神になった弟と暮らしている
弟と二人で暮らしはじめてからどれくらいが経っただろう、と俺は玄関に座りながら呟いた。
「ご結婚された日から数えますと、ちょうど次の満月で二百年になるようですよ」
答えを求めた訳でもない質問なのに、行商人は用意していたようにすらすら喋った。
「カエデ。何回も言ってるけど、俺たちは別に結婚したわけじゃないんだ」
ええ、ええ。そうでしたね、と。行商人のカエデは笑ってみせる。彼は定期的に我が家まで訪問して、あらゆる種類のものを売りに来る。俺は別に弟と結婚したつもりはないけれど、彼の理屈の上では、間違いなく俺たちは夫婦であるらしい。ただの人間である俺がこんなに長生きしていることこそが、神と結婚した証拠なのだと。
五歳の時に山の中へと消えた弟は、二十年ほど経ったある日神として村に戻ってきて、村で暮らしていた俺をさらっていった。その日から、俺たちはずっと一緒に暮らしている。
「ともあれ、二百年のお祝いになにか、特別なものでもお持ちいたしましょうか」
カエデはにこにこと俺を見ている。特に欲しいものもなくて、俺は首を傾げた。別に祝うような事でも無いと思うが、弟はどう思うだろうか。弟がめでたいことだと思っているのなら、俺としても何かしてやりたい気持ちはある。そんなことを考えていると、家の奥から玄関に向かってくる気配があった。弟だろう。
「……ふもとの村はまだあるか」
予想通り、弟の眠たそうな声が聞こえた。俺は振り返る。
「おはよう、シイ」
「おはようございます。村なら、形を変えてまだ残っていますよ」
振り返った先にはまだ寝間着姿の弟……シイがいて、カエデの返答に満足そうに頷いていた。
「村が残っているなら、満月の日には祭りと供え物があるだろう。……兄さんが、それ以外で欲しいものがあれば頼めばいい」
優しい声で言いながら、シイは後ろから俺を抱きしめる。どうやら祝いたいようだが、特段カエデに頼むものもなさそうだ。祭りがあればたいていのものは供えられる。野菜、餅、米、酒、果物、魚、菓子……生活の中で、それ以上に必要なものがあるだろうか?
「俺は別に、ないかな。お前が食べたいなら、供え物で料理でも作ろうか」
俺の首に顔を擦りつけていたシイは、それを聞いて嬉しそうに目を細めた。弟は俺の上手くもない料理が好きらしく、気が向いた時は食料を適当に調理してやることにしていた。
「兄さんは無欲だし、俺に優しい」
シイが歌うように呟く。弟は何も喋らず背筋を伸ばして立ったりすると大変凜々しいが、俺に纏わり付いてやる気無く溶けている姿も俺は嫌いじゃない。
「ああでも、そうだな。……なにか花でも、兄さんに贈りたいな」
「花? 俺に?」
「そう。贈りでもしないと、兄さんは花を見ないだろうから」
確かにそれはその通りだった。花に興味はあまりない。家の周りの目立つ花くらいは分かるが、瞬く間に咲いては散ってしまうから、何かを感じる暇も無い。
「でもお前からの贈り物が萎れたりしたら、なんだか悲しくなるしな」
俺がそう言うとシイは少し赤面した。嬉しかったらしい。
「じゃあ、良い匂いか味のする花を、カエデに調達してもらおう。いいか?」
「ええ、もちろん」
行商人はにっこりと頷いて去って行った。なるほど。花も食えばいいのか。
「花を食べるなんて、考えたこともなかったな」
俺に抱きついたままの弟を引きずるようにして、家の中へと戻る。
「そうなの?」
「うん。食える植物なら花じゃなくて、その後の実を食うだろ」
「そうか」
弟は頷きながら、ようやく俺から離れる……と思いきや、寝室に戻るなり今度は正面から俺に抱きついてきた。
「俺は一人で暮らしていたとき、花をよく食べてたよ」
そうか、と頷きながら俺は胸が締め付けられるような思いをしていた。
弟はずっと、俺の事を好きでいる。生まれてから今日まで、二百年以上もずっと。
どうして俺の事などを好きなのだろう。
弟を山に置いていったのは俺なのに。
