弟は鏡に映らない
美術教師の言いたいことをまとめるとつまり、
「今週中に、居残りをしてでも自画像を完成させなさい。みんな終わっているし、一人だけ終わらないとなったら成績はつけられない」
ということだった。
放課後の美術室に俺は一人、何も手をつけてない画用紙を抱えたままぽつんと座っている。どうやら本当にみんな、ちゃんと自画像を描き上げているらしい。
自画像なんて描けるわけがない。高校に上がったら美術は選択制らしいから、絶対に取らないことを心に決める。
何もかもに腹が立って、手に持った真っ白な紙を破きたくなった。無駄に大きな紙。こんなものに、自分の顔を描けって?
紙を破くため手に力を入れた、その瞬間。
「潮、何してんの」
「……兄ちゃん……」
兄が美術室に入ってきた。いつも通り、太い眉をハの字にして、俺の手から画用紙を優しく奪う。
「これに絵描くんだろ。いま破こうとしてなかった?」
「だって……自画像なんて描けるわけないから、むかついて」
「だから俺を描くって、潮、お前それ本気なの?」
笑って、兄は俺の方を向きながら一つ前の席に座る。
そう。兄の海と俺は、双子の兄弟だった。自分の顔が描けない俺は、兄の顔を描こうとして美術室に呼び出したのだ。二卵性ではあるものの、俺たちはよく似ていると評判だから。
「俺は本気だよ、兄ちゃん」
「……先生に、描けないって相談してみるとかは?」
「ヤダ。こんなの、信じてもらえると思えないし」
俺は鏡にも写真にも映らない。うんと小さい頃は普通に映っていたはずなのに。周りの人間は、鏡に映る俺が見えているらしいのに。
俺にだけ、俺が見えない。
だから自画像なんて描けない。
納得したのか諦めたのか、兄は大人しく座っている。写真だと分からないから、と言い張って呼び出したが、本当は俺が心細いだけだったのかもしれない。
自分のことなんて分からない、何も。
真っ白だった紙に兄が描かれていく。絵を描くこと自体は別に苦手じゃない。特別うまいわけでもないが、授業の成果としては十分だろう。今日中に終わるはずだ。
「潮」
「……なに?」
兄は微笑んで、
「俺は潮の味方だから、困ったことあったらいつでも呼んでいいからな」
「……あっそ。じゃあ俺も、兄ちゃんの味方してやるよ」
放課後の美術室で、筆を片手に、カッコつけて笑って見せる。
本当は兄がそう言ってくれたことが泣きたいくらい嬉しかった。
切っても切れない絆のある片割れが、そばにいてくれることが嬉しかった。
海が俺の兄ちゃんでよかった。
海の弟でいられて、よかった。
「再提出です」
美術教師はちらりと俺の絵を見ただけでそう言ったから、正直泣きそうになった。自画像じゃないけど、なかなかいい絵だったのに。
「相田さん、確かに絵は描けてるけどね」
「これじゃ、ダメですか……」
泣きそうになりながら美術教師に聞くと、彼女は厳しい顔のまま頷いた。
「だってこれ、お兄さんでしょう?」
「……なんで、そう思うんですか。私かも……」
「いくら二人がそっくりでも間違えたりしませんよ」
だって、と、彼女は続けて、
「男の子と女の子じゃ全然違うし、そもそも制服も違うでしょ? ふざけないで、ちゃんと描きなさい」
そのあとどうしたかあまり覚えていない。適当に頷いて家に帰ったのだと思う。
家には誰もいなかった。親は仕事だろう。兄は遊びに行ったのかもしれない。
俺は家にある一番大きな鏡の前に立つ。
俺は鏡に映らない。
鏡なんて、いつ見たって不機嫌そうな女がこっちを見ているだけで、俺が映ったりはしない。
「諦めればいいのに」
と、鏡の中の不機嫌そうな女が、スカートを邪魔くさそうに揺らしながら、そう言った気がした。
諦めればいいのに。
そうかもしれない。
でも、何を諦めたらいいんだろう。
床に、兄を描いた絵が落ちていた。美術教師に突き返されたから持って帰ってきたのだ。
この絵が鏡ならよかったのに。兄が俺の鏡であれば、それでいいのに。
堪え切れず涙をこぼしてしまう。そうすると鏡の中の女も泣き出す。
お前なんかが泣くな、と呪って、そんな呪いが虚しくなってまた泣いた。
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