兄が怖くて仕方ない

ホラー





 子育ての疲れなのか、妹が最近元気がないので、何日か「休み」を作ろう、という話になった。

 家事や子育ては完全に休みの日、というものを作りづらい。甘えただった妹にしては毎日頑張っているようだが、体を壊してしまっては元も子もない。

 顔色の悪い妹に、わたしの奢りでアフタヌーンティーでも行こう、と誘ったら、やったぁと昔のままの笑いを見せた。

「向こうのお家で楽しくやってるみたい。ほら、でっかいスイカ食べてるんだって」

 笑いながら妹が写真を見せてきて、わたしも笑った。向こうのお家、とは彼女の義父母の家のことだ。彼女の夫も、萎れたような妹の様子は気にかけていたらしい。「休み」の話を持ちかけると、子供を連れて実家に行くと提案してくれたんだとか。

 妹は微笑ましい写真たちを見つめて、にこにこと笑いながら紅茶を飲む。……ただ、その表情には隠しきれない暗さがあった。

 ――そこまで子育てに疲れているのだろうか。

 わたしは気楽な一人暮らしだから、その辛さがどれほどのものか分からないし、代わってやることもできない。

 ただ、子供の写真を見ても気持ちが翳るほどなら――彼女にとっても、彼女の息子にとっても、いい生活とは言えないのではないか。

 しかし、わたしが口出ししすぎるのもよくないだろう。こうやって食事に連れ出してやるだけでもいいんじゃないだろうか? いや、もし何かあったら、その時は……

「お姉ちゃん?」

 妹の声で我に帰る。

 考え込んで変な顔をしていたのだろう。ケーキを食べる手も止まったわたしの顔を、妹が覗き込んでいる。妹に余計な心配をかけては本末転倒だ。わたしは笑った。

「ごめん、ぼーっとしてた」

「……私のこと心配してくれてるんでしょ、ありがとうね」

 うん、とか、ああ、とか、曖昧な返事をしてしまう。落ち着いた雰囲気のお店で、煌びやかなスイーツと、温かい紅茶があるのに。わたしたちの間には少しだけ重たい空気が流れた。

「……あの、変な相談してもいい?」

 妹がそう切り出した。

「え、いいよ。わたしも変なこと言ったらごめんだけど、なんでも聞くから」

 早口になっているかも、と冷や汗をかいた。きっとわたしを信頼して相談してくれているんだ。あるいは、誰かに言わないとどうしようもないことがあるのかもしれない。どちらにせよ、なんとかしてあげたかった。

「良二がね、最近――お化けが見えるって言うの」

 え、と、うめき声のようなものが出てしまった。

 良二というのは彼女の息子の名前だ。今年で四歳になる、元気な男の子。

「お化けが見えるって……怖がってるの?」

「ううん。怖がるとかはなくて……ただ、見えるっていうの。だから、怖がってるのはむしろ、私」

 正直、拍子抜けした。

 子供がお化けに怯えるとか、お化けの存在を信じるとか、UFOを見ただとか、そんなのはよくある話だと思う。だいたいは自分の空想が溢れて止まらなくなって、それを本当に見ているように錯覚しているのだ。

 それを子供本人が怯えるなら、不眠だとかなんだとか、問題もあるだろう。けれど、妹自身が怯えてるなんて、正直、くだらない笑い話なんじゃないかと思う。

 わたしの雰囲気が弛緩したのがわかったのだろう。妹は咎めるように張り詰めた表情でわたしを見た。

「ただのお化けじゃないの」

 言うことには。

 はじめは、幼稚園の友達か何かなのだと思ったらしい。

 今日はこんなことを教えてもらった、あんなことをした。誰と? と聞くと、おにいちゃん、と答える。

 年長の子にも友達ができたんだな、と嬉しく思った。年長だと思った理由は、「おにいちゃん」という呼び方もだが、「遊び」の内容も大きかった。良二はこれまで知らなかったはずの、数式や漢字らしきものを書くようになったのだ。

 意味は理解していないようだったが、数字と、プラスマイナスやイコールといった記号を並べて落書きするようになった。それも、「おにいちゃん」がやっていたことだったらしい。「雨」や「車」といった簡単で身近な漢字も書けるようになっていた。まだ、ひらがなも覚束ないのに。

「いいことだなって喜んでたの。最初は。でも、なんかおかしくなってきて」

 休日や幼稚園から帰った後は、公園に遊びに行くことも多い。大抵は近所の友達と何人かで、母同士も世間話などをしながらゆっくり過ごす。

 その日も二人の友人を伴って公園へと向かった。小さい公園だから、子供達が三人、母親たちも三人、それ以外は誰もいなかった。

 それでも、帰ったきた良二はこう言った。

「きょう、公園でおにいちゃんが、あの木は秋になったらびわができるって教えてくれた」

 いつも遊ぶ友達は、同い年だ。ずっと見張っていたわけではないけれど、他の子供が来なかったことくらいはわかる。それでも一応確認した。

「おにいちゃんって、カナタくんのことだったの?」

「カナタくんはおにいちゃんじゃないよ?」

「じゃあ、ヒロくんのこと?」

「ちがう!」

 二人の友人はどちらも「おにいちゃん」ではないらしい。じゃあ、いつ、誰が、枇杷の木があると教えたのだろう?