川で水浴びをしてから村に戻ったら、まだ日が昇ったばかりなのに騒がしくて、子供が殺された、とちょっとした騒ぎになっていた。心臓が嫌な跳ね方をする。
騒ぎが大きい所へと向かってみると、弟が大人達に囲まれていて、弟の足下に血まみれのアオが倒れていた。アオは俺の一つ上で、七歳の子供だ。意地悪で、年下の子供はしょっちゅうアオにいじめられていた。
「シイが殺したって」
「どうして」
「どうしよう」
大人達がそんなことを言っていて、俺はめまいがした。
気がつくとアオの死体はどこかに消えていて、俺はシイと手を繋いでいた。
「子供だから、罰を与えたりはしない」
「でも悪い事をしたから」
「次の新月まで山で過ごしてもらう」
「ナラが送り迎えをしなさい」
俺はただ頷いていた。頭をかき混ぜられたような気分で、胸が痛くて、地面が柔らかくなってしまったような気がした。シイがアオを殺して、シイがナラの弟で、ナラが俺だから、シイを山に連れて行かなきゃいけない。
「……いこう、シイ」
「うん、兄さん」
弟は素直だった。特に俺の言うことならなんだって聞くような奴だった。
俺たちは二人で山へ向かう。俺は少しだけ安心していた。シイが殺されるわけじゃなくて、ただ山で過ごしていればいいんだと思うと、気が楽になった。
二人に持たされた弁当はほんの少しで、山には獣がたくさんいるけれど、俺はそんなことを知らない振りして山を歩いていた。
しばらく進むと、弟が俺の手を引っ張る。繋いだ手はもうすっかり汗ばんでいた。
「兄さん、もう歩けない」
「そうか」
どこまで行け、とは言われていない。ならここで終わりにしてもいいのかもしれない。俺だってこれから村に戻らなければいけないんだ。あまり奥まで行くと危ない。
俺たちは木の根元に座って、二人で弁当を食べた。
「次の新月に、また兄さんが迎えに来てくれるの?」
「そうだ」
罪悪感なのか、悲しみなのか、俺は食事も会話も満足にできなかった。ただ、弟の言葉に頷く。
「だから、また俺と暮らせるまで、ちゃんと生き延びるんだぞ」
「うん」
素直に弟は頷いた。弟は俺の言うことをなんでも聞く。だからきっと生き延びようとしてくれるだろう。そう思ったら、俺は涙を流していた。
「兄さん、どうしたの」
「なんでも、ない。ごめん。ごめん……」
五歳の弟が生き残れるはずがない。生き延びたとしたって、きっと新月の頃には全然違う場所にいて、巡り会えないのだろう。ずっとここに居られるはずがない。弟が不憫だった。けれど代わってやりたい、なんて思えなくて、それが情けなくて、どうしようもなかった。
「大丈夫だよ兄さん」
「でも、シイ、シイ……」
「とどめを刺したのは本当に俺なんだ」
でもやっぱり、アオを殺したのは、俺だと思うよ。
わざとじゃなかった。
早朝の誰も居ない時間に、ちょっと外を歩こうとしていたらアオが話しかけてきた。俺とシイの悪口をずっと言ってたから、腹が立って突き飛ばしただけだった。
あんなに、勢いよく倒れて、頭を打って黙ってしまうなんて、思わなかった。
きっとその様子をシイは見ていて、「とどめ」をしていたら見つかってしまったんだろう。俺が最後に見たとき、アオはあんなに血まみれじゃなかったから。俺は川に逃げて一人でずっと泣いていたから、詳しくは知らない。
言えばよかった。弟を危険に晒すくらいなら。
けれど俺は言えなくて、結局、次の新月になっても山へ置き去りにした弟は見つからなかった。
死んでしまったんだろう、と村のみんなで言い合った。
俺じゃなくてよかったと思ってしまった。
「俺が二百年も生き延びるとは思わなかった」
「うん、俺も。兄さんが生きてくれてるのは、嬉しいけど」
二人で抱き合ったまま寝室の布団に倒れて、そんな会話をする。
俺は何度目かの質問を弟にした。
「お前は、いつ俺を殺すんだ?」
少し間があって、
「絶対に死なせてやらないよ」
弟は綺麗な笑顔でいつも通りの返事をした。
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