に刺さっていた凶刃から逃れるように前方によろめいた。


「いぃいたっ!」


 そして辛そうな表情を作りながら素早く背後に振り向く。


(え、なに……? 何か引っ掛けた? 痛い! ……えっ、だれ!? それに暗くてはっきりと見えないけど、手に持ってる物は。……えぇっ、刃物!?)


 黒い男の手元を目を見張って凝視する。


 それから手を背中に回して傷口に触れていく。


(う、なんか濡れてる? というかまさか!)


 背中に伸ばしていた手を前方に移動させ、指にまとわりついた液体を見つめる。


 わずかな光だけど、街灯がしっかりと付着した物の色を照らしていく。


 コハルは表情を固めさせながら赤黒い物に視線を固定させた。


(え、え!? う、やっぱり血!? じゃあこの背中の激痛は……! それよりこの人は!)


 目を見開きながら大きく口を開け、


「きゃあぁぁぁっ!」


 静まり返った住宅街に甲高い悲鳴を響かせていく。


 静けさはコハルの叫びを増幅させていった。


 コハルはすぐに体を反転させて、黒い男から離れるように走り出す。


「イヤッ、だれか助けてっ!」


 黒い男は無表情を維持しながらコハルの後を小走りで追っていく。


(逃がさない!)


 コハルは背中を押さえながら、前方に逃げていった。

 また、時々後ろを振り向きながら、黒い男の様子を確認していく。


(うぅ、背中が痛い! 走るたびに激痛が走る! でもここで痛みに負けて速度を落としたら痛いだけじゃすまない!)


 顔をしかめながら夜道に足音を響かせていった。


 黒い男もコハルより小さいけど静寂に靴音を鳴らしていく。


 コハルは首から下げているペンダント型携帯端末フォンダントに触れる。


 フォンダントはコハルの前方の宙に横長い長方形の画面を映し出す。


 しかし、走りながらなので宙に浮かび上がった映像は乱雑に揺れていく。


 それでも眼前の映像を指で押していった。


 画面は十二個の数字が描かれた正方形が並べられたものに移り変わる。


 コハルは【1】を二回連続でつついていき、さらに【0】を突いていく。

 そして最後に【通話】と書かれたボタンに触れる。


 するとフォンダントから発信音が発せられ、音が止まったと同時に大人の男性の声に切り替わった。


『お待たせしました。緊急通報110番警察です。事件ですか? 事故ですか?』


 コハルは辛そうな表情を浮かべながら語気を強め、


「助けてください!」


『今どのような状態なのか教えていただけますか?』


「知らない男性に刃物で刺されました! はぁ、はぁ……夜道を歩いてたら急に後ろからです! 今も彼に追いかけられていて」


『周りになにか名前の分かる建物、お店などはありませんか?』


 一度背後を振り向き、続けて周囲を見渡していくコハル。


「住宅街です!」


『分かりました。至急現場に向かいますので、なんとか逃げ切ってください』


「早く来てください! はぁ、はぁ……このままじゃ追いつかれます!」


 黒い男は細めた目をコハルに向け、


(ちっ、通報しやがったか。逃げるか? いや、ここまできたなら息の根を止めるまで行こう)


 走る速度をさらに速め、コハルとの距離を縮めていく。


 そして、コハルの背中に接近することに成功したら、右腕を前に突き出していき、ナイフをコハルの胴体に刺しこもうとする。


(追いついた! あとはただこいつを苦しめるだけだ)


 コハルは素早く後ろを振り返り、目を見張っていく。


(えっ、イヤ! 殺され――)


 一方、二人の横に建てられたへいの上には、20代前半の容姿に見える黒いロングヘアーの女性が影を薄くして佇んでいた。

 あるいは闇と同化しているともいえる。


 闇の女性は勢いよく塀を蹴り、宙に浮かび上がった。


邪竜飛翔ジャンプ!」


 そして地面に落下しながら右手に握っていたビニール傘を振り上げ、黒い男が突き刺そうとしているナイフに向けて振り下ろす。


「はっ!」


 落下の勢いを味方にしたビニール傘の先端部分がナイフの刀身の上部を上から叩きつけた。


 ナイフは黒い男の手の中から抜け落ちていき、素早く路上のコンクリートに衝突していく。


 また、ナイフは高音域の金属音を静かな住宅街に響かせていった。

 静寂が金属音を更に透き通った物にさせる。


 闇の女性は無事に道路に足を着け終えたらすぐさまコハルの前に遮るように割り込み、腕を組んだ。  


「おい、貴様。そのカッコイイ武器をどこで手に入れた? 我もその鋭い刃を振り回してみたいぞ」


 コハルは目を見張りながらたじろぎ、闇の女性の背中を凝視した。


(え、なに、一体何が起きたの!? 突然横から人が現れたけど!?)


