弟をとにかく守ってやりたい
「なあ頼む。弟の初恋、応援してくれよ」
弟はそう言って僕に頭を下げる。
僕はしぶしぶ頷いた。
僕のクラスメイトに吉野という男がいて、孤立している。
たいそうな金持ちの家らしいのだが、ヤのつく仕事をしているだとか、本人がものすごい不良だとか、そんな感じで孤立している。どこまで真実かなんて僕は知らない。
で、弟のクラスメイトにも吉野という子がいて、保健室登校をしているらしい。
怪我をした弟が保健室で偶然見かけた吉野さんは、それはもうかわいい女の子だったそうだ。
で、ちらりと見ただけの吉野さんに、弟は完全に骨抜きにされてしまった。そして僕にこう頼んできた。
「吉野さんって三年生にきょうだいがいるんだって、保健室で見たとき聞いたんだ」
「盗み聞きでしょ?」
「兄貴ってそういうの細かいよな……とにかくさ、兄貴と同学年ってことじゃん?」
「……まあ、そうだね」
「頼むよ、吉野さんの連絡先、そのきょうだい経由で手に入らない?」
漫画の恋愛だってそんなに回りくどくないと思うぞ、と弟には何度も言ったが引き下がらず。
可愛くないところも目立つが大事な弟でもある。
なんだかんだ次の日、僕は吉野に話しかけていた。都合がいいのか悪いのか、吉野の席は隣だ。
「吉野おはよう。今暇?」
「……うん、暇だけど、なんかあった?」
吉野は薄く笑いながら、穏やかに応対してきた。彼は普段孤立していて人と話している印象がないので、意外だ。けれど提出物やらなんやらでトラブルを起こしている印象もないから、つまり『普通』ができるということなんだろう。
「今日、古文あるでしょ? 前の授業よくわかってなくてさ、吉野って古文得意みたいだから、良ければ教えてくれないかなって……」
嘘ではなかった。前回の授業は理解できた自信がないし、吉野は古文が得意らしいかった。
「ふうん、柿山くんってそんなに古文苦手だっけ」
彼が僕の名前を知ってたことに、少なからず驚いた。吉野という男は孤立しているだけでなく、人に興味がないように見えたから。長い体を折りたたむように座って、さらさらした黒髪を揺らしながら、なにもかもどうでもいいような顔で……いつでも外を見ている。そんな印象だ。
「あ、……ああ、まあ、苦手かな」
「俺と仲良くなりたいの?」
核心を突かれて、僕はとっさに目をそらしてしまった。隠し事は苦手だ。
「あはは、そんなビビんないでよ。そういえば柿山くんってさあ、一年に弟いるよね?」
心臓が跳ねる。何もかもばれているんだろうか、と背中に汗が伝った。
「俺もいるの。一年に、きょうだいが」
奇遇だね、と小さな声で返した。ちゃんと聞こえていただろうか。
「で、兄貴。どうだった?」
「どうもこうもないよ……」
帰宅するなり第一声がこれだ。弟ののんきさに頭痛がする。
「多分バレてない、連絡先なんかまだ吉野のももらえてない、基本無理だと思ってあきらめといて」
「えぇ~」
「無茶なお願いだって、お前も分かってるだろ。……だからって、保健室でナンパみたいなことするなよ?」
「わーかってるって。対人キョーフショウかもしんないし」
問題はそれだけじゃないんだけどな……と思いながら弟の背中を見守る。まあ、その程度の思慮があるだけいい、と思うべきなんだろうか。
あのあと吉野とは普通に……普通のクラスメイトのような当たり障りない会話だけした。
弟たちの話が会話のあちこちに出てきたが相手の妹はどんな子なのかわからなかった。……なんだか探られているような気がしないでもない。
「そういえば亮太」
弟を呼び止める。
「なに?」
「クラスメイトの吉野さんって、なんて名前なの?」
「……紫苑って言うんだって? 可愛い名前だね、妹さん」
