弟が妹になるわけない

 久々に会いにいくと、弟は妹になっていた。聞いてはいたけれど実際に見ると驚く。俺を出迎えて、薄緑のふわふわしたニットをふわふわ着た、弟か妹がわからない存在が笑う。

「兄さん、久しぶりだね。こんにちは」

「こんにちは」

「麦茶でいい? 座ってて」

「お構いなく」

 言いつつ、リビングの椅子に座る。前に弟の家に来たのはいつだっただろうか。

「どうぞ、麦茶」

「どーも」

 元気そうだし弟だった時より礼儀正しいし、なんか別に問題ない気がしてきた。呼び方は「いとうと」とかでどうだろう。いや、普通に妹でいいのかもしれない。でも弟だった時は俺の名前を呼び捨てだったのに、「兄さん」なんて呼ばれてしまった。俺も変えた方が……いや……うーん……まあどうでもいいか。

「急にどうしたの? なにかあった?」

「いや……母さんがさ、車出して買い物連れて行ってやれって言うから」

 本題を切り出すと、妹は嬉しそうにした。

「ああ、そう。ちょっと遠いところのお店だし、たくさん買いたいからバスかなって話をお母さんとしてて。連れて行ってくれるの?」

「いいよ、その代わり夕飯食わせて」

「もちろん」

 妹になってしまったことには驚いたが、妹自身は楽しそうにしている。家の様子も伺ってみるが、整頓されているし、なんだったら綺麗に飾られている。よくわからない草とかが壁にあったり、机になんかの花とか布があったりして、まあとにかく生活に問題はないらしい。

 こんなにまめなことができるやつだったのか、と少し驚いて妹を見る。弟だった時代のこいつは、テーブルクロスに味噌汁をこぼすのが得意技だった。母さんがそれを叱っている間に俺が醤油をこぼす。そういう兄弟だった。

 テーブルクロスはしみひとつない、綺麗な白だった。

「いこうか」

「はーい」



 結論から言うと店に着いて五分ほどで俺は安請け合いしたことを後悔していた。

「混みすぎ、平日の昼だぞ」

「だって大人気だもん。兄さんあそこのブラックベリー取ってきて」

「まだなんとかベリーが必要なのか……!? どんだけ買うんだよ、食いすぎて爆発するぞ」

「しません! たくさん買って、お料理して冷凍するんですー。めったに来れないところにあるし、買いだめしたい……」

 妹は予想以上にこの店に来るのを楽しみにしていたらしい。巨大なスーパーにしか見えないが、なにがそんなに良いんだろうか。恐竜やロボットがデカくて強いと嬉しいのと同じなんだろうか。

「でももうベリーはいいって。いつでも連れてきてやるからさ」

「……兄さん、暇なの?」

 妹は首を捻る。照れ隠しに違いないと思うが、可愛くないやつだ。

 可愛くない妹のために結局ブラックベリーもカゴに入れ、大量の買い物をしてほとんど俺が持ち、おまけに『いつでも連れてきてやる』ことを約束させられた。俺なんか悪いことしたのかな。これってその罰なのかな。

「兄さんありがとう、お礼になんでも夕飯リクエストしていいよ」

「豚の角煮……」

「ごめん、豚肉ないや」

「嘘じゃん……」

 あんなに買っててどうして豚肉がないんだろう。どうして豚肉すらないのになんでも、なんて言うんだろう。妹ってひどいな……。でも弟の時から酷かった気がするな……。

 最後の荷物を家に運び込んで、俺はリビングの床に座り込んでしまった。体力よりも気力が限界だった。

「ごめんごめん。アヒージョ作ってあげるから許して」

「それ絶対酒飲みたいやつじゃんか。俺車だぞ」

「泊まっていきなよ」

「……そうしようかな」

 俺が誘惑にあっさり負けてみせると、妹は笑いながら、アヒージョに使うらしい材料をキッチンに並べはじめた。


「できた」

「なんで米と味噌汁あんの?」

「余ってたから」

「三人前も余らすなよ……」

 アヒージョの横にはバゲット。さらに赤ワインのボトル。……さらに白米の盛られた茶碗が三つ、味噌汁の入った椀が三つ。

 きれいなテーブルクロスの上にはめちゃくちゃな光景が広がっていた。

「いいじゃん、アヒージョとご飯も合うかもよ」

「酒飲む時米食わねえし」

「えー……って、もうボトル開けてる」

「明日の朝飯にしようぜ」

「うーん……」

 俺はグラスにどぼどぼとワインを注ぎながら提案する。妹はどうしても米と味噌汁を食わせたいらしい。多分、温めてしまったからまた冷やすのが面倒なんだろう。そういうやつだ。

「味噌汁だけでも飲んでよ」

「マジでそれ酒の後だろ……」

 不満はあるが、これ以上言い争うのも面倒なので従うことにした。味噌汁に向かって「いただきます」と手を合わせて、口をつける。予想以上に旨いが、じゃがいもの味噌汁なんか実家では出なかった。妹になった影響なんだろうか。

 俺の向かいに座った妹は、家の奥にある部屋を気にしてるようだった。

「ていうか、りっくんまだ寝てるのかな。りっくーん! ご飯できたよー!」

 妹は奥の部屋に向かって声をかける。返事はない。

「まだ寝るんだって、すごいね」

「へえ、ずっと寝てんの?」

 うん、最近夜勤だから、と妹が辻褄を合わせるのを聞く。妹も味噌汁に手を伸ばして飲み始める。

 弟の名前は陸と言って、三年前に、同級生だった華奈という女性と結婚した。

 華奈は翌年に事故に遭って、帰らぬ人になり、陸はしばらくの間、ショックで食事すらまともにできなくなっていた。

 味噌汁にはじゃがいもと玉ねぎが入っている。玉ねぎは、実家でもたまに味噌汁に入っていた。

 妹はきれいに味噌汁を平らげる。もう、テーブルクロスにこぼしたりはしない。それは多分、妹になったからじゃなくて、大人になったからなんだと思う。

「華奈さん」

「なに? 兄さん」

 妹が返事をする。

「……やっぱ、最高でも月一くらいの頻度にしようぜ、あそこ行くの」

 しょうがないなあと妹は笑って、ワイングラスを手に持った。

 俺は妹の持つグラスに自分のグラスを合わせて、音を立てさせる。

 ワインが少し跳ねて、テーブルクロスに小さな染みができた。

 洗えばすっかり落ちてしまうようなささやかな変化だった。

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