 黒い男も目を見開きながらうろたえる。


「……なんだお前?」


 闇の女性は腰から伸ばしていた毛を逆立たせた尻尾と眉尻を上げながら声を荒げ、


「名前を聞くときは、まず自分から名乗れと猫神様から教えてもらっているだろう!?」


 黒い男は慌てながら地面に落としたナイフを拾い上げていく。


「猫神様ってなんだよ? 知らねぇよ!」


「ふむ、名乗らないというならば、我も名乗る必要はないな」


 闇の女性は冷たい笑みを浮かべ、肩をすくめる。


 黒い男は一瞬言葉を詰まらせ怯む。

 そして不気味な笑みを作りながら、


「……俺は――」


「なに勝手に名乗ろうとしている! 我は名乗っていいと許可を出した覚えはない!」


 闇の女性は眉尻を上げながら左手を右腕側に移動させ、勢いよく左に振っていく。


 黒い男は一歩後退し、目を見張りながら怒鳴る。


「面倒くせえなぁ! なんなんだよお前!」


「うん、我か?」


 闇の女性は尻尾をくねらせながら左手を左目の前に持っていく。

 そして中指と薬指の間を大きく上下に開き、出来上がった隙間で左目を囲いこみ、不敵な笑みを浮かべた。


「我の名前はズィグヴァーン。邪竜だ」


「邪竜? なに言ってるんだ?」


「なにを言っているかだと? その問いに答えるならば、名を名乗っただけだが? それよりもここは我の夜の散歩コースだ。貴様に通行の許可を出した覚えはない」


 ズィグヴァーンと名乗った闇の女性は大きなため息をつきながら尻尾を下げる。


 コハルは後ずさりながら二人の会話を聞き続けた。


(刃物を振り回す人だけでも大変なのに、また危ない人が出てきたよ。しかも仮装コスプレしてるし、竜を名乗ってるのに猫の格好だし。あの頭と腰につけてる可愛らしいのは猫耳と尻尾だよね?)


 黒い男はナイフを軽く左右に振りながら口角を上げる。


「そこをどきなお姉さん。じゃないと先に刺されるのがお姉さんになっちゃうよ? あ、というか先にお姉さんから始末しようかな?」


「ほう、貴様は我と決闘がしたいのか?」


「決闘? 違うね、そんなものじゃない」


 ズィグヴァーンは首をかしげ、尻尾を上下に揺らす。


「では一体なにをしたいのだ?」


「追い詰め、恐怖で怯えさせながら殺す」


「ほう、その威勢の良さは褒めてやろう」


「なに強がっちゃってるの?」


「貴様には我がそう見えているのか」


「まぁいいや。とりあえず、夜道に出歩いたことを後悔しな」


「後悔ならもう許容範囲を超えている。もう何度も――」


 黒い男はナイフをズィグヴァーンの首を目掛けて左から右に振っていく。


 しかしその斬撃はズィグヴァーンが立てた傘によって遮られてしまう。


 黒い男はズィグヴァーンを睨めつけながらつぶやく。


「反射神経のいい奴め」


「むしろ貴様のナイフさばきが未熟なのではないか?」


 ズィグヴァーンは傘を右に振ってナイフを払いのける。


 そしてそのまま右に振っていき、黒い男の左腕に向けて横に振っていった。


 傘はそのまま進んでいき黒い男の左腕に衝突していき、軽い音が発せられる。


 黒い男は顔を小さく歪めながら声を漏らす。


「うっ」


「どうした、情けない声を発して。急に腹でも痛くなったか? 安心しろ、我はトイレで用を足す時間くらいは待ってあげれるぞ」


 ズィグヴァーンは左手を腰に当てながら不気味に微笑んだ。


 黒い男は目を鋭くさせてズィグヴァーンを睨めつける。

 だけどすぐに乾いた笑みを浮かべなおした。


「違う。これからお前がくたばるところを想像したら体の奥から興奮が湧きあがってきただけだ、よっ!」


 ナイフを左腹部横まで移動させていき、そのままズィグヴァーンの体に向けて斬り上げる。


 ズィグヴァーンは一歩身を引いて黒い男の振り上げを避けた。


 しかし、なびいている最中の長髪は刃の餌食になってしまい、数本の髪の毛が切れ落ちてしまう。


 分離された髪の毛たちは緩やかに宙を舞っていき、漆黒の空間に姿を消していった。


 ズィグヴァーンは傘を左に移動させ、黒い男の右腹部に向けて横に振っていく。


 傘の進路上には邪魔をするものはなく、無防備になっている脇腹に突き進んでいった。


 そして傘は無事に黒い男の横腹に命中し、小さな衝突音を周囲の暗闇に響かせていく。


 黒い男は顔をしかめながら小さい声を漏らす。


「うぁっ」


「今度はどうしたというのだ? まさか、食事を忘れてきたとは言わないだろう? 空腹で万全じゃない状態で我と決闘をしたいと言っていたのか? なんて愚かなのだ。それともあれか、我の事を思ってわざわざ手を抜いてくれているのか? そんな気遣いは不要だ。だけどその優しさは一応受け取っておこう。ありがとう」