朝の挨拶もそこそこに、隣席の吉野にそう言ってみる。弟に彼女の名前を聞くのは不自然なことではないし、そこから妹の話につながれば、まあ、なにかしら有利に働くだろう。
しかし吉野はなぜか、愉快そうに笑っていた。そして、
「あはは、紫苑は妹じゃないよ」
「え? でも……」
「ああいや、確かに一年生にいるきょうだいは紫苑だよ。えーと……」
何かを考えるように、顎に手を当てて、
「紫苑、昼休みに……柿山くんが保健室に来ても良いって言ってた。来てみる?」
別にこんな誘い、乗る必要もないのだ。彼女に会いたいのは本当は弟なんだから。
けれど拒否するのも変な気がして、僕は頷いていた。妹でない、という言葉の真意も知りたかったからだ。
昼休みの保健室は静かで、ドアには養護教諭が数時間不在にする旨が書かれていた。
「えっと、吉野……事前に聞いておきたいんだけど、」
「なに?」
「妹さん……じゃないのか、紫苑さんって保険室にいるんだろ。会うとき、何か気をつけておいたほうがいいこと、あるか?」
「ああ、大丈夫だよ、あんまり気にしないで」
そう言って吉野は長い腕でガラガラと、保健室の扉を開く。
他の教室とは明らかに異質な、消毒液のにおいがする部屋には、ひとつだけカーテンの閉まったベッドがあった。
「……来たよ」
そのベッドに向かって、吉野が呼びかける。聞いたこともないような、優しい声で。
「開けて良いよ」
カーテンの奥から聞こえたのは、細くて予想よりも低い、かすれた声。
吉野が慣れた手つきでカーテンをたたむと、向こうには、
「こんにちは、吉野紫苑です」
……なるほど、たしかに弟が一目惚れをしても仕方のないような、美しい人が制服を着てベッドに座っていた。肩まであるつややかな髪が、セーラー服の青と灰色が、大きな瞳を囲む長い睫も。とにかくいろんなものが、その人の美しさを引き立てているようだった。
けれど先ほど聞こえた声はおそらく、
「女子制服を着ているから、大体の人には女子に見られるんだ。男子だよ」
「紫苑は妹じゃなくて俺の兄。体が弱いのとかいろいろあって、俺より学年が下だけど……俺たちより年上だよ」
「そ……そうだったんですね、すみません、知らなくて……」
頭に弟が失恋する絵が描かれる。
「えっと……答えにくかったらいいんですけど、女子制服着てる、理由は……?」
「スカートのほうが、脱ぎやすいと思ってたんだ」
と、当然のように微笑んで答えられた。僕が困惑していると彼女……いや、彼は続けて、
「でも、スカートはスカートで不便だったね。上着なんて明らかにややこしいし……失敗したかな」
「お、……お似合いですよ」
「ふふ、ありがとう。……ごめんね、疲れちゃったから、あとはハルと二人にしてくれる?」
ハル、というのが吉野のことだと、一瞬経ってから気が付く。そういえば、晴樹という名前だった気がする。
「あ……はい、すみませんでした。失礼します」
「じゃあね、柿山くん」
「ばいばい」
吉野兄弟が僕に手を振る。吉野は当然のように紫苑さんのベッドに乗りながら、俺を見送っていた。
保健室のドアを閉める、最後の一瞬。
二人の唇が触れあっているのを、はっきりと見た。
そして、紫苑さんが、弟とキスしながら僕をしっかり見据えているのを。
弟には、紫苑さんには心に決めた人がいるから諦めろ、とだけ伝えることにした。
年齢だとか、性別だとか、そういうのはおそらく言う必要もない。
弟はがっかりしながらしばらく落ち込んでいたが、すぐ元気になった。
僕は、なぜ紫苑さんに「招かれた」のかを、少しずつ理解していく。
きっと僕と同じだったんだろう。
弟に不審な人間を寄せたくない。弟が大事だから。
それだけのことだったんだろう。きっと。
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