兄と思ったことはない


 カエデを兄と思ったことはない。


 俺より二年早く、俺と同じ親から生まれたカエデは間違いなく俺の兄なのだろうが、兄として見たことなんて、一度もないと思う。

 薄暗い部屋で背中を丸めて寝ている仕草、風呂上がりにアイスを求めて冷凍庫を漁る手、出掛ける支度を急かしてくる笑顔。

 見るたび見るたび、どうしようもないほど、狂うほど、恋心を煽られて、欲情する。


 いつからと聞かれたらそれこそ物心ついたときからそうなのかもしれない。

 これが兄弟の情ではないと気がついたのは早かった。七歳くらいだったかもしれない。暇つぶしに二人で読んでいた漫画にも、たくさん家族や恋愛は描かれていた。『これ』が

『どっち』なのか、少数の計算を覚えるよりは早く気付いていた。

 兄と弟ではなく、男と男として、カエデのことを愛している。



 体が大人になっても気持ちは変わらず、むしろ抱えきれなくなるほど加速していく。

 近所のコンビニで二人買い物した帰り道、アイスを一つ分けてもらったついでのように、言ってみる。

「カエデ、大好き」

 カエデは笑った。

「おれももみじのこと、大好き! 世界でたった一人の、可愛い弟だよ」

 ……何度こんなやりとりをして絶望したんだろう。

 嫌われているよりいい。カエデが俺の事を弟としか見ていないのは分かっている。

 でも、俺が、俺が一番カエデを好きなのに、カエデが一番俺の事を好きじゃなかったら、おかしい。

 知らない女にいつかカエデを奪われることを考えては、狂いそうになる。

 俺のものになるべきなのに。




「もみじくん、私と付き合おうよ」

「え、嫌だよ」

 と、言われたことを理解する前に、反射的に答えてしまう。

 だって言ってきたのは、フルネームすらよく知らないクラスの変な女だ。話したことすらろくにないのに。

「いいじゃん、付き合ってる人いないんでしょ」

「嫌だ」

 それからそいつは修学旅行がどうとか、クラスの空気がなんだとか、グループ学習がどうこうとか、言いわめきながらついてきた。俺はよく聞いてないし面倒だから、逃げ続けた。

 そいつは帰り道にまでついてきて食い下がる。

「メリットあるってわかったでしょ? 付き合おうよ」

「……お前、」

 嫌だって言ってるだろ、と返そうとして、その女の奥にいる人間が目に止まった。

 ――カエデだ。こっちを見てる!

 帰り道でたまたま出会えるなんて、幸運だろう。俺の頭はもうカエデでいっぱいになって、変な女なんてどうでもよくなる。

「カエデ!」

 大きな声を出して手を振ると、目の前の女は少し驚いたようだがどうでもよかった。カエデは笑いながらこちらに来る。

「もう帰り?」

「うん。カエデは?」

「バイト終わったからおやつ買ってきたとこ」

「俺のプリンある?」

「ないよ、よくばり」

 なんてことのない会話を交わすだけで心が安らぐ。変な女にずっとつきまとわれていたせいで凝り固まっていた心が、ほぐされているようだった。

「もみじくん、知り合い? この人、お兄さん?」

 こいつ、まだ居たのか。早く帰れよ、と俺が言うより早く、カエデがにこやかに返事をした。

「兄のカエデです。一緒に帰ってるとこ邪魔しちゃった? ごめんね」

「……いえ、別に。じゃあもみじくん、また明日」

 女はひるんだようにどこかへ消えていった。カエデはすごい、俺がどれだけやっても追い払えなかったあいつを、挨拶しただけで退散させてしまった。何度惚れ直したってカエデは輝いていて、格好良くて、かわいい。バイト帰りで少し乱れたダサい茶髪も世界一キュートだ。

「カエデ、お茶いれてあげるからおやつ一口ちょうだいよ」

 俺が甘えると、カエデは俺を見て笑う。

「一口だけな」

 許してくれるのが嬉しくて、でも許してくれるのは俺が『弟』だからなんだろう、と思うと苦しい。



 親はまだ帰ってなかった。帰りは夜中だろう。それまで俺とカエデは二人きりでいられるというわけだ。

 帰った俺はさっそく茶を沸かす準備を始めた。カエデは俺の素早さに苦笑いする。

「そういえばもみじ。あの女の子、彼女?」

 どき、と胸が凍り付いた気がした。俺は平静を装ってカエデの方を向く。

「違うよ、なんか今日まとわりつかれてたの」

「ふうん。でも、告白されたんじゃないの?」

 唇を噛みたくなった。どうしてそんなことを聞くんだろう? 俺はカエデしか好きじゃないのに。カエデは俺がカエデ以外を好きになってもいいからそんなことを聞くんだ。そんなの、ひどい。

「彼女なんか作る気ないよ、なんでそんなに聞くの」

「そりゃあ、大事な弟のことだからさ」

 弟。弟だから、兄だから、カエデはそればっかりだ。それが『普通』なのかもしれないけれど、嫌だ、やめて欲しい、そんなのもう言わないでほしい。

「……弟、って言うけど」

 気がついたら俺はカエデの胸ぐらに掴みかかるような体勢になっていた。俺に睨まれたカエデは、目を丸くしている。

「俺はカエデのこと、兄として見たことなんて、無いよ」

 ずっと思っていたことだけど、いざ言葉にしたら馬鹿みたいに緊張した。足下が崩れていくような感覚に襲われる。兄弟として近くにいられた特権を、手放すような愚行。

 それでもこれ以上、自分の気持ちをなかったことにしたくなかった。

「カエデのことが好きだ。兄弟としてじゃなく、男として、愛してる」

 カエデはずっと目を丸くして俺を見ていて、それから、少しずつ、表情を曇らせた。

 不安げに寄せられたカエデの眉に絶望する。ああ、言わなきゃよかった。でも、言わなきゃいけなかった。

「おれは、もみじのこと、弟だと思ってるよ」

 絶望的な言葉を返されて目眩がする。めまいが、

「……え、痛……」

 ――気がついたらリビングの床に倒れていた。

 あまりにもショックすぎて倒れたのかと、一瞬本気で考えたがそうではないようだ。

 カエデが俺の上に乗っていた。カエデに倒されたように、見える。

「おれは、おれはずっと、かわいい弟だと思ってるのに、なんでそんなひどいこと言うの?」

 悲しそうな顔で、曇った瞳で、カエデは俺にそう言って……俺の唇を、ついばむように、食む。

「もみじ、可愛い、俺の弟、大好き……」

 あまりのことに、頭が動かない。今、なにが起きているんだろう? カエデは、何をしてるんだろう。

「きょうだいじゃないなんて、言わないで、もみじ。おれ達、ふたりだけの兄弟だよ」

 ズボンのベルトを外されて、下半身が半端に脱がされていく。脱がされているな、と思うだけで、どうしていいのか分からない。喜ぶべきなのか、いぶかしむべきなのか、怒るべきなのか、なにもわからない。

「でも、おれのこと好きって言ってくれたのは嬉しい。好きだよ、おれも愛してる。もみじ、見てて。兄弟だからこんなことするんだよ、おれたち」

 そう言いながらまたキスされて、嬉しくなってしまって、どうしていいのかわからなかった。

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