 ズィグヴァーンは左手を腹部に添えて、頭を軽く下げた。


 黒い男はうろたえながら声を荒げる。


「はぁ、何言ってんだよ!?」


「おや、違ったか? 我の勘違いだったのなら謝罪しよう」


「そろそろその口を閉じさせなきゃいけないようだな」


 黒い男はナイフを強く握りなおす。


 そして勢いよく前に突き出して、ズィグヴァーンの胸部に凶刃を向かわせる。


 一方ズィグヴァーンはナイフの進路上に壁になるように傘を斜めに構えた。


 ナイフは傘に当たるけど、完全には勢いを止めることが出来なく、傘を横に退けながらズィグヴァーンの方に直進していく。


 それからナイフはズィグヴァーンの右頬をかすめていき、闇夜と同化しかけている長い髪に突っ込んでいった。


 ズィグヴァーンの右頬には直線状の切り込みが出来上がっていて、すぐに赤い一直線に変化していく。


 ズィグヴァーンは左手で自分の右頬を触れていき、眼前で手の平を広げる。


 そして薄明りが照らして明るみになっている赤い液体を凝視しながらつぶやいた。


「くっ、我はケチャップを顔につけたまま出歩いていたというのか? なんて恥ずかしいことをしていたのだ。もしかして貴様は最初から気づいていたのか? 気づいていたのに教えなかったのか? くぅ、なんて卑劣な性格をしているのだ!」


 ズィグヴァーンは目じりを吊り上げ、尻尾も毛を逆立たせながら上げる。

 それから少し呆けた表情を作りながら首をかしげた。


「そういえば我は今日ケチャップを使用した食べ物を食べただろうか? 我の記憶では食べていないはずだが。まさか、これは怪奇現象か!? 我の頬に突然ケチャップが付着したというのか!? ここら一帯は呪われているのではないか!? なんて恐ろしい場所だ。こんな所に長居していては何が起こるか分からない、貴様も決闘なんて止めて早く家に帰るといい。我もそうする」


 ズィグヴァーンは上半身をひねり、背後のコハルに顔を向ける。


「さぁ、そこの彼女も一刻も早く危ない場所から離れるといい。なんなら我と一緒に行くか? 決して我は怖いから誰かと一緒に居たいと思ってなどいないからな! 女性一人では心細いと思って一緒に居てあげようという我の優しさだ!」


 コハルは目を見開きながら硬い笑みを浮かべた。


「えっ、えっ!?」


 そして数歩後ずさり、うろたえる。


(この人はさっきから何を言ってるの? というか誰! うぅ、早く警察来てよ!)


 一方、黒い男はナイフをズィグヴァーンの首に向けて突きだそうとした。


 コハルは黒い男の様子を眺めながら叫んだ。


「危ない!」


 ズィグヴァーンは素早く前方に視線を戻し、真剣な表情を作る。


 そしてすぐさま傘を体の前に立てて、ナイフを受け止めようとした。


 ナイフは一旦透明色の傘に衝突したけど、勢いは衰えずそのまま傘を通り越して直進していく。


 刃は宙を進んでいき、ズィグヴァーンの右肩の上部を通過していくと、肩の衣服を切り込んでいった。

 

 また、ナイフの斬撃は傘の巻き紐ネームも一緒に引き裂いていく。


 傘はまとめ上げるものから解放され、周囲に膨張ぼうちょうしていき太い姿に変貌へんぼうした。


 ズィグヴァーンは傘を横に向けて、尻尾を下げながら悲しそうに見つめる。


「我の傘がどこかで拾い食いをしたようだ。なんだこの無様な姿は、だらしない。どれだけ食べたというのだ? 腹が垂れてしまってるではないか。これでは他の者に我の管理がなってないと思われてしまう」


「その心配は無用だ。あとでその傘もボロボロにしてあげるよ。でもその前に管理者を排除して、傘の所有権を譲ってもらわないとな!」


 黒い男は不敵な笑みを浮かべながらナイフを体の左側に持っていく。

 そして大きく右側に向けて振っていき、ズィグヴァーンの首に斬撃をお見舞いした。


 ズィグヴァーンは不格好な姿になった傘を立てて構える。


 しかし刃は傘を押しのけて、さらに側面を滑るように移動していき、ズィグヴァーンの鎖骨付近を通り過ぎていく。


 ナイフの軌道はズィグヴァーンの鎖骨付近の衣服と皮膚を傷つけていった。


 黒い男は不満そうな顔を作りながら言葉を漏らす。


「くっ、また傘か」


「貴様の武器が我の傘に恋をしているように見えてな。お節介かもしれないが我が成就の手伝いをしているだけだ」


「なに言ってんだよ。というかお姉さん邪魔だからさっさと消えてくれないか? 後ろの女を早く始末しなきゃいけねえんだよ!」


 ズィグヴァーンは眉尻を上げて、尻尾も上げて毛を逆立たせる。


 そして強い口調で周囲の暗闇に言葉を響かせていった。


「わたしが……我が身を引いたら、貴様は彼女に襲い掛かるだろう!? 彼女は我の獲物だ! 貴様なんかに譲る気はない!」


「なんなんだよ、お前!」


「最初の方に名乗った覚えがあるが、もう忘れてしまったのか? なんと情けない。しかしまあ、我も配慮が足りないわけではないからな。忘れてしまったというのならば、もう一度答えるまで! さあ、忘れないようにその頭にしっかりと刻み込むんだ! ……我の名前はズィグヴァーン、通りすがりの邪竜だ!」


「なんなんだよお前」


 二人が会話を続けていると、遠くから聞こえるサイレンの音が周囲に響き渡ってきた。


 黒い男は素早く周囲を見渡し、その場から離れようとする。


 すると突然ズィグヴァーンは黒い男に襲い掛かるように飛びつき、道路に押し倒していく。


「うわっ、足がっ!?」


 それから黒い男の体を締め上げるように両手で固定させ、前面に覆いかぶさり続ける。


「貴様、何を仕掛けた? 流石の我でも体勢を持ちこたえられない攻撃だったぞ。でも見事だ」


「何もしてない! くそ、どけっ!」


 黒い男は逃れようとズィグヴァーンの下で体を動かしていく。


 すると、大きなサイレンを鳴らし、赤い照明で周囲を照らしてる一台のパトカーが近くで止まった。


 ズィグヴァーンは黒い男の上から退きながら、


「仕方ないな。さすがに覆いかぶさり続けるのも悪いからな。さぁ、自由の身だ。どこにでも行くがよい」


 パトカーから素早く警察官が二人降りてきて、黒い男に駆け寄っていく。


「おいっ! お前たちなにやってる!」


 黒い男はその場に立ち上がり、走り出そうとする。


「くそっ! こんなことで捕まってたまるか!」


「確保っ!」


「あがはぁっ!」


 黒い男は警察官に突進され、地面に伏せられてしまった。


 コハルは黒い男からズィグヴァーンに視線を移し、駆け寄っていく。

 

 そして、赤黒く染まった腹部を凝視し、


「お姉さん、傷大丈夫? 血が出てるよ」


「それについては心配無用だ。これはただのケチャップだ。しかも濃厚な」


 ズィグヴァーンは笑みを浮かべながら軽く手を上げる。


 コハルは首をかしげながら、


「え、なんでケチャップ?」


「ふっ、我は次に襲撃する場所を見定めに行かねばならないため、ここで失礼するぞ。それでは皆の衆、夜闇に包まれて苦しむがいい!」


 ズィグヴァーンは尻尾をくねらせながら後ろ髪を手で払いのけた。


 そして不敵な笑みをコハルに見せたら体をひるがえし、静かな住宅街の闇に姿を消していく。


「はぁ……はぁ……はぁ、はぁ……」






 数週間後、真面目そうな女子高生と大人しそうな女子高生が横に並びながら町中の大通りを歩いていた。


 真面目そうな女子高生は空を見上げながら、


「そういえばさ、先週、いや先々週だったかな?」


「七日も違っちゃうけど、どっち?」


「うーん、先週……かな?」


「かな? って」


「べつにどっちだっていいでしょう! で、その時撮った面白い画像があるんだけど、見てみて」


「どんな風に面白いの?」


「それは自分の目で確かめてよ!」


「うん、そうだけど」


 真面目そうな女子高生はフォンダントを操作していき、眼前に画像を映し出させていく。


 大人しそうな女子高生は興味津々に映像をのぞき込んでいった。


「うわっ、何この人、仮装コスプレ?」


「堂々と町の中で歩いてて、なんか可愛らしかったから撮っちゃった」


「うん、可愛らしいね。……猫になりきってるねぇ、猫でいいんだよね? 猫耳と猫の尻尾つけてるし」


「本人に確認してないからわかんないよ」


「そっか。まぁ、この人からは猫が好きなのは伝わってくるね」


「うん、だよね」

 



 一方、女子高生二人から離れた場所を歩いていた男性が無表情を貫きながら歩いていた。


(この液体をまき散らして、そのあとは……)


 そして不敵な笑みを浮かべていった。

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①邪竜と名乗る彼女に助けてもらってますが、どう見ても猫の格好をした人間にしか見えない !~よたみてい書 @kaitemitayo

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