あいつほかの弟がいやがる

 兄にどうやら俺以外の弟がいるらしくて俺はもう頭がおかしくなってしまいそうだった。そんなことあるか? 兄貴って俺の兄貴なんだぞ? 浮気より重い罪であるべきだろ。

 俺は冷静じゃなかったが、冷静じゃない自覚くらいはできたので深呼吸をする。吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて吸って吐く。

 兄の家を思い出す。電車で一時間、バスで二十五分。ミントグリーンだった壁の色が落ちて、なんとも言えない雰囲気を醸し出している一軒家。一回しか行ったことがないその家は俺の父の家でもあるのでもしかしたら『実家』という扱いになるのかもしれない。変なの。

 俺は理性が一応残っていたのですぐさま電車に飛び乗るような事はせずに荷物の準備をする。ハンカチ、ティッシュ、タオル、念のため下着と簡単な着替え、歯ブラシ、それから小さいハンマーも持って行くことにする。よし。湘南新宿ラインで池袋まで行き、そこから西武池袋線で乗り換え。なるほど。どうして同じ県内なのに一度東京を経由しなければいけないのだろう、と特急チケットを予約しながら電車の中でぼんやり考えるが、まあ、埼玉というのは東京に行きやすいのが取り柄なので、そういうことなのだ。

 というわけで二回ほども県境を越えながら兄のいるはずの街にやってきて、住宅街というのは目印が少なくて家が思い出せずにやや迷っていた。

「むっ」

 思わず小さな呻き声を上げてしまう。兄の気配がした気がする。俺は道から少しそれて、身を隠すようにする。

「――て、まあ言うとおりなんだけど……」

「あはは」

 談笑が聞こえてきた。……片方の声は、明らかに兄貴だ!

 もう一方の声は、明らかに若い男のものだった。少なくとも父親ではない。……これが、俺の知らない、兄の弟、なんだろうか。喉が強ばり、こめかみに汗をかく。視界が回る。

 ――勝たなければ。

 そう思った。何をすれば良いのかよく分かっていないが、戦って、勝たなければ。兄貴の弟にも、そして兄貴自身にも。

「でも先輩の方も変で、」

「そうなの?」

 朗らかな声は近づいてくる。どこが二人の家なんだか俺は未だにマップアプリで見つけられていないが、とりあえず俺の居る方に歩いているのは確からしい。俺は意を決して道へ飛び出した。

「よう、久しぶり!」

「……あ、タクミ」

「……?」

 飛び出すと、記憶のイメージとは少し違う、地味な髪色になった兄と、その横で困惑する若い男がいた。

「どしたの、もしかして父さん達に会いに来た?」

「……まあ、そんなとこ」

 曖昧な返事をする。父さんも、父さんの今の配偶者にも正直あんまり興味はない。俺にとって家族というのは兄を指す言葉であり、弟というのは俺……つまり兄の家族を指すと思っている。

 しかしこの、兄の横で首を傾げている、エレキギターよりドラムよりティンパニに憧れます、みたいな顔した、お上品で繊細そうな見た目の男が……兄の弟かもしれないのだ。その事実に俺の胸は刺される。

「あ、そういえば二人、初対面だっけ?」

 兄ののんきな言葉に俺と知らない男は無言で頷く。兄はそれが義務でもあるように、まず俺の知らない男を手で示して、紹介する。

「シオリさんの息子さんで、俺の弟。ケンタくん」

「あ、はじめまして。ケンタです……」

 そのあと相手はモニャモニャ言っていたが俺の頭には入らなかった、俺の頭には要らなかった。『俺の弟』と兄貴が言ったことだけが全てだった。俺の弟。兄の、弟。そしてそれは俺じゃ無い。そんなことがあり得るのか? あり得て良いはずがないのに。

「そんでこっちは父さんの息子で、俺の弟。タクミ。タクミの方が年上だっけ」

 視界が回る。泥酔したときみたいだ。あるいは高熱を出して寝込んだ時みたいだ。地面が柔らかくなる気がする。視界がぼんやりする。見慣れた兄の不自然なほど自然な茶髪が、隣に立つ男の嫌味なくらい艶やかな黒髪が、混ざる。

 悪夢だ。

「随分仲いいね、俺より仲いいんじゃないの」

 口からうっかり怨嗟と嫉妬を煮詰めたものがまろび出てしまったが、軽口の類いだと思ったのか二人は気を悪くするそぶりすらない。目を合わせて、はにかむような顔さえして、兄が知らない男に口を開いた。

「ケンタ。……言っても良い?」

「……あの、はい。そっちが、いいなら……」

 目の前で意味のわからない会話をされて不愉快だった。でも、兄がこちらを伺うような目をしているのがもっと嫌だった。

「あのな、タクミ。実は、」

 その時点で俺は耳を塞ぐか、ハンマーを取り出すべきだったのかもしれない。

「俺たち、恋人同士なんだ」

「………………………………え」

 目が回る。視界が回る視界が、目が、ぼんやり、世界が柔らかくなって、兄が、兄を、兄なのに、弟は、

「シオリさんに紹介されてから、」

 俺の、俺の家族は、

「でも結婚もできないし、」

 俺の家族は兄だけだと昔から思っていた。一番一緒に居るのは兄だった。一番俺の事を知っているのは兄だったし、一番俺が知っている人は兄だった。

「だから今は義理の兄弟だけど、」

 父の事は少しだけ嫌いだった。だから無理についていくことも無いと思っていた。それで兄との繋がりが消えるわけでもない。

「……あの、祝福して欲しいとは言いませんけど、」

 でも勘違いだった。

「俺達の事、拒まないでいてくれたら、」

 俺と兄の繋がりが消えなくったって、他の繋がりが出来てしまったら、それは実質、俺と兄の繋がりが希薄になるということなのだ。

「あのさ、」

 ようやく俺は声を絞り出した。我ながら変な声だった。

「実の弟と、恋人兼義理の弟だと、こう、繋がりの強さ的に、やっぱりさ、」

 兄は少し考えるようなそぶりをして、

「まあ、生まれたときから家族って決まっていた相手と、家族になろうと決めた相手だと、後者の方が思い入れは強いかもな」

 その後俺は自分の頭をハンマーで殴ってみたけどうまいこと気絶なんかできなくて頭がとっても痛くてこれぜったい腫れてるよって思ったまま大宮のアパートまで帰って家が静かで寂しくて兄が居なくてでも兄には俺じゃない弟と恋人が居るんだよなと思うと悔しくて悲しくて悔しくて妬ましくて頭が痛くてずっと泣いていた。

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