 それ以上追求はしなかったが、なんだか不気味に思い始めた。

 そして、それから、

「今日ね、おにいちゃんに小学校のこと聞いた」

「……ねえ良二、今日はお庭しか出てないでしょ? お兄ちゃんに会ったの?」

「会ったよ」

「どこで?」

「おにわ」

 そんなはずはないのだ。誰もいなかった。小学校の話なんかしなかった。

「今日はね、おにいちゃんとお手紙の書き方しててね」

 たしかに、落書き帳には文字がたくさん書かれていた。

「でも良二、今日はずっとお家にいたでしょ。お兄ちゃん来てないよ?」

「いるもん」

 いる、と、現在進行形で言われて、鳥肌が立った。

 何か気持ちの悪いことが起きている、あるいは息子が変な思い込みに囚われている。変質者じゃないだけマシだろうか。それにしたって、気味が悪い。

「お兄ちゃんに、ママに見せるお手紙教えてもらったから、読んで!」

 青ざめる母親には気づかず、良二は嬉しそうにスケッチブックを差し出してきた。茶色のクレヨンで、良二の幼い字で、

「おしさしぶりです はやくいきかえらせてください こまっています はやくしろ ゆるせない」


 そこまで語って、妹は、大きくため息をついた。ティーカップを持つ手が小さく震えているようだ。恐ろしさと、それを吐き出せた安堵と。

「わかったの、それで。私わかったの」

「わかったって、何が?」

 紅茶が飲みたいな、と思った。どんなに恐ろしいことが起きていたって、紅茶が冷めてしまうのはそれとは別に悲しいことだ。でも紅茶を飲んだら妹の恐怖を蔑ろにしてしまうだろうと思って、我慢する。

「二年前に死んだ亮一が、怒ってるんだって」

 意外な名前に、わたしは片眉を上げた。

「亮一?」

「そう。お兄ちゃんって、年上の人ってことじゃなくて、『自分のお兄ちゃん』って意味だったんだよ。死んだ亮一が、私に殺されたんだって怒って、呪ってるの」

 つやつやと輝く小さなイチゴのケーキを見つめながら妹の瞳は怒りと恐怖に揺らいでいる。

「……橋本亮一くんが、弟を通じて、母親に恨みを伝えていると」

 妹の今の苗字は、橋本だった。

「そうなの! そうに違いない……そうとしか考えられない! ひどい……まだ成仏できてないんだ、かわいそう……。でも、だからって、良二まで巻き込んで、こんなの、ひどい……」

 とうとう妹の目には涙が滲み出した。ずっと辛かったのだろう。怪奇現象も、死んだ子供も、呪いも。

 妹の肩をそっとさすった。言っただけで何が解決するわけでもないけれど、少しは楽になったのだろう。少しずつ荒かった呼吸がおさまっていく。

「お祓いにも行ってみようか。成仏させてもらえるかもしれないし」

 妹は、涙声でうん、と頷いた。

 それにしても、……存在しない子を祓ってもらったりしたらどうなってしまうのだろうか。

 橋本亮一なんて存在しないはずだ。良二より先に生まれた子なんていないし、「生まれなかった子」もいない。存在しない子が祟ると言うんだから、もうどうしようもない。

 お祓いよりも、妹を病院に連れて行く方が先なんだろうか。

 悩むわたしの目に、妹のスマートフォンの画面が見えた。

 夫と子供から送られた写真を見ていたのだろう。

 スケッチブックに茶色いクレヨンで文字が書いてあった。


『いきかえらせてくれないなら いやなおもいをしてください よしだこうた より』


 そういえばどうして兄がいないなら、良二くんの名前には二と入っているんだろう。

 紅茶を飲んだら苦かった。

 どこかで辻褄を合わせるために、これを聞いた人が、間を埋める想像をしてあげなきゃいけないんだろうな、と思った。

 妹はまだ顔を伏せて少し震えているからもしかしたら泣いているんじゃなくて笑っているのかもしれない。

 わたしに判断を委ねて逃げたのかもしれない。そう思ったら、許せなくなった。

 わたしもきっと誰かにこの話を教えてあげるだろう